重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(前編)
2007年5月21日 - 8:14 PM | |今回報告するのは、今月16日にシアトルのワシントン大学において行なわれた「重度障害児に対する『成長停止』療法」についてのシンポジウムについて。ていうか無茶苦茶長いので取りあえず前半だけ。論争の発端となったのは、アシュリーと呼ばれる女の子をめぐる一つの症例。彼女は生まれつき重度の知能障害を持っており、生後3ヶ月の赤ちゃんと同程度の知能しか持たないとされるばかりか身体的にも手を挙げたり足で歩いたりは不可能な状態だが、それ以外は健康だったとされている。両親は彼女を一生自宅で介護していくつもりでいるが、彼女の身体が年齢相応に成長すると介護や外出のために彼女を持ち上げたり移動させることが困難になり、またベッドの上で身動きのできない彼女自身にとっても身体的に大きく成長することは負担であると考え、一時的なホルモン投与と外科手術によって彼女の成長を抑止するよう医師に求めた。ワシントン大学付属のシアトル小児病院は倫理委員会を開いてこの要求について審議したうえで、40人の委員全員の賛同のもとに、彼女が6歳の時点(3年前)でホルモン投与と子宮・乳腺の摘出を行なった。
この症例は昨年10月の Archives of Pediatric and Adolescent Medicine に報告され、その時点でわたしの別ブログでも取り上げたのだけれど、その後アシュリーの両親が彼女に対して行なわれた療法を「アシュリー療法」と呼び「同じ状況に悩んでいる他の親のため」と称してブログを公開したことにより再び話題となり、各障害者団体による抗議活動も活発となった。また、今月に入ってから障害者の法的権利擁護を任務とする独立機関 Washington Protection & Advocacy System(連邦法により各州に設置が義務づけられており、障害者の権利侵害を調査する)がこの件に関する報告書を発表し、子宮を摘出した部分がシアトル小児病院は発達障害者の不妊手術には裁判所の許可を必要とすると定めた法律に違反すると指摘した。シアトル小児病院もこれを受け入れている。そして開かれたのがこのシンポジウムだ。
まずはワシントン大学で法学と障害学の教授をしている Paul Steven Miller とシアトル小児病院の Benjamin Wilfond によるイントロ。 Miller は「成長停止」をめぐるこれまでの論争を軽く紹介し、意見の相違はともかくみなが「その子にとっての最善は何か」に関心を持っている、とまとめたが、後に紹介するようにこれはあまりに単純な見方だということが明らかになる。 Wilfond はシアトル小児病院内に設置された「小児医療倫理センター」に所属する立場から医療倫理とは何か、WPAS の報告書の内容はどういうものかといったことを述べ、このシンポジウムが対話のはじまりであり終わりではない、といったことを話した。
次の発表者はマイアミ大学小児科の Jeffrey Brosco 医師で、古代ギリシア・ローマ時代から現代にわたる医学の歴史と医療倫理の発展について。 Brosco は Archives of Pediatric and Adolescent Medicine に「アシュリー療法」についての論評を寄せており、その中で成長停止は「間違っている」と主張していたが、科学の史的研究で博士号を取ったという異色の経歴を持つ医師にしてはかれの歴史観はあまりに単純に思えた。かれの描く歴史によれば、医学の歴史は一貫して良い方向に向かっており、特に障害者運動は既に「勝利した」とされているようだ。しかしそれでは、なぜ障害者団体がこれほどまで「アシュリー療法」の拡大を恐れ、抵抗しているのか分からなくなってしまう。事実、Brosco は成長停止の対象となり得る子どもが「毎年2万人いる」と言っており、とても「障害者運動は既に勝利した」として安心してはいられない。
Brosco が言った中で一番興味深かったのは、現代医学における技術的要請 technological imperative についてだ。かれによれば、現代において医者は抗生物質、ワクチン、手術といったさまざまな医療技術の提供者となり、あらゆる問題に医療技術によって対処することが期待されるようになった。その結果、わたしたちの社会は医療技術の力を過信し、また過剰に依存するようになっている。その一例として、以前は「どうしようもないこと」とされてきた人々の身長まで、医療技術によって解決される問題とされるようになったーーアシュリーの件だけでなく、70年代頃までは身長の伸びが早い女の子の成長をホルモン投与によって停止することが行なわれてきたし、現在では身長の低い男の子に成長ホルモンが投与されている。しかし、Brosco が挙げる「医療による人権侵害」の例はタスキギ人体実験をはじめ全て過去の話ばかりで、現在でも例えば刑務所の囚人やアフリカの人たちを対象に、それと大差ない研究が行なわれていることは直視していないように見えたのが残念だ。
Brosco は、「アシュリー療法」はわたしたちの社会が重度障害者やその家族のための十分な在宅介護支援が整っていないことの皺寄せであると理解しており、わたしたちは「アシュリー療法」をそうした社会的問題への最終的な解決にしてはならないと主張しているが、しかし現状においてそうした医療を禁止することにも疑問を抱いていたようだ。そして、かれは障害児の権利を守り、家族ら介護者に負担を押しつけないためにはどのような方法が必要か、そしてどういう条件であれば「成長停止」を容認できるのか、と問いかけた。
次のパネルはシアトル小児病院において行なわれたアシュリーの症例についての報告が行なわれた(残りのパネルは、個別の症例ではなく成長停止という医療についてより一般的な議論)。報告者の一人、Doug Diekema はシアトル小児病院の「小児医療倫理センター」に所属する医療倫理の専門家としてこの症例に関わり、医学誌に発表された論文の共著者ともなった人物だが、「わたしは、たまたま幸運のカードを引き当ててこの件に関わりました」という語りはじめの時点で既にイヤな印象。報告の内容はだいたい論文で読んだ通りなので省略するけれども、かれの話を聞けば聞くほどいかにこの症例において倫理委員会が機能しなかったか痛感させられた。たとえば、かれの話によると医師たちは当初はアシュリーの両親の要求に「とんでもない!」と反応していたが、父親のプレゼンテーションを聞いた途端に40人もの委員が全会一致で賛成に回ったという。頭が柔らかいのは良いことだが、倫理委員会ともあろうものがそんなに簡単に意見を正反対に引っくり返して良いのかどうか。 Diekema は委員たちが考えを変えた理由として「アシュリーを見れば、彼女が両親に深く愛されていて、彼女自身も両親を愛していることがよく分かった」と言うのだけれど、愛していれば子宮や乳腺を摘出しても良いという論理はよく分からない。ていうか、それは論理じゃなくて単に両親に同一化しちゃっただけでしょうが。
Diekema は今回の医療行為の「唯一の目的」はアシュリーのクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を向上することだと言うのだけれど、どのように彼女のQOLが向上するかという説明の内容は怪しいものだった。例えば、両親だけで介護できなくなった結果として第三者が介護に参加するようになった場合、「家族内部の関係が変化する」ことがアシュリーのQOLにとって有害だと言うのだけれど、別に両親がどこかに行っていなくなるわけでもないし、生後3ヶ月の赤ちゃんと同程度の知能を持つ彼女がそんなことを気にするわけがない。どう考えても、第三者が介在することでストレスを感じるのはアシュリー本人ではなく両親ではないか。それならそうと言えば良いのに、Diekema は全てを「アシュリー本人にとっての最善」と言い切る。もう一つ例を挙げると、かれは「アシュリーが初潮を迎えたとき、どのような反応をするか」心配だと言うのだけれども、これもまたアシュリー本人ではなく両親がどう反応するかの間違いではないのか。親が感じるストレスや不安は考慮する必要がないとまでは思わないのだけれど、親の都合をアシュリーのQOLにすり替えるのは良くない。
Diekema はまた、「アシュリー療法」なるものは存在しない、それは彼女の両親がブログで勝手に主張していることである、と言う。かれによれば、「アシュリー療法」と呼ばれるものはホルモン投与による成長停止、子宮摘出、乳腺摘出という3つの医療行為をまとめたものであり、これら3つが必ずセットでなければないということはないので、「アシュリー療法」という言葉を使うのは間違いだという。メディアでも「アシュリー療法」という言葉が頻繁に使われている現状から見て、はっきりとこうした言明があったのは良かったと思う。しかし、医学誌に発表した論文において Diekema が成長停止と子宮摘出だけ報告し、乳腺摘出についてはまるで何もなかったかのように沈黙していることは、どのように説明できるのだろうか。もしかすると、かれは他の2つに比べて乳腺摘出を正当化する論理ーー胸が大きく膨らむことはアシュリー本人にとって不快であるというものーーは脆弱であると自覚しているのかもしれない。
次に発言したのは The Arc(発達障害のある人たちやその家族による自己支援団体)ワシントン州支部の Emily Rogers という人で、障害者運動の視点から重要な主張を行なった。彼女は「アシュリー療法」のような医療行為が行なわれたことにひどくショックを受けるとともに、次は何が来るのか不安を感じた、という。障害者団体 People First の Corinna Fale もこれに同調し、いわゆる「滑り坂論法」(ある倫理的に疑念のある行為を容認することは、それに類似していてさらに少しだけ大きな疑念のある別の行為の容認に繋がり、その連鎖の結果として重大な倫理的破綻に至るので、そもそも最初の倫理的逸脱を許すべきではないとする論理)を展開した。すなわち、もし「アシュリー療法」が正当な医療行為として認められるのであれば、いずれ彼女より障害の程度が軽い子どもにも同様の扱いをすることに繋がり、最終的には自分たち障害者全員の身体的尊厳が失われるのではないかというものだ。また、かれらは「全ての人間に存在意義がある」ことが人間としての尊厳の基本であるとしたうえで、社会の都合による「成長停止」療法は「成長を停止されなかったアシュリー」の存在意義を奪うことであるから、彼女の尊厳に反すると訴えた。 Rogers はさらに、「どんなに医療が進んでも、全ての不完全性を取り除くことなどできない」と言い、Brosco の言う technological imperative の限界を指摘した。
Fale はさらに、最初にアシュリーの件について知ったとき、障害を持つ一人の人間としてだけでなく、一人の女性として衝撃を受けたと語った。なぜなら、子宮や乳腺の摘出は、ただ単にアシュリーから成長する機会を奪っただけでなく、彼女を女性たらしめている生殖学的な要素を奪い取ったことにもなるからだ。 Fale は将来子どもを産みたいという希望を語り、アシュリーからその権利が奪われたことーー彼女自身は決してその権利を行使することはないだろうけれども、それでも権利そのものは尊重されるべきだったと Fale は考えるーーに、女性として痛みを感じると語った。そして、彼女はこの件によって障害者の権利を求める運動が後退させられたと言った。
このパネルでは、アシュリーの「治療」に許可を出した倫理委員会の議長である David Woodrum も発言したが、これもまた Diekema の発言に続いて倫理委員会のあり方に失望させられる内容だった。かれは今でも倫理委員会の決定は正しかったと思っているとしたうえで、唯一のミスは法廷の許可を得ずに子宮摘出を行なったというプロセスの失敗だったと言う。しかしかれはこの「ミス」を認める一方で、不妊手術に法廷の許可を必要とする制度自体への不快感を隠そうともしなかった。かれは「わたしは両親の味方であって、裁判官の味方でも法律家の味方でもない」と言い、優生思想の長い歴史への反省から障害者の権利を守るために設けられた最低限の法的要件を明らかに面倒くさがっていた。
Woodrum はさらに、「わたしは『滑り坂論法』を認めない」と発言し、多くの障害者たちが「アシュリー療法」に対して抱いている不信感をまったく認めようとはしなかった。かれによれば、全ての症例は個別に判断されるべきであり、アシュリーの件で何が起ころうと他の症例に何ら影響はないということらしい。たしかに社会運動をしている人たちは、あまりに容易に「滑り坂論法」を展開しすぎる傾向があるとはわたしも思うけれども、この件に関して Rogers や Fale が感じている不信感や恐怖感は過去及び現在において障害者の自己決定権が頻繁に侵害されていることを考えれば、Woodrum が言うようにまったく無根拠な思い込みだとは思えない。医師であり、なおかつ倫理委員会の議長でありながら、障害者たちがひしひしと感じている不安をこれほどまでカジュアルに否定してみせる Woodrum には非常に不快感を抱いた。 Rogers や Fale は批判を述べるときも含めて常に医師たちに対して敬意をもって発言していたのに対し、Diekema や Woodrum らは障害のある発言者らをまるで馬鹿にしたように扱っているのが気になった。
Fale が「女性として」アシュリー療法に傷ついた、と発言したことに対しては、Woodrum は「倫理委員会の中でも、フェミニスト的な傾向のある女性の委員の方がより積極的に治療に賛成していた」と反論し、「男性陣は『胸を取るなんてもったいない!』と反応した」とジョークにまでしてみせた。質疑応答の時間にマイクに立ったわたしは、女性の委員がより賛成したのは、いまの社会において家族のケアが女性の役割とされている以上、女性の委員の方がより家族の介護の難しさに共感したのは不思議ではないと指摘した。また同時に、いかに障害のないフェミニストたちが障害のある女性たちに共感することが難しいかということを示していると感じた。このことは、障害のあるフェミニストの団体(かつ、今回の件において抗議活動の中心を担ったグループ)の Feminist Response in Disability Activism (FRIDA) も既に「フェミニズム内部の分断」として指摘している。
しかしわたしがマイクを握って本当に言いたかったことはこれではない。より重要な内容として、わたしは Woodrum が自らを「両親の味方」と位置づけていることに対して、医者は何よりもまず「患者の味方」であるべきではないのか、と指摘した。フロイディアンではないけれど、わたしは Woodrum が「患者の味方」と言わずに「両親の味方」と言ったのは言い間違えでも省略でもなく、本音の発露だと思っている。歴史的に見ても、親と医師が結託して障害者たちから自己決定権を奪おうとした例は(例えば精神障害者に対する過剰な投薬や入院の強制など)いくらでもある。いまさら医師たちが「患者の味方」になろうとしてもそう簡単に自己変革できるわけがないわけで、だったらなおさら発達障害のある人たちの権利を守るためには、法律家に障害者の権利を代弁させたうえで (guardian ad litem) 法廷の許可を必須にするべきではないか、と主張した。
次のパネルは「成長停止」に対する哲学的な分析で、より興味深い話が聞けた。最初に発言したのはサンフランシスコ州立大学の障害理論家・哲学者の Anita Silvers で、社会的公正の視点を失えば「子どもにとって最善の選択」というお題目が意味をなさなくなることを指摘していた。彼女の挙げた思考実験がおもしろいので、以下に紹介する。
症例1: Betty は子役の俳優であり、彼女の一家にとっては唯一の稼ぎ手である。彼女には身体的な障害があり、将来的に妊娠・出産することは非常に危険とされている。彼女が収入を得続けるには、子どもの外見を維持し続けることが必要であり、従って成長停止と乳腺の摘出は彼女にとって最善の選択である。また、彼女の両親はまったく無責任で危険であるが、彼女が俳優として活動し続ける限り彼女の周囲にはマネージャら責任ある大人が存在するので、彼女は安全でいられる。
症例2: Iolanthe は四肢が麻痺しており、車椅子で移動するにはベルトで巻き付けられていなければいけない。従って、彼女は生涯にわたって介助を必要としている。施設の外で生活するにはーー例えばワシントン大学に通うにはーー彼女は24時間態勢で介助してくれる人を雇う必要がある(米国では、障害者が自分で介助者を選んで雇える制度があるーー過去エントリ参照)。彼女が小さく軽い身体であればあるほど(介助が楽なので)良い介助者は見つかりやすく、従って彼女の利益になる。従って、成長停止は彼女にとって最善の選択である。
これらの例ではどちらも、与えられた状況を元に判断すれば確かに成長停止が当人にとって「最善の選択」に見えるかもしれない。しかし、いかにシアトル小児病院の倫理委員会でも、これらの例においてーーとくに第一の症例においてーー成長停止が容認されるとは到底思えない。 Silvers は、ある場合に「当人にとって最善」という論理が成長停止を正当化する理由となり、ある場合においては正当化できないのであれば、アシュリーの症例とこれらの症例とで決定的に違うのは何であるのかと問いかける。そして、それを通して「当人にとっての最善」という論理をより深く考え直すよう訴えている。
Silvers にとって「アシュリー療法」の存在は、「いまの社会において生きていくためには、障害のある人々は自分自身ではないものとして生きなければいけない」ということを示している。それはいまの社会がそうであるという意味で事実かもしれないが、それでいいのかと彼女は問いかけているのだ。彼女はさらに、生まれつき短い四肢や口唇口蓋裂症への治療として行なわれる外科手術を挙げたうえで「アシュリー療法」はそれらと比べてもさらに異質であると主張した。なぜなら、それらの療法は「生まれつき非典型的な身体を、より典型的な外見に直す」ことを目的としているのに対し、「アシュリー療法」はもともと正常な身体に医療をほどこすことによって非典型的な状態(実年齢と外見上の身体の不一致)を作り出すからだ。
しかし、わたしはこの指摘にはいくつかの難点があると思う。まず第一に、事実の問題としてアシュリーの両親は「外見上の身体と精神年齢の不一致」を問題としており、子どもの外見に据え置くことこそがより「典型的なありかた」に近いと認識している。すなわち、かれらにとってアシュリー療法は「典型的な身体を非典型的にする」のではなく、「非典型的な身体を、典型的なそれに近づける」ことだとされているのだ。また、それより重要な問題として、Silvers の主張には、「非典型な身体を典型に近づける」医療の方が「典型的な身体を非典型にする」よりも倫理的に正しい、という前提があるように思えるが、これには同意できない。わたしはそれら全てが非倫理的だと言うつもりはないけれども、ある医療が倫理的であると判断するための基準は「それが非典型を典型にしているか、それとも典型を非典型にしているか」ではないように思う。
話を戻すと、Silvers の主題は「子どもにとっての最善の選択」というアプローチが、頻繁に枠組み設定上の問題を孕んでいるということだった。成長を停止するか、それとも不十分な在宅介助支援や劣悪な施設によってその子と家族を不幸にするかと問うのは、明らかに設問がおかしい。そのような選択を迫るような社会的状況こそが非倫理的なのだ。ワシントン大学の哲学者 Sara Goering は同じことをこう言い換える:「その子にとって何が最善であるのかを問うのは不十分であり、どういう経緯によってそれが『最善』とされてしまったのかを問わなければいけない」。非倫理的な社会的状況があるからこそ、アシュリーの両親は「成長停止」という医療技術による解決に救いを見出してしまったのだ、と彼女は言う。
Goering はさらに、「人間としての尊厳」という概念のあいまいさが生命倫理の問題において混乱を拡大しているのではないか、とも発言した。たとえば「尊厳死」という用語があるように、ある人たちは過剰な医療技術による延命を「尊厳に反する」ものとしてとらえ、それらを拒否して安楽死することを「尊厳的」であると考えるのに対し、多くの障害者らは「尊厳死」の容認こそが(社会的・経済的要因を通して)かれらを「不本意な死」に追いやる、「尊厳に反する」ものだと考えている。アシュリーの件についても、障害者運動に関わる人たちがアシュリーが不必要な医療行為を受けずに成長することを許されることを彼女の「尊厳」と結びつけて考える一方、アシュリーの両親は George Dvorsky の次のような発言を引用する:「アシュリーには尊厳なんて考えるだけの認知的能力があるとは思えないし、また彼女に対する医療が人類全体に対する侮辱だとも思えない。醜悪なのは成長停止ではなく、大きく成長し妊娠可能な女性が赤ちゃん程度の知能しか持たないことだ。」
Goering は人間としての尊厳 dignity という言葉に代わり、身体的全体性 integrity という概念の方が有効ではないかと提案する。そもそも、Dvorsky の発言を読めば分かるとおりーーそして Peter Singer の「親として言わせてもらえば、わたしは生後3ヶ月の赤ちゃんを可愛いとは思っても尊厳的だとは思わない。そして知性的に変わらないまま身体だけ大きくなってもそれは何ら変わらない」という言葉からも明らかなようにーー「人間としての尊厳」という概念は実際には多くの「人間」を排除してきた歴史がある。「身体的全体性」に枠組みを変えることにより、いかにアシュリーの両親が彼女を「赤ちゃん」「枕の天使 pillow angel」と呼ぼうと「アシュリーは永遠の赤ちゃんではない」と言える、と Goering は主張している。
質疑応答に入ると、先のパネルで発言した David Woodrum が再びマイクに近づき、Silvers の思考実験はアシュリーにほどこされた医療についての議論に全く関係がないと反論した。かれは「当人にとっての最善の選択」という基準を最優先した覚えはないと主張し、成長停止の要件として「精神的な状態が生後6ヶ月のレベルを超えないこと」「身体的に自分で身動きが取れないこと」も含まれるため、Betty や Iolanthe のケースで成長停止が認められることはありえない、全く無関係な例である、と発言した。しかし、「当人にとっての最善の選択」という基準が絶対ではないと言うのであれば、何を根拠に「精神的な状態が生後6ヶ月以下で、身体的に自分で身動きが取れない子ども」はそうでない子どもとは別の医療倫理が適用されると判断できたのだろうか? 全ての子どもに「最善の選択」という基準が適用されるのであればともかく、ある特定の障害をもって生まれた子どもに限って別の基準が適用されるというのであれば、それは差別ではないのだろうか。
この後、ランチを経て午後の部に続く。ちなみに、ランチはさすがウィリアム・ゲイツ法律大学院だけあっておいしかったですごちそうさまでした。
2007/05/22 - 05:29:13 -
macskaさんにとっては、「区別」することそのものが非倫理的なのでしょうが、「生後3ヶ月の赤ちゃんと同程度の知能を持つ彼女がそんなことを気にするわけがない」といった感覚とDavid Woodrumさんの判断は無縁ではないような 気 が します。
2007/05/23 - 08:10:20 -
森岡正博氏のブログでfont-da氏の本論考紹介で拝読。興味ぶかく感じたのは、アシュリーのご両親がDvorskyの発言を(私には肯定的ととれる)引用をしていることです。すでに、アシュリーの「善 goodness」より、アシュリーの両親にとっての「醜悪」(美醜を含むと思われる観点)に、価値判断の比重が移っている、らしい。移っていなくても、両親の考えの中に両親から見た「醜悪」がしのびこんでいる。これが、怖い(日本なら、この「醜悪」は決して口にされないだろうから、なお怖い)。