松沢呉一氏の「ジェンダーレス教育論」は典型的なジェンフリ論

2007年2月11日 - 6:13 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

推進派も反対派も最近めっきり静かになったジェンダーフリー教育論争に、松沢呉一さんがポット出版のサイトに寄稿した文章で参入してきた。松沢氏は伏見憲明氏の近著『欲望問題』に触発されてようやくジェンダーフリー論争における自分の立場に整理がついたらしい。『欲望問題』の方は「200ページもないのに1500円って高いなぁ」と思いつつ現在取り寄せ中なので後々取り上げるとして、今回は松沢さんの主張について。
結論から言うと、松沢さんは「ジェンダーフリーは中途半端だ、ジェンダーレスで何が悪い」と言いつつ、実はその問題点も含め、ごく典型的なジェンダーフリー論者と同じ主張をしている。ではどのような論理で松沢さんは「ジェンダーフリーはジェンダーレスとは違う」と言う典型的なジェンダーフリー論者を「そんな中途半端なことは言いなさんな」と批判してみせるのか。順序を追ってみてみる。
そもそも、なぜジェンダーフリー論者が「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」という言い方をしだしたかというと、ジェンダーフリーに反対する側の論者から「ジェンダーフリーは男女の違いを強権的に消し去ろうとする論理だ」という批判があったからだ。その典型的なものの一つとして、『正論』2003年2月号に掲載された中川八洋「両性具有への人間改造 ジェンダー・フリー教育の正体」を挙げたい。以下はそこからの引用。

「ジェンダー・フリー」とは、男性が医学的・生物学的に生まれとともに定まっている男性性を除去され、女性も同じく、生まれとともに定まっている女性性を除去されて、“男女が平等に無性化する”、もしくは“男女がいつでも男にも女にもなれる”、両性具有のサイボーグと化する、そのように非人間に改造することを目的とした教説である。

この文章の意図は、ジェンダーフリー教育が子どもたちの身体を物理的に改造して両性具有にするという意味ではもちろんないだろう(医学的に不可能だし)。ここでいう「人間改造」「両性具有化」というのはあくまで喩えであって、実際には「男らしさ」「女らしさ」など男女それぞれの子どもが生まれ持った特性を破壊すること、そしてそうした破壊を教育によって実現することがジェンダーフリー教育論である、ということになる。
続いて、同誌2002年8月号の林道義「『男女平等』に隠された革命戦略」から引用する。

これは「ジェンダーフリーの原理は正しいが、そこまっでやるのは行き過ぎだ」と言ってすませられる問題ではない。 (略)
ジェンダーフリーとは、「男女の性差は教えられたもの、文化的に獲得されたもの」だという理由で、その差をすべてなくそうという主張である。

林氏のこの記述も、ジェンダーフリー教育とは男女をただ同等に扱う、区別して扱わないというだけではなく、「性差をすべてなくすこと」自体をその目的とする理論である、という解釈を中川氏と共有している。
しかし、かれら否定派以外の論者の多く(必ずしもジェンダーフリー肯定論者ではない者も含む)は、そうした解釈はジェンダーフリーと言うよりはジェンダーレスと呼ぶべきものであり、ジェンダーフリー論の趣旨を誤解していると反論している。みなさまおなじみの「ジェンダーフリーとは」サイトから軽く引用すると、

■Q性差の押し付けから自由になる…それって「性差」をなくすってこと?
A.よくある誤解だけど、ジェンダーフリーは、性差を全部なくすこと(ジェンダーレス)とは違います。ジェンダーフリーは、社会におけるジェンダーによる偏見やバイアスを減らしていこうというもの(参照)。 ジェンダーを全部なくすのではなく、バイアスや偏見をなくすためだからこそ、男性の育児休暇への配慮や男性の労働時間の縮減、女性の生理休暇や産休なども含まれるわけで。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』において宮台真司氏もこう言っている。(あのバカ長いインタビューの一番最初の部分なので、途中でギブアップした人も読んでいるはず):

社会学のオーソドックスな枠組みからいうと、ジェンダーフリーは、ジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリーは「社会的性別に関わる再帰性」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。

ジェンダーフリー教育に好意的というか少なくとも否定的ではない論者が「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」と主張するのは、このように「ジェンダーフリーとは性別を強権的になくすことを目的とする」という言いがかりに対抗し、「個人が性別によって制限を受けずに自分の在り方を選び取れるようにすること」こそがジェンダーフリーであると主張するため。ところが松沢さんは、そうした主張は中途半端であり、ジェンダーレス教育で何が悪いのかと言う。

私はジェンダーレス教育を支持します。ジェンダーレスで何がいけないのか。
(略)
なぜこういった差を解消した方がいいのかと言えば、男らしさ、女らしさを個人が選択できるようにするためです。男らしくありたい女、女らしくありたい男の選択をも許す社会であるためには、公教育の場では、「男が男らしく」「女が女らしく」というジェンダーの押しつけは極力ない方がいい。
その環境にもかかわらず、大多数の男が男らしさを求め、大多数の女が女らしさを求めるのなら、個々人の選択の結果として、それもまたよし。いいかどうか知らないですが、個人の領域における少数派の選択が許されていることが保証されている限りにおいて、それも現実ってことで受け入れればよい。
(略)
もはや言うまでもないことですが、私はジェンダーのない社会を目指しているわけではありません。一律のジェンダーで統一されるどんな社会も目指していない。個々人がそれを選択した結果として一色に染まることや、ジェンダーが消失することはいいとしても、それを強いることにも反発している。「ジェンダーをすべて解消する社会にすべし」とするジェンダーレス教育にも私は反対なわけです。

さて、ここまで読んできて、「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う」と主張する一般のジェンダーフリー論者と、「それは中途半端」と批判する松沢氏の主張に何らかの違いが見られるだろうか。はっきり言って、松沢氏が「ジェンダーレス」という言葉に「良いジェンダーレス=一般に言うジェンダーフリー」と「悪いジェンダーレス=ジェンダーをすべて解消する教育」の2つの用法を認めているという事実以外に、まったく違いは見い出せない。「自分はこう主張しているわけではない」という釈明部に至るまで、典型的なジェンダーフリー論者とまったく同じことを言っている。
そもそもこの論争になぜジェンダーレスという言葉が登場したのか上でおさらいしたが、それは「個人がそれぞれ自由に選択できる社会」と「ジェンダーをすべて解消する社会」を混同してジェンダーフリー叩きをする論者がいたので、前者がジェンダーフリーであって後者はジェンダーレスと呼ぶべきである、と反論するためだった。それなのに、いまさら「ジェンダーレス」という言葉を「ジェンダーフリー」と同じ肯定的な意味で使おうとすることは(そして、それでもってジェンダーフリーは不十分だと批判してみせることは)議論をさらに混乱させるだけだろう。結局、「自分はもっとラディカルなんだぞ」とパフォーマンスするだけの意味しかないように思う。
付け加えると、松沢氏はジェンダーフリー論者が「ジェンダーレスとは違う」ということが自らの立場を曖昧にしていると批判するけれども、全く同じ「ジェンダーレス」という語をこのように肯定的な意味(一般的なジェンダーフリーと同義)と否定的な意味(反対派の定義するところのジェンダーフリー)で使い回す方がよっぽど曖昧ではないか。
さらに、松沢氏はこうも言う。

私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していたのですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。

掃いて捨てるほどいるよ! ていうか、どこからどう見ても典型的なジェンダーフリー論でしょ。『欲望問題』を読んでそういうジェンフリ論者がいないと思ったなら、参考にする文献を間違えているのでは。というか、有名な学者が書いたモノには、たしかにヘンな本多いけどなぁ。
まぁ、確かに「では着替えは男女一緒でいいのか」と言い返されるとひるんでしまう頭の悪いジェンフリ論者も結構いそうなので、「男女一緒がいけないなら、どうして同性なら同室でもいいのか」ときちんと反論するのは評価できるよ。でも、それはこの論争が活発だった2〜3年前に発言していれば、の話。今更出てきてこれまでの経緯を無視した言葉遣いをした挙げ句、自分だけがこんなに賢いんだみたいに言われても、これはまた典型的な後出しジャンケンだなぁと思うだけ。
本筋の議論はそこまでとして、以下は追加の疑問点をいくつか。
まず第一に、「良いジェンダーレス(一般的にいうジェンダーフリー)」で「何がいけないのか」と言うけれど、『バックラッシュ!』所収のバーバラ・ヒューストン&ジェーン・マーティンのインタビューを読むべし。ジェンダーによる差別や格差が存在する社会の中で、教育だけジェンダーを「見ない」で済まされるのかどうか。例えば、本当に「同性の他の生徒と同室で着替えする」ことは、「異性の生徒と同室で着替えること」と全く同等なことなのか。そしてそれは男子生徒にとっても女子生徒にとっても同等の体験なのか。今の社会においてそれらが全く同等とは言い難い。原則的に男女の区別をしないとしても、社会全体がジェンダーフリーではない以上は教育においてジェンダーによる何らかの配慮を必要とする場面もあり得るはずで、ただ無視すれば良いと本当に言えるのか。
第二に、前から思っていたことだけれど相変わらずこの人の売買春論は乱雑。「売買春をするもしないも個人の自由である社会」には賛成だし、「その自由を妨害する制度に反対」にも同意するけれども、そこでいう制度としてなぜ「売春を禁じる法律」ばかりに注視するのか。現実問題として、貧困や南北格差だってそうした自由を大きく制約しているわけで、そっちもきちんと解決していかなければ「買う側の自由」ばかり増えるだけ。というより、「選択できる前提の整備」を無視した「選択する法的権利の拡充」だけでは、ネオリベラリズム的社会における自己決定論として不十分。「売防法撤廃」と気軽にいうけれども、例えばカナダの一部などでは非犯罪化によって生活が困難になった人たちだってたくさんいるんだよ。
それに関連して第三に、「個人に最大限の選択肢を認める」ことを前提として売買春やポルノに反対する論理もあり得る。というより、一般の反売買春・反ポルノ論者はともかく、松沢氏が批判するような「フェミニストの」反売買春・反ポルノ論者は、売買春やポルノといった制度の存在が女性の自己決定権を広げる方向ではなく脅かす方向にはたらくと考えているから反対しているわけで、自己決定権を認めまいとする論理ではない。世界中で奴隷契約や臓器売買が原則禁止されているのはそのためで、反売買春論者はそこに売買春も含めるべきだという主張をしている。もちろんわたしはそうしたフェミニストたちに賛成の立場ではないけれども、論敵の論理はきちんと理解したうえで批判すべき。
以上。

31 Responses - “松沢呉一氏の「ジェンダーレス教育論」は典型的なジェンフリ論”

  1. macska Says:

    あれ、このエントリ、ずっとコメント欄オフになってた?
    なぜ〜??ってわたしが言っても仕方がないか。
    ごめんなさい、みなさん。単純なミスによりコメントができないようになってました。

  2. m-saki Says:

    なんでかな〜?って思ってたー。気づいてすぐに伝えればよかった。

  3. HAKASE Says:

    どうも.ここでこんな形で松沢さんのお名前を見ることになるとは,個人的に,なんかとても感慨深いものがあります….
    ジェンダーフリーのお話の部分について,macskaさんの意見に全面的に賛同します.松沢さんがジェンダーレスと名づけて賛同している内容は,少なくとも私の理解しているジェンダーフリーの考え方のひとつと基本的にはそれほど違いがないように思えます.「個人の選択が最大限認められること」って(「最大限」の部分にはいくつか条件がつくとは思うけど)基本的にはジェンダーフリーの考え方そのものなんじゃないかなぁ….そこんとこに納得してるから自分は賛同してるんだけど.
    # 同意ですって事以外の内容がないですけど,掃いて捨てるほどいる中のひとり(ちょっと違う?かもしれないけど)として書き込んでみました.

  4. makiko Says:

    いや、完全に私がウザがられていると思ってましたが(^_^;)
    ジェンダーフリー教育について、macskaさんは常々反対しておられるのは知っていますが、ではどのような教育を念頭に置いて批判しておられるのか、いまひとつ見えないのですが…
    > ジェンダーによる差別や格差が存在する社会の中で、教育だけジェンダーを「見ない」で済まされるのかどうか。
    いくらなんでもジェンダーフリー論者も、ジェンダーを「見ない」わけでは全然ないでしょ? 現実社会が性差別に満ちていることを前提に、それを認識させた上でジェンダーレスなものを提示してみようとやっていると理解していましたけど、そうではなしに?
    バーバラ・ヒューストン&ジェーン・マーティンのインタビューには、ジェンダーフリーが「女性」というアイデンティティやカテゴリを無くすことの危険性が説かれていますが(p.226-227)、macskaさんは、こういったアイデンティティやカテゴリを前提とし、根拠とする教育を想定しているわけですか?

  5. macska Says:

    ども、コメントが書けなかった件についてはすみませんです。
    HAKASE さん、コメントありがとうございました。確かに、松沢さんの言うのは HAKASE さんの考え方とほとんど違いませんよね。
    makiko さん、ウザがってないですよぉ(笑)
    というのはともかく、

    ジェンダーフリー教育について、macskaさんは常々反対しておられるのは知っていますが、ではどのような教育を念頭に置いて批判しておられるのか、いまひとつ見えないのですが…

    特に何かを念頭に置いているわけではないですが… ただひとつ言っておかなければならないのは、米国ではジェンダーだけ取り出して教育を論じるということはありえず、必ず民族やセクシュアリティや言語などによるさまざまな差異についての議論の中でジェンダーをどう扱うかという議論がなされるということです。ヒューストンやマーティンも不十分ですがそういう前提で話しています。
    例えば白人だらけのクラスの中に、数人だけ黒人の子どもがいたり、一人だけスペイン語を母語とする子どもがいたりするわけですよ。その際、「みんな同じ個として扱う」だけでは、結局「全員が白人であるかのように、全員が英語を母語とするかのように」扱うことになってしまいます。「差異があるから」扱いを変えろというのではなく、「現実社会において差異を生きてしまっているから」こそ、特に現実社会で差別を受けている側に対しては、特別の配慮を必要とすることがあります。
    松沢さんの文章では、女子が男子の前で着替えをさせられることも、男子が他の男子の前で着替えをさせられることも、等しく配慮を必要する(あるいは必要としない)かのように論じられています。しかし現実社会における女性の身体の(暴力も含んだ)扱いや、そこに占める男性の視線の役割にセンシティヴになるならば、それらはまったく等価であるとは思いません。「個人用の更衣室を作る予算がないなら男女一緒でいい」とまでは言い切るところに、「ジェンダーによる差別や格差が存在する社会の中で、教育だけジェンダーを『見ない』で済ませ」ようとしている、という危惧を感じます。

    いくらなんでもジェンダーフリー論者も、ジェンダーを「見ない」わけでは全然ないでしょ? 現実社会が性差別に満ちていることを前提に、それを認識させた上でジェンダーレスなものを提示してみようとやっていると理解していましたけど、そうではなしに?

    そりゃ、「見ている」ことは見ているでしょう。わたしの言うのはそういうことではなく、社会においては差別があるのを「見ている」のに、学校にいるあいだだけその影響から逃れられるかのようにーーわざと見ないかのようにーー行動するのはおかしい、ということです。

    バーバラ・ヒューストン&ジェーン・マーティンのインタビューには、ジェンダーフリーが「女性」というアイデンティティやカテゴリを無くすことの危険性が説かれていますが(p.226-227)、macskaさんは、こういったアイデンティティやカテゴリを前提とし、根拠とする教育を想定しているわけですか?

    「女性」というカテゴリを使ってはならない、という(アカデミアの一部にある)考え方が危険だとは言っていますが、「アイデンティティやカテゴリを前提とし、根拠とする教育」を主張しているようには読めませんでした。「女性」というカテゴリを否定することは、既にそれを生きている人から言葉を奪うことであり、またそうしたカテゴリを変革するための議論をできなくするから危険なのだ、と言っているのだと思います。
    生徒たちがさまざまなアイデンティティを生きていることは疑いようのない事実であり、教育がそれをことさら否定するというのは無謀でしょう。しかし、否定しないということは、それをことさら根拠とした教育を推進することになるというわけではないはずで、なんでそんなに極端な「おまえはどっちだ」という話になるのかなぁと思います。

  6. makiko Says:

    いや、「個人に最大限の選択肢を認める」ことの限界、すなわち「みんな同じ個として扱う」だけでは、おそらくはより優位にたつジェンダー(+民族+階級+障害の有無等)を持つ者がより多くの選択肢をもち、劣位にたつ属性をもつ者が選択肢が制限される結果になることについては、私も最近は非常に敏感になっているわけで、その点でmacskaさんを批判しているわけでは全然ないですよ。
    ただ、松沢さんも更衣室の例では、一応最初に個室化するのが最善であって、と言っているわけですよね?そこから一気に男女同室でも良い、とまで言いきってしまう松沢さんの論理の飛躍は批判されるべきだと思いますが、しかしかといってジェンダーだけがいろいろある差異の中で特別に重要視されて、ジェンダーによる区別(空間の区別をはじめとして)が最優先されるわけでもないと思うわけですよ。
    女性専用車両のように、日本ではとりあえず女と男を分けておけば女性の権利を保障したことになる、あるいはこれは弱者を保護するのだから批判すべきでない、みたいな論調がまかり通っていることはご存じですよね?。
    以下ヒューストン&マーティンについて
    > 「アイデンティティやカテゴリを前提とし、根拠とする教育」を主張しているようには読めませんでした。
    私にはそう読めましたが、これは立場の違いでしょうか?
    > 「女性」というカテゴリを否定することは、既にそれを生きている人から言葉を奪うことであり
    これは確かにその通りだと思いますが、しかして「女性」というカテゴリを肯定することに*よって*、言葉を奪われる人もいるわけですよね?。その「女性」の定義いかんによっては。現代の西欧文化の影響を受けた社会においては、ジェンダーというカテゴリは自ら定義できるものではなく、外部の権力によって定義されるものだということは、macskaさんも認めますよね?。そして、その行為によって声を奪われるサバルタンが存在することも。

  7. 純子 Says:

    Mkikoさんじゃなくて、私がウザがられているのかと思っていた(^^)。
    これを読んで、私が、面白いなと思ったのは、むしろ宮台さんの定義
    >社会学のオーソドックスな枠組みからいうと、ジェンダーフリーは、ジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリーは「社会的性別に関わる再帰性」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。
    「再帰性」というのは、下世話に言うと「考え直す」とか「思いなおす」という意味だ。まあ、この世に男女というものがあって、みんな、無意識に男か女を生きてしまっているのだが、それを、男女の枠に捕らわれない境地に立って、もう一度意識して考え直してみましょうということだな。
    捕らわれない境地には、デカルトの「合理」とか、禅の「見性」か、朱子学の「格物致知」とか、現象学の「還元」とか、文化人類学の「異文化体験」とか、いろいろあるのだが、まあそれはおいておいて……
    その結果、「そっか、男(女)であることってこういうことかあ!」ということを理解する。そうしたらもう一度、出世間の境涯から、俗世間に再び帰ってきて(つまり再帰)、今度は、「無自覚ではなく自覚的に男(女)を生きていきましょうよ」というとこだ。
    でも、これだと、おおむね大多数の人は、もともと、出発点にあったジェンダーに回帰してしまう。小谷野さんが八木さんとの対談で言っていた「だいたい生まれつきできまる」というのも、つまりはそういうことで、同性愛者、半陰陽者、性同一性障害者など特別な事情がある人でないかぎり、みんな俗世間で公認されたジェンダーに回帰して、俗世間のルールに従って生きてしまう。世間智のレベルで考えるかぎり、特別な事情がない限り俗世の価値観は受け入れたほうが何かと得だし、生きやすい。
    だから「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来、ここからは出てこない。「ジェンダーフリー政策」、「ジェンダーフリー教育」なんてとんでもない。という話になってしまうわけだ。
    むしろ、禅の僧侶が、出世間智のレベルでは「仏に会えば仏を殺し、祖師に合えば祖師を殺す」という意気込みで禅にうちこむが、(見性を得るためには、仏の教え、祖師の言葉すらもウザすぎて邪魔になるわけだ)、世間的なレベルでは、日々の勤行を絶やさない、篤実な信仰の人であるように、むしろジェンダーフリーを感得して、かえって伝統的で保守的な男女観に回帰してしまう可能性は大きい。
    そういう意味では宮台さんのジェンダーフリー解釈は、かなりバックラッシュ派のメンタリティに違い。というよりも、あと一歩で保守派になりうる。いや、ほとんど保守派かも。
    例えば林さんの
    >ジェンダーフリーとは、「男女の性差は教えられたもの、文化的に獲得されたもの」だという理由で、その差をすべてなくそうという主張である

    「男女の性差は教えられたもの、文化的に獲得されたもの」だという理由だけで、その差をすべてなくそうという主張は、ジェンダーフリー論として間違っている」
    と言い換えればそのまま、宮台さんの「ジェンダーフリー」観になる。
    まあ「仏に会えば仏を殺す」はいいが、それは、山奥で修行している時だけにしてくれ、里に下りてからも抜き身の刀をぶらさげて歩くな、危ないからってことだな。
    「良い刀は鞘に納まっているものですよ」(椿三十郎^^)
    松沢さんは、たぶん、「ジェンダーフリー」だと刀に鞘をつけられてしまうということを直感的に感じていて、それで「ジェンダーレス」を言い出したんじゃないのかなあ。批判の刀を振り回したいんだよ、きっと……。
    松沢さん、良い刀じゃないなあ^^。ナマクラ?

  8. Josef Says:

    >macskaさん
    >さらに、松沢氏はこうも言う。
    >
    >>私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していた
    >>のですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。
    >
    >掃いて捨てるほどいるよ! ていうか、どこからどう見ても典型的なジェンダーフリー論でしょ。『
    私もたくさんいると思うのですが、表立って主張している人を見たことがありません。というのも、「男らしさ、女らしさを個人が選択できる」、「男らしくありたい女、女らしくありたい男の選択をも許す社会」というお題目だけを取り出せば「典型的なジェンダーフリー論」でしかありませんが、松沢氏の主張の眼目は、更衣室の例でいうと、「個室」が最善、「男女同室」が次善、「男女別」が最悪、というところにあるのですから。要するにジェンダーレスの形式的徹底です。
    この立場からすれば表立ってなされるジェンダーフリー論が「中途半端」に見えるのは当然でしょう。

  9. Josef Says:

    >純子さん
    >その結果、「そっか、男(女)であることってこういうことかあ!」ということを理解する。そうしたらもう一度、出世間の境涯から、俗世間に再び帰ってきて(つまり再帰)、今度は、「無自覚ではなく自覚的に男(女)を生きていきましょうよ」というとこだ。
    そうですね。純子さんが修行僧で喩えているように、エリート主義と言ってもいいでしょう。ジェンダーを自覚的に選び取る立場と無自覚なままジェンダーに埋没して生きている状態との対照。前者は後者を俯瞰する位置にあります。一歩進めれば、前者による後者の支配です。庶民というものを知り尽くした「政治家」とただの「庶民」との関係ですね。
    >そういう意味では宮台さんのジェンダーフリー解釈は、かなりバックラッシュ派のメンタリティに違い。というよりも、あと一歩で保守派になりうる。いや、ほとんど保守派かも。
    「宮台さんのジェンダーフリー解釈」と「保守派」の違いは、前者には「操作」という契機がある点ではないでしょうか。「保守派」が現状(または旧状?)を認めて変えないとすれば、「宮台さんのジェンダーフリー解釈」は個々の現状を「肯定」した上で変える、少なくとも変えられる状況を準備する。現状を「否定」した上で変えようとする単純な改革論に比べるとずっと高度です。
    >だから「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来、ここからは出てこない。「ジェンダーフリー政策」、「ジェンダーフリー教育」なんてとんでもない。という話になってしまうわけだ。
    上の文脈で言えば、たとえばオールターナティヴの提示によって現状を相対化する「政策」や「教育」が考えられます。既存のジェンダーを生きることを「肯定」する。同時に別の様々な選択肢があることを提示し、これも「肯定」する。それによって既存のジェンダーを生きることを「当たり前」から「選択肢の一つ」へと相対化するわけです。これは同性婚認定などの制度改革を用意することになるでしょう。

  10. cider Says:

    >「再帰性」というのは、下世話に言うと「考え直す」とか「思いなおす」という意味だ。
    云々。『バックラッシュ』はどこかにまぎれて発見できず、宮台さんの主張の文脈は確認できないけど、社会学的な意味での「再帰性」の比喩としてはこれは間違いだろうし、自分で考えた比喩に引きづられてなんだかよくわからない結論に至ってしまっているように思いますが、それに「そうですね」と同意する方がいる以上、こういったコミュニケーションは継続されてしまうものなのでしょう。
    「ジェンダーフリー」が、個々人が「男女の枠に捕らわれない境地」を「感得する」ことと勘違いされているとすれば、なんだかよくわからない批判を受けるのももっともだなと思います。

  11. 純子 Says:

    >社会学的な意味での「再帰性」の比喩としてはこれは間違い
    じゃあ、正しく比喩しなおしてごらんなさいな(^^)。
    ちなみに宮台さんは、「保守思想」を説明すると
    きにも「再帰性」という言葉を使っていたなあ……。
    まず伝統的な農村のムラ社会がある。
    そこに産業革命で近代的な都市文明がおしよせてくる。
    するとムラ社会出身の人たちはなんとか、都市文明の中で、慣れ親しんだムラ社会的な価値観を守って生きようとする。
    そこに「保守思想」というものが生まれる。
    「保守」は「伝統」の近代における「再帰性」
    それでニッポンのカイシャのようなものが生まれる。
    ちなみに、宮台さんによれば、「新保守」とは、伝統の「再再帰性」である。
    う〜ん、つまり、「保守思想」をベースにして生まれた、ニッポンのカイシャ群が、あくなき経済発展をめざした結果。伝統のベースとなっていた農村のムラ社会までが、近代的なシステムにすっぽりと飲み込まれてしまった。
    「保守思想」の段階だと、まだ、ベースとなっているムラ社会がモデルとして都市の周辺に残っていたけど、「新保守」はベースとなっている社会が消滅してしまっているので、仕方なくニッポンのカイシャみたいなところに残っている伝統の残滓をつぎあわせて、さらにもう一度、伝統を再構成しなおすしかなくなった。だから「新保守」は現代における「伝統の再再帰性」。
    つまり、こういうことかな? 
    近代以前は、伝統的なムラ社会の規範があって、それによって男女のジェンダーが強固に決まっていた。
    そこに近代的な都市文明が押し寄せてきて、生活がジェンダーレス化した。
    別におじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行かなくても、ガス台のツマミは男女の別なくひねれるし、洗濯機のスイッチは男女の別なく押せる。結果、ジェンダーが希薄化しはじめた。
    でも、それは嫌だ。やっぱり男らしい男にエロスを感じる女性は多いし、男性だって彼女にはエロカワでいてほしい。
    そこで、失われた男女の伝統的なジェンダーを再帰的にとりもどそうと「ジェンダーフリー」が唱えられるようになった……。
    つまり宮台さんの考え方でいけば、「ジェンダーレス」が近代文明で、「ジェンダーフリー」は……やっぱり「保守思想」じゃん????(^^)

  12. macska Says:

    makiko さん:

    しかしかといってジェンダーだけがいろいろある差異の中で特別に重要視されて、ジェンダーによる区別(空間の区別をはじめとして)が最優先されるわけでもないと思うわけですよ。

    そりゃそうです。

    女性専用車両のように、日本ではとりあえず女と男を分けておけば女性の権利を保障したことになる、あるいはこれは弱者を保護するのだから批判すべきでない、みたいな論調がまかり通っていることはご存じですよね?。

    そんな軽薄な議論をしている人もいないことはないでしょうが、それだけに代表させちゃうのはどうかと。

    > 「アイデンティティやカテゴリを前提とし、根拠とする
    > 教育」を主張しているようには読めませんでした。
    私にはそう読めましたが、これは立場の違いでしょうか?

    どこにそう解釈可能なことが書かれていますか? 書いてないことを「そう読めた」と言っても、それは「そう読む」方がおかしいのであって、立場の違いによる解釈の相違とかそういうレベルじゃないです。

    これは確かにその通りだと思いますが、しかして「女性」というカテゴリを肯定することに*よって*、言葉を奪われる人もいるわけですよね?。

    誰も「女性というカテゴリを肯定すること」を主張していませんね。マーティンも、「女性というカテゴリを否定すること」に反論しているのであって、肯定するような教育を行なえとは言っていない。
    純子さん:

    つまりはそういうことで、同性愛者、半陰陽者、性同一性障害者など特別な事情がある人でないかぎり、みんな俗世間で公認されたジェンダーに回帰して、俗世間のルールに従って生きてしまう。世間智のレベルで考えるかぎり、特別な事情がない限り俗世の価値観は受け入れたほうが何かと得だし、生きやすい。

    それを逆に言うと、俗世の価値観に沿わないジェンダー表現をするような人は「何かと損だし、生きにくい」。しかし自然現象として損したり生きにくくなっているわけではなく、社会のしくみが「公認ジェンダー」を基準に作られているからこそ苦しいわけです。そういう状況においては、「特別な事情がある人」だけでなく、すべての人が不自由な自己決定を迫られます。だからこそ、もっと自由に選べるように、多様なジェンダーに寛容な社会のしくみを作ろう、という呼びかけがあるのね。多様なジェンダーに寛容な社会は、「特別な事情がある人」だけでなく、そうでもない人の自由度も高めます。(『バックラッシュ!』p.372下段参照)

    だから「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来、ここからは出てこない。「ジェンダーフリー政策」、「ジェンダーフリー教育」なんてとんでもない。という話になってしまうわけだ。

    それは、「ジェンダーフリー政策」「ジェンダーフリー教育」の中身によるでしょ。「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」ではない形の政策や教育だってあり得るわけで。

    むしろジェンダーフリーを感得して、かえって伝統的で保守的な男女観に回帰してしまう可能性は大きい。

    それで幸せならいいんじゃないですか。
    ただし、もしその人が「自分が本来ありたい形でジェンダーを表現したら損をするから、生きにくくなるから」伝統的な男女観に回帰するのだとしたら、それは幸せとは言えませんから、より寛容な社会にしたいですね。

    近代以前は、伝統的なムラ社会の規範があって、それによって男女のジェンダーが強固に決まっていた。
    そこに近代的な都市文明が押し寄せてきて、生活がジェンダーレス化した。

    厳密には違うでしょうね。いまの社会において「伝統的な男女のジェンダー」と呼ばれるものは、近代になって男性が労働者として都市部に吸収されるようになってからできたものでしょ。保守派が守ろうとしているジェンダー制度こそ、近代的価値観です。

    でも、それは嫌だ。やっぱり男らしい男にエロスを感じる女性は多いし、男性だって彼女にはエロカワでいてほしい。

    このあたりは、『欲望問題』のテーマに関わってくるので、今度何か書きます。
    が、明日から出張なので来週までさよならです。

  13. Josef Says:

    >ciderさん
    純子さんが宮台氏のいう「再帰性」を「下世話に言うと『考え直す』とか『思いなおす』という意味」と書いたのが間違いとのことですが、その理由を教えてください。
    門外漢である私の理解を書いておきます。
    「再帰性」は「対象への言及が当の対象に影響を与える」というふうな社会科学一般の特徴として理解されるのが普通でしょうが、実際にはもっと奥行きのある概念として使われていて、使う人による違いもかなりあるように思います。
    私は『バックラッシュ』を読んでいませんが、宮台氏の「再帰性」という言葉には何度か接しています。本人もどこかで言っていたように、ルーマンとギデンズという大御所の異なる使い方を参照しつつ独自の意味を込めている、と言えるでしょう。現代社会の不透明化を言う時にはルーマン、その不透明な社会の中でいかに生きるか、という時にはギデンズに重心を置いた使い方になっているという印象を私は抱いています。macskaさんが引用している部分はたぶんギデンズに重心があります。
    参考までに、関東社会学会の研究報告に「再帰的近代と否定弁証法」と題するものがあって、そのレジュメには次のように書かれています。
    http://wwwsoc.nii.ac.jp/kss/congress/54/points_section05.html
    >ギデンズら、再帰性論者は、現代社会をモダニティが徹底化した局面として考え、
    >その特徴として、再帰性の高まりを上げている。そこでは、行為者は、行為の社会的
    >諸条件を反省的にとらえ、その条件すらも行為の中で再構成していくものとして
    >とらえられる。自らの実践の土台となる、伝統や社会構造といった自明なものまでも
    >掘り崩す、反省性が高まった社会として、再帰性論者は、現代を考えている。
    >個人と社会との可塑的な関係性や、個人の社会構造からの解放が、そこから生み
    >出されるとしてとらえることで、再帰性の増大を社会批判の可能性の発展として
    >とらえる視点もある。
    たとえば「ひな祭り」を伝統行事として行うにしても、その自明性はもはや喪失し、「なぜこの行事を行うのか」を反省的に捉え直し、選び直した上で行わねばならないのが現代である、という感じでしょうか。宮台氏は「ジェンダーフリー」もそういう状況と軌を一にするものとして捉えて「再帰性」と言っているのでしょう。これが私の理解であり、純子さんもそのように受け取った上で自論を展開しているのは明らかだと思います。

  14. HAKASE Says:

    松沢さんが出版記念プロジェクトのページで意見を書かれていますね.改定や追加の可能性があるそうなので,現時点であがっている文章を読んでみての個人的な感想ですが,macskaさんの最初の方のジェンダーレスの使われ方の指摘にふれずにchikiさんのサイトの定義だけを使って論を構成している点はどうなのかなぁ・・・とちょっと疑問に思いました.
    ただ,あんまり言葉にこだわっていてもしょうがないとは思うので,松沢さんの言うところの「ジェンダーを全部なくす」の*具体的な内容*を丁寧に示して,「ジェンダーフリー」と主張している人とどこがどう具体的に違うのかを明らかにするのが建設的なんじゃないかなと感じました.
    # それで違いが明確になったとしても,単に実現可能性とか優先度とかおりあいのつけかたとか実施順序の違いとかの話になるような気もしないではないですけど.
    あと,ここの掲示板をはじめ,斎藤さんや山口さんが(macskaさんも?)以前から繰り返し述べていた『「ジェンダーフリー」が具体的な実践の話にならずに「啓蒙中心になってしまっている」という問題』は確かにあると思うし,(私自身は,同性愛に関しては昔は啓蒙活動すらほとんどされてなかった状態だったと思っているので,斎藤さんたちの意見には完全にはのれない部分もゼロではないんだけど)そういう話なら,その趣旨は個人的には理解できます(とはいえ,これも2,3年前なら・・・とは感じるのですが).

  15. macska Says:

    松沢さんが出版記念プロジェクトのページで意見を書かれていますね.

    あ、ほんとだ。
    http://www.pot.co.jp/pub_list/2007/02/22/matsuzawa_macska01/
    せっかくブログ形式でやってくれるなら、トラックバックを送ってくれればいいのにね。(こちらからは前回送りたくても送れなかった。)
    数時間後にオークランドに出発するので忙しいのですが、向こうにコメントしておきました。本物かどうか怪しまれるかもしれないので、こちらにも書いておきます。

    コメントどうもです。
    松沢さんの議論は、「ジェンダーレス」という言葉が指すところの「性差をなくすこと」の意味を取り違えています。松沢さんは「性差をなくす」というのを「生徒の性別によって区別したり扱いを変えない」という意味に解釈していますが、そういう意味ではありません。そしてそれは、どういう経緯で「ジェンダーフリー」とは区別された概念として「ジェンダーレス」が導入され、「ジェンダーフリーはジェンダーレスとは違う」という言い方がされるようになったのかという歴史を見ればすぐに分かることです。
    いいですか、ジェンダーフリー論者が「ジェンダーレスとは違う」という時、その「ジェンダーレス」は、生徒たちのアイデンティティや生き方としてのジェンダーの在り方を積極的に否定し、抹消するような教育をする、という意味です。男らしい男や女らしい女がいたら、それはけしからん、とやめさせることをジェンダーレスと呼び、ジェンダーフリーはそういうモノではありませんよ、と言ってきたわけです。
    松沢さんは「ジェンダーを全部なくすことを主張している」と言いますが、例えば「自分は男としてこうありたい」と思っている生徒がいたとして、そうした考えを消し去ることを目的とするような教育(通常の定義によるところのジェンダーレス教育)をするべきだと考えているわけではありませんよね。「生徒を性別によって区別したり違った扱いをしたりしない」という意味で「性差をなくす」と言っているのだと思います。松沢さんが支持されているのは、一般的な定義によるとジェンダーレスではなく、ジェンダーフリー論です。
    ジェンダーレスという言葉自体、ジェンダーフリーについてのよくある誤解をジェンダーフリーから区別し、「これはジェンダーフリーではなくジェンダーレスだ」と言うために作り出されたものですから、あとから「ジェンダーレス」という言葉を「ジェンダーフリー」の意味にすり替えて使用するのは激しく不毛です。わたしはジェンダーフリー論に全面賛成するわけではないですが(だから松沢さんのポジションにも批判があります)、これ以上議論がこんがらがるのも困るので、ホントなんとかしてくださいよ。
    (来週水曜日まで出張です。お返事をいただいてもすぐには反応できませんのでご了承ください。)

  16. Josef Says:

    >ジェンダーレスという言葉自体、ジェンダーフリーについてのよくある誤解をジェンダーフリーから区別し、「これはジェンダーフリーではなくジェンダーレスだ」と言うために作り出されたものですから、
    そうではなくて、「歴史」的には反ジェンフリ側が「ジェンダーフリーはジェンダーレスだ」と批判したのが先でしょ。それに対するジェンフリ側の応答が「ジェンダーレスではない」だった。そして「フリー」と「レス」の区別を試みた。
    そんな区別など不要ではないか、というのが松沢氏でしょう。反ジェンフリは「そんな区別は無意味だ」と言うのですが、松沢氏は親ジェンフリであるにもかかわらず「そんな区別は不要」として更衣室の男女別撤廃等を主張するのだから、私の知る限りでは従来のジェンフリにない、最もラディカルな主張でしょう。

  17. 純子 Says:

    macskaさん、Josefさん
    >ジェンダーレスという言葉自体、ジェンダーフリーについてのよくある誤解をジェンダーフリーから区別し、「これはジェンダーフリーではなくジェンダーレスだ」と言うために作り出されたものですから
    >そうではなくて、「歴史」的には反ジェンフリ側が「ジェンダーフリーはジェンダーレスだ」と批判したのが先でしょう。
    いやいや(^^)。歴史的にいうと、まずは、ジェンダーを男社会が女性を支配するために作り出した抑圧装置と解釈し、それを全廃するべしとする、過激フェミニズムの「ジェンダーレス」の主張のほうが先なんです。(^^)
    それじゃ、あまりに過激すぎるからということで、穏健派のフェミニストが、「ジェンダーレス」をソフト路線にしたのが「ジェンダーフリー」。
    ここらへんの経緯は、10年ほども前に、某講演会で蔦森さんから聞いたことがある。
    「フェミニストの人たちはよくジェンダーレスって言うけど、それだと女らしさは男が押しつけたものだから、化粧なんかするな!とか、セクシーなおしゃれはするな!って話になるでしょ。それじゃ、ちょっと生きづらいから、もっと自由に、そういうのは、自分の意志で選べる「ジェンダーフリー」という考え方のほうがいいと思うんだ…」
    みたいなことを蔦森さんが話しておりました。私の記憶なので、語句はあいまいかもしれないけど、そんなカンジ。聞いていた私は、「あ〜あ、それじゃ、絶対こけるよな」と思ってました。
    当時の私は、例のTS原理主義者との論戦が大変だった時期で、その手の脳天気なお題目がいかに現実の前に無力かというのは痛感していたからです。
    その後、ソフト路線の「ジェンダーフリー」なら大衆にうけるだろうと、東京女性財団が、例のパンフレットでキャンペーンしたら、バックラッシュから猛反撃が……(^^)。
    >よくある誤解だけど、ジェンダーフリーは、性差を全部なくすこと(ジェンダーレス)とは違います。
    といういいわけは、要するに、「私たちは過激派ではありません」と言っているだけで、本来の思想のベースは同じです。だからその反論だと、バックラッシュ派から「オブラートにくるんでいるだけで、実は劇薬なんだろう」という反応をかえされるわけです。そうじゃないですか?
    「ジェンダーフリー」が「ジェンダーレス」の尻尾を噛んでいることは、たとえばスローガンの「男らしく、女らしくより、自分らしく」あたりにもにじんでいます。
    もしこれが、宮台さんのいうようにジェンダーフリーが「社会的性別に関わる再帰性」なら、このスローガンは、本当は「自分にみあった、男らしさ、女らしさを」でないとおかしいわけですね。
    松沢さんの主張は、ある意味「火炎瓶闘争よ、もう一度」みたいなもんです。
    >ciderさん
    『バックラッシュ』発見しますた。調べてみますた(^^)
    『バックラッシュ』の宮台さん自身の脚注より
    「再帰性とは、選択前提(であるがゆえに通常は選択対象にならないもの)が選択対象に繰り込まれた状態。近代社会では「手つかずの自然」は再帰的である。文化ぞ前提づける自然というより、あえて手をつけない文化的選択の結果を意味するからだ。学習の仕方を学習する場合も、選択前提だったものを選択対象とするので、再帰的である。
    似た概念として反省(性)があるが、こちらはシステムと環境との関係がシステム内部で再現された状態(全体が内部的に表象された状態)をいう「世界の中に私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いは、現象学的反省と呼ばれる。
    ジェンダーフリーが再帰的だとは、男女に同じ振る舞いを期待するというより、どんな期待ももはや自明ではないという意識とともに期待がなされるからだ。そこでは選択への期待の前提もまた選択されている。」
    う〜ん、私の理解でもそれほど外れてないようだが………。
    ただ、現象学の「還元」や朱子学の「格物致知」は似てるけど、これは「反省」たったんだな。知らなかった(^^)。
    禅の「見性」は、意識の前提である我を認識対象に起き、我を捨てる(無我)にまで到達させようとするので、こっちはきっと再帰だろうと思う。ただ私は修行がまったくダメなダメ仏教徒なので断言はできないが……(^^)。
    あっ、宮台さん、自分で自分のこと「保守」だっていってる。
    「いまでも私は「頭の悪いネオコン」ではない「新保守主義=再帰的保守主義を自称したい」『バックラッシュ』22p
    オレは保守だけど、八木みたいなバカと一緒にしないでくれだそうです(^^)。
    最後にmacskaさんへ
    >厳密には違うでしょうね。いまの社会において「伝統的な男女のジェンダー」と呼ばれるものは、近代になって男性が労働者として都市部に吸収されるようになってからできたものでしょ。保守派が守ろうとしているジェンダー制度こそ、近代的価値観です。
    ほとんど、私のレスの内容を要約して、頭に、「厳密には違うでしょうね」をつけただけで反論した気になっているな(^^)
    まあ、Makikoさんと松沢さんと私で、全然、別の方向むいているから、全員に対応するのは確かに大変だと思うけど……。
    こっちは別に急がないから、出張がんばってくださいね。

  18. Josef Says:

    なるほど、私は10年以上前のことは知りませんが純子さんの言う通りだとすると、
    ジェンレス時代→ジェンフリ時代→ジェンフリはジェンレスじゃないよ時代
    という流れなのですね。
    そしてイワユル「保守」に言わせれば結局どれもジェンレスじゃないか、ということになる。
    いずれにしても、ジェンフリへの誤解に対して「それはジェンフリではなくジェンレスだ」と言うために「ジェンダーレス」という言葉が作り出されたというmacskaさんの「歴史」解説は間違いですね。
    >要するに、「私たちは過激派ではありません」と言っているだけで、本来の思想のベースは同じです。
    「歴史」を知らない(知らないフリかもしれないが)松沢さんはそのものズバリを言っちゃってるわけですね。物書きを生業とするプロの慧眼と言いますか。
    >う〜ん、私の理解でもそれほど外れてないようだが………。
    外れてませんね。人がジェンダーを選択するという時、当人にとってジェンダーは既に前提となっていて、自らの選択前提が選択対象の中に織り込まれている。そこから純子さんは俗世から出家した僧の比喩で話を発展させる。私は庶民でありつつ庶民を操作・支配するエリートを連想する。ciderさんはきっと別の再帰性を念頭に置いているのでしょう。この言葉、どうもかなり幅があるようですから。
    ところで純子さんが引用した宮台氏の注釈、現象学的反省の部分はおかしくありません?
    >似た概念として反省(性)があるが、こちらはシステムと環境との関係がシステム内部で再現された状態(全体が内部的に表象された状態)をいう「世界の中に私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いは、現象学的反省と呼ばれる。
    *途中、「いう」の所で切れているのですよね?
    世界=環境と「意識」システムを前提として、両者の関係が「意識」の内部に再現・表象された状態が「反省性」で、とりわけ「世界の中に私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いが現象学的反省だと言っているように読めます。でもこれでは「世界」と「世界を認識するこの意識」との伝統的な二分法になって、現象学のモチーフが台無しだと思うのですが、現象学に詳しい純子さん、いかがですか?

  19. 純子 Says:

    私は現象学に関しては、専門家でもないし、単に、竹田青嗣さんの本の読みかじり、聞きかじりで……。還元の手ほどきは神名龍子に、ちょこっとしてもらったレベルなので……(^^)。
    ただ宮台さんの説明だと、確かにフッサールの哲学とカントの哲学の区別がよくわからない(^^)。まあ、でもそれはそれでいいんだと思う。宮台さんも現象学が専門というわけでもないんだろうから。
    私の理解するところだとたぶんこういうことだと思う。
    カント哲学
    システム=世界を認識する意識
    環境=世界
    現象学
    システム=「世界の中に自分がいる」という認識
    環境=体験流(知覚現象の流れ)
    たぶん、再帰も反省も、再帰させることより、なにをシステムと置いて、なにを環境とおくかと、どこでやめるかが重要なんでしょうね。
    Excellで答えを出すセルを含んだ計算式を書き込んでしまうと、「再帰計算は止めてください」とExcellが言ってくる(^^)。
    もし警告しないで、そのまま計算式を機械語に翻訳してCPUに放り込んでしまうと、きっとCPUが暴走してパソコンがフリーズする(^^)。
    だから、再帰計算をやるときは、プログラムを組んで、数字の有効桁数を与え、値が収斂したら終れという命令をあらかじめ与えておかないと、計算が終わらなくなって大変なことになる(^^)。
    反省も同じで、今までの一生の行動のすべてを反省しろといったら、残りの人生をすべてを使っても終わらなくなってしまう(^^)。
    ジェンダーフリーが再帰だとしても、あまたあるジェンダーのすべてを再帰させてたら、きりがなくなってしまいまつ(^^)。だから、私は「ジェンダーフリー」を百回いうより、再帰させる根拠のほうを提示しろって言っているわけです。

  20. HAKASE Says:

    どうも.
    >macskaさん.
    反論を公開するって書いてあったので,macskaさんには連絡いってるものと思ってました(^^;
    前回「どこがどう具体的に違うのかを明らかにするのが建設的」と書きつつ,具体的な話をあげてなかったので,自分とは違うかもしれないと予想している部分を具体的に書いてみようと思います.
    私自身が,ジェンダーフリー関連の話を知ったのは,学校の教育で「思春期になると異性を愛するようになる」って趣旨の話をする際に「同性が好きになる人もいる」と一言だけでも補足してもらえれば,とか思って(すこたんさんの活動とかの影響もあったりする),性教育関連の話を調べたりしてた時でした(2000〜2001年ごろだったと思う).
    で,その時には,ジェンダーフリーは「男らしさ,女らしさ(性に関わるものごと)を押し付けない」という感じの使われ方をしていて,その考え方が上の話とフィットしたんで(その後いろいろ自分の考え方は発展したりしてますが)基本的には,この考え方について支持をしてます(もちろん,以前山口さんたちからも指摘されたんだけど,性的指向の話は社会的性(ジェンダー)とは若干違う概念だというのは承知してて,でも方向性として含まれていると思うので).
    その観点から言うと,松沢さんのいう「ジェンダーレス」には,「教育現場で上記のような情報提供をすること」は含まれないように思うので,その点が自分の考え方と部分的に違うのかな…という気がしています.

  21. Josef Says:

    >ただ宮台さんの説明だと、確かにフッサールの哲学とカントの哲学の区別がよくわからない(^^)。まあ、でもそれはそれでいいんだと思う。宮台さんも現象学が専門というわけでもないんだろうから。(純子さん)
    お答え有難うございます。
    自分が質問しといてナンですが、フッサールを念頭に置いた私が間違っているような気がしてきました。宮台氏は社会学なんだから、シュッツとかの現象学的社会学の方が念頭にある可能性が高く、それならあの説明でもおかしくはないのでしょう。現象学的フェミニズムになるともうフッサールとは何の関係もなさそうだし。
    それはともかく、「ジェンダーフリーとは○○のこと」と言ってみても「本当の愛とは○○のこと」と言うのと同じくあんまり意味はないのでして、重要なのはこの言葉で具体的に何が主張され、行われたかでしょうね。典型例が「東京女性財団が、例のパンフレットで[…]」ではあまりにバカバカしく、虚しい。

  22. 純子 Says:

    こういう考え方もできると思った。
    松沢さんの主張、国民のジェンダーの自由を保障するためにも、逆に公教育はジェンダーレスであるべしという主張は、すでにもう実現していることなのではないかと?
    考えてみれば、日本の公教育は、すでにジェンダーレスなものなんです。
    たとえば女子向けの国語の教科書とか、男子向けの社会の教科書ってありますか?ないでしょう。メインな教科においては、男子と女子の差はほとんどありません。
    貝原益軒の「和俗童子訓(女大学」1710年)やルソーの「エミール」(1762年)の時代のように、「女性は家事だけできればいい、学問は不要である」なんて思われているわけでもない。女子校、男子校というのはあっても、教科内容は、ほぼ同じです。
    私が中学時代は、確か、技術科と家庭科の授業時間のウエイトが男女で違っていただけでしたが、これも現在では同修になっているはずです。
    残りは、高校の選択科目(柔道、剣道、ダンス)くらい?。これも今どうなっているやら……。なにしろ男子バトントワリングまである時代だからなあ。選択だし、私学だと、もっとたくさんバリエーションがあるかも……。
    するとジェンダーによる区別が残っているのは、制服のデザインをどうするか? 運動会の組体操や騎馬戦の構成をどうするか? 更衣室をどうするか? 書道セットのケースの色をどうするか? くんさんづけをどうするか? 名簿をどうするか? みたいな、どうでもいい周辺的なことにしかジェンダーの区別は残ってないんですよ。
    ただ、この公教育の内部においては「ジェンダーの残滓」ともいうべき部分は、教育指導要領の範囲外(文部省の管轄外)だし、国民の生活習慣や伝統的な慣習に根ざしている部分でもある。そこからジェンダーを追放して、ジェンダーレスにしようとすると、逆に「国家や行政が国民生活の隅々まで監視統制しようとしているぞ!」という形での反発を呼ぶわけですね。
    松沢さんの立論は、一見、過激に見えても、実はJSミルが1869年に出版した「女性の解放」に著した功利主義的自由主義の立場に基づく女子教育論を、その表現だけ過激にしたようなものです。
    でも功利主義的な男女平等教育なんて、すでに明治の良妻賢母思想の段階からすでに国家の文教政策の中に除々に取り入れられてきているわけですね。その後、戦後の教育改革で決定的になり、今にいたっているものなんです。
    >私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していたのですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。
    と松沢さんは言っているけど、実はもう過去にすでに実現されて、保守だろうが、革新だろうがおおむめ認めていることを、表現を過激にして蒸し返しているにすぎません。だから誰もいないんです。
    だいたい「進歩的でものわかりが良い保守、体制側」と「頭が古くて固い革新、反体制」の対立が戦後日本の社会運動の歴史で、その最後の党争がジェンダーフリー論争だという図式は確かにあるような気がします。
    ジェンダーフリー教育にまつわる、フェミニストとバックラッシュの対立は、たいがいが「こんな残滓のようなジェンダー規範まで、いいがかりをつけて守ろうとするバックラッシュはきっと国粋主義を奉ずる軍国主義者にちがいない」VS「こんな残滓のようなジェンダー規範にまで、いいがりをつけて廃止しようなんて、フェミというやつは、きっと国家転覆をたくらむ主義者に違いない」
    という議論になっちゃうわけです。
    まったくバカとアホの論戦です(^^)。こんなのにかかわってたら、脳味噌がいくつあっても足りやしない。

  23. HAKASE Says:

    どうも.出版記念プロジェクトの松沢さんのページが更新されていますね.
    松沢さん,どうやら,もう一度一から考えてみるという事みたいです.
    いろいろ推測してみてもしょうがない気がするし,個人的には「用語の区別」の話より,教育現場で具体的にどういう事をしたら良いと考えていて,従来とは具体的にどの部分がどう違うと考えているのか,の方に興味があるので,そういう話へ発展するといいなぁと思ってます.

  24. makiko Says:

    HAKASEさん
    > 教育現場で具体的にどういう事をしたら良いと考えていて,従来とは具体的にどの部分がどう違うと考えているのか
    ですね。
    私とmacskaさんの議論の噛み合わなさも、その辺にあるのかもしれません。というか、macskaさんのジェンダーフリー批判の裏にある対案がよく見えない。
    あと、純子さんやJosefさんの議論もレスつけたいところが多々ありますが、全部にレスできる状況ではないので。

  25. mizusumashi Says:

    > macskaさん
    > 「特別な事情がある人」だけでなく、すべての人が不自由な自己決定を迫られま
    > す。だからこそ、もっと自由に選べるように、多様なジェンダーに寛容な社会の
    > しくみを作ろう、という呼びかけがあるのね。
    自由が,そんなに幸せなんでしょうか?
    いわゆるバックラッシュ派はそういう「自由」がいやなわけですよね。不自由な自己決定がしたいというよりも,ジェンダーの選択という点において,そもそも自己選択したいとも,できたほうが幸せだとも思わない。
    > > むしろジェンダーフリーを感得して、かえって伝統的で保守的な男女観に回帰してし
    > > まう可能性は大きい。
    >
    > それで幸せならいいんじゃないですか。
    >
    > ただし、もしその人が「自分が本来ありたい形でジェンダーを表現したら損をするから、
    > 生きにくくなるから」伝統的な男女観に回帰するのだとしたら、それは幸せとは言えま
    > せんから、より寛容な社会にしたいですね。
    「自分が本来ありたい形でジェンダーを表現したら損をするから…」という人は確かに不幸せかもしれませんが,そもそも「自分が本来ありたい形でジェンダー」について考えたくない人にとっては,自由がなくて不幸せだということもなければ,むしろ自由があるほうが不幸せだということもありえます。
    やっぱり,規範としてのジェンダーがなくなる・かなり緩和されることは,一部の人を不幸にし,一部の人を幸せにするというのがありそうなことだと,私には思えます。
    いや,私自身は,ジェンダーの選択は多様なほうが面白そうだし,不自由によって一部の人たちが得るメリットよりも,他の一部の人たちが得るデメリットのほうが大きいとは思っているんですが。

  26. macska Says:

    純子さん:

    いやいや(^^)。歴史的にいうと、まずは、ジェンダーを男社会が女性を支配するために作り出した抑圧装置と解釈し、それを全廃するべしとする、過激フェミニズムの「ジェンダーレス」の主張のほうが先なんです。(^^)
    それじゃ、あまりに過激すぎるからということで、穏健派のフェミニストが、「ジェンダーレス」をソフト路線にしたのが「ジェンダーフリー」。

    ジェンダーを全廃すべしと主張した人は、男性と女性が全ての面で同じになるべき(いまでいうジェンダーレス)だと言ったのですか? 違うでしょ。男性でも女性でも関係なく、全ての人々が個人として扱われるべき(いまでいうジェンダーフリー)だと言ったんでしょ。
    過去のフェミニストの中には、そのためには女性が妊娠出産する役割を放棄する必要があると言う人がいたり(子どもを「産む機械」を実際に開発しよう、とか)、いろいろ過激な主張もあったけれども、基本的な論理はいまでいうジェンダーフリーです。
    そして、ここは松沢さんや伏見さんがこだわっている点だと思うのだけれど、ジェンダーフリーが社会全体で極限まで追求されれば、ジェンダーは制度として全廃されたと同じことになります。当たり前ですね。
    だから、結局ジェンダーフリーとジェンダーレスは区別ができないのではないかと言う人がいるわけですが(これは以前既に論じています)、制度としての撤廃を求める立場と、人々の生き方の実態としての抹消を求める立場は違います。もちろん前者がジェンダーフリーで、後者がジェンダーレスですね。松沢さんに習って宗教に喩えれば、前者は政教分離であらゆる信仰が対等に扱われる社会、後者はあらゆる信仰が禁止された社会です。
    Josefさん:

    いずれにしても、ジェンフリへの誤解に対して「それはジェンフリではなくジェンレスだ」と言うために「ジェンダーレス」という言葉が作り出されたというmacskaさんの「歴史」解説は間違いですね。

    もしかするとジェンダーレスという言葉の初出ではないかもしれませんが、ジェンフリ論争で出てくる「ジェンダーレス」という概念はそのような経緯で新たに作り出されたものです。それ以前の「ジェンダーレス」があったとしたら、全く別の文脈で別の意味に使われたものでしょう。

    典型例が「東京女性財団が、例のパンフレットで[…]」ではあまりにバカバカしく、虚しい。

    東京女性財団の『GENDER FREE』、実際に読んだことありますか? これまで誰も問題にしていない部分でも、例えば「日本人が名字を先に、名前を後で呼ぶのは個人を軽視している、欧米のように名前を先で呼ぶのがいい」みたいなことが書かれているなど、はっきり言ってトンデモです。しかし念のため言っておくと、このパンフを書いた学者たちはフェミニズムの運動や研究に関わってきた人ではありません。
    というわけで、あれをジェンダーフリーの代表みたいに言うのは、プロフェッサーを保守論客の代表みたいに言うようなモノでしょう(笑)
    HAKASEさん:

    どうも.出版記念プロジェクトの松沢さんのページが更新されていますね.

    あ、本当だ。
    http://www.pot.co.jp/pub_list/2007/03/01/matsuzawa_macska01/
    確かに、用語の区別は入り口に過ぎないので、そこから先の議論が大切ですね。
    makikoさん:

    というか、macskaさんのジェンダーフリー批判の裏にある対案がよく見えない。

    対案というか、もっと原則的なものとして、性別による区別が必要な可能性を排除すべきではない、と言っているのですが。学校がどうであろうと、生徒たちが住む社会において男女の区別が付けられている(そして差別や格差がある)のは確かなわけで、それによる影響をきちんと見ないとおかしなことになる。
    例えば教室内の議論で男子ばかりが発言していることがあった場合に、単に個人として「発言が活発な人」と「発言をしない人」がいるから後者がもっと発言できるように気を配ろう、というだけで十分なのかと思うわけ。単に個人の性格の違いとして済ませてはいけない場合があると思う。
    mizusumashiさん:

    やっぱり,規範としてのジェンダーがなくなる・かなり緩和されることは,一部の人を不幸にし,一部の人を幸せにするというのがありそうなことだと,私には思えます。

    それはあるかもしれないですが、当面心配する必要ないのでは。少なくともわたしたちの生きているあいだくらいは、「自分の在り方について考えたくない人」が何も考えずにフォローできる程度にはジェンダー規範は残るでしょうし。
    そのような人とは別の集団ですが、「伝統的な男女観」を他者に強要したいという欲望を持つ人たちは、そうした強要ができない世の中になれば不幸になるかもしれません。が、他人の自由を侵害するかたちの幸福追求は認められないので、かれらには別の趣味を見つけてもらうしかないですね。

  27. Josef Says:

    macskaさん
    >もしかするとジェンダーレスという言葉の初出ではないかもしれませんが、ジェンフリ論争で出てくる「ジェンダーレス」という概念はそのような経緯で新たに作り出されたものです。
    これに関する資料を持っているわけではないので、上記が歴史的に跡付けられるのならそうなのでしょう。経験上のことではありますが、当初「ジェンダーフリー」を我流解釈で好意的に取っていてニ三の場所で宣伝したところ、「ジェンダーフリーは要するにジェンダーレスではないか」と複数から批判され、「いや、違う」と懸命に(でもないが)説明していたことがあるのです。エディタに書いた自分の文を見ると世紀の変わり目ごろの話。でもだんだんと批判の方が正しいことが分かってきた。というのも目にするジェンフリ推進者たちはジェンダーを悪しきものと見なしてジェンダーフリーと言っていることにようやく気づいたからです。ジェンフリはジェン「レス」ではない、という形での差異化を見かけるようになったのはその後のことでした(日本女性学会とか)。それで前のように書きましたが、あくまでも個人的な経験を元にしており、これが客観的事実であると言い張るつもりはありません。
    >というわけで、あれをジェンダーフリーの代表みたいに言うのは、プロフェッサーを保守論客の代表みたいに言うようなモノでしょう(笑)
    ジェンダーフリーは「あれ」が出所だったのでは?「保守」の場合だとよくバークが引き合いに出されるようなもので、最初に主義主張としてまとまった形で提出されたものを「代表みたいに言う」のは全然おかしくないでしょう。『GENDER FREE』が「トンデモ」ならば、もともとジェンダーフリーは「トンデモ」だったというだけだと思いますが。

  28. macska Says:

    Josefさん:

    でもだんだんと批判の方が正しいことが分かってきた。というのも目にするジェンフリ推進者たちはジェンダーを悪しきものと見なしてジェンダーフリーと言っていることにようやく気づいたからです。

    ジェンダーを規範として捉えるなら、悪しきものと見なす人がいておかしくないでしょう。しかし、「専業主婦という制度はよくない」という主張を「専業主婦という生き方はいけない」と勘違いする人がいるように、「規範を解体しよう」という主張を「外見上規範に合致した生き方はいけない」と勘違いした人だってもちろんいたと思います。そういう勘違い連中は批判されて当然ですが、勘違い連中の存在を理由にジェンダーフリーの概念全体を否定してしまったり、ジェンダーフリーとはそういうものだと決めつけるのは論理的におかしいです。

    『GENDER FREE』が「トンデモ」ならば、もともとジェンダーフリーは「トンデモ」だったというだけだと思いますが。

    意味の変化に関係なくもともとどうだったと言うなら、ヒューストンの「教育はジェンダーフリーであるべきか?」もあるわけですが。もちろんヒューストンはジェンダーフリー教育に批判的に言及していますが、彼女が批判するところのジェンダーフリー教育はだいたい通常使われる意味の(HAKASEさんが主張するモノよりはちょっと保守的な)ジェンダーフリーとかなり近い意味ですよ。もっとも、近い意味になったのは偶然でしかないですが(笑)
    『GENDER FREE』には、こういう内容もあります。

    「こだわるようですが、ジェンダー・フリーだと、どうしても人間が中性になっていくような気がするんですが。だって、逐語訳すれば、『性別からの自由』じゃないですか。」
    では、こう考えてみたらどうでしょう?
    ジェンダー・フリーは、
    人々の行動を不自由なもの、不幸せなものにしてしまう、
    「ネガティブな意識や行動」から自由になること。
    男女の「魅力的でポジティブな部分の特徴」についての
    フリーではないのです。
    「それなら少し、ほっとしますね。」
    どんな時代にあっても、
    異性はお互いに惹かれあう存在でなければ…
    男らしさ女らしさ、大いに結構!

    このいい加減さに頭がクラクラします。

  29. 純子 Says:

    macskaさん:
    >制度としての撤廃を求める立場と、人々の生き方の実態としての抹消を求める立場は違います。
    制度と人々の生き方の実態というのは、密接な関係があってわけがたいわけです。そこのところをきちんとほぐして議論をしなければ、容易にジェンダーフリーはジェンダーレスに先祖帰りします。
    だから個々の制度に関していうならば、○○の制度はジェンダーレス(ジェンダーフリー)であったほうがいいという議論は出きるわけですよ。
    作業服みたいなものはジェンダーレス(ジェンダーフリー)な洋服でいいという表現はできるわけです。日本語でいえば、「男女兼用」とか「性別不問」みたいな使い方です。こういう表現なら問題ない。英語だとヒューストンさんのいう、「Gender-blind」ですね。
    でも、それなら、「ジェンダーレス運動」とか、「ジェンダーフリー教育」とかいうスローガンは必要ないわけです。個々の制度について改革を求めればいいわけですからね。
    でも、大峰山の女人結界だけであれだけもめるわけですよ(^^)。それを「ジェンダーフリーだから、大峰山の女人結界は女性差別だ……」とやったら、「それは、いわゆる『造反有理』だろう」と反論されるわけです。
    むしろ「公民の自由なジェンダー表現を守るために公教育はむしろジェンダーレス(ジェンダーフリー、Gender-blind)であるべし」と極論してくる松沢さんのご意見のほうがまだ明晰でわかりやすいですよ。これだと大峰山修験宗は公教育じゃない一宗教法人ですから関係なしです。
    もっとも、どこまでジェンダーレスにすべきか? というところで、松沢さんは、ヒューストンさんや私と議論にはなりますが、たがいに話し合ってそれなりに妥当な結論も導きやすい。いくら保守の私でも、国語算数理科社会までジェンダー分けしろなんて極論は主張しませんから(^^)。ていうか極論を主張したら保守ではない。
    >それ以前の「ジェンダーレス」があったとしたら、全く別の文脈で別の意味に使われたものでしょう
    そういうのを、歴史の改竄とか抹殺って言うんですよ。
    >東京女性財団の『GENDER FREE』、実際に読んだことありますか?
    10年ほど前に読みますた。以来、ずーと、バックラッシュです(^^)
    >しかし念のため言っておくと、このパンフを書いた学者たちはフェミニズムの運動や研究に関わってきた人ではありません。
    東京女性財団はフェミニズムではない?!!。うわー粛正だ!粛正だ!(^^)トカゲの尻尾切りですね。
    これでは東京女性財団は、まるで大首領に見捨てられ「ショッカー万歳!!」と叫んで自爆した地獄大使のようだ。そうか、macska以降の「ジェンダーフリー」は実は「ゲルジェンダーフリー」なんだな(^^)。
    >というわけで、あれをジェンダーフリーの代表みたいに言うのは、プロフェッサーを保守論客の代表みたいに言うようなモノでしょう(笑)
    語るに落ちたな(^^)。
    東京女性財団のジェンダーフリー思想は、狂気の天才プロフェッサーの主張と同レベルなわけですか? 山口智美さんによれば、あれが「ジェンダーフリー」がまとまった著作として発表された初出なんでしょう。いわゆる親ガメですから、親ガメがコケたら、それ以降の子ガメは全部コケます。
    保守の親ガメはエドマンド・バーグだからプロフェッサーは子ガメ。子ガメがこけても親ガメはこけない。というより親ガメの立場から、子ガメがどこで「狂気の天才」にはまってしまったかを説明できるぞ。
    >しかし、「専業主婦という制度はよくない」という主張を「専業主婦という生き方はいけない」と勘違いする人がいるように
    「専業主婦という制度」なんてどこにあるんだ。「専業主婦だけを優遇する税制度」とか言うならともかく……(^^)。私は、そういう大雑把な思想は簡単に「くたばれ、専業主婦」になるぞと、注意を喚起しているわけだから……(^^)
    HAKASEさん:
    >個人的には「用語の区別」の話より,教育現場で具体的にどういう事をしたら良いと考えていて,従来とは具体的にどの部分がどう違うと考えているのか,の方に興味があるので,そういう話へ発展するといいなぁと思ってます.
    でも、「ジェンダーフリー」にこだわるかぎり、このように神学論争にしかならないんですよ(^^)
    むしろ
    >学校の教育で「思春期になると異性を愛するようになる」って趣旨の話をする際に「同性が好きになる人もいる」と一言だけでも補足してもらえれば,とか思って(すこたんさんの活動とかの影響もあったりする),
    こっちのほうを、直接、100回以上、言い続けたほうが、まだ効果があるような気がします。これなら「学校教育で同性愛を教えるなんてふしだらです」の山谷えり子議員だって「う〜ん」と腕組みして考え込んでくれるかもしれないでしょ?

  30. HAKASE Says:

    どうも.
    >純子さん.
    >でも、「ジェンダーフリー」にこだわるかぎり、このように神学論争にしかならないんですよ
    上で書きましたが,私自身は,教育現場で「男らしさ,女らしさ(性に関わるものごと)を(特に抵抗を感じる人などに対して)押し付けない」で欲しいって思ってます.で,たまたま今まで知った用語の中で,他と比べてこの考え方を明確に含んでいて表現できてたのが「ジェンダーフリー」でした(少なくとも私が知った当時にこの関係で私が接した範囲での使われ方では).
    だから,上の考え方が明確に含まれていて表現もできる(しっくりとくる)用語が他にあるなら,別に「ジェンダーフリー」という*単語*にこだわる気はないです.
    逆に言えば,私自身は「ジェンダーフリー」に含まれるそういう考え方には,ある意味でこだわってます.で,その考え方とからめて,現場の具体的な話を展開できればもっと建設的なんじゃないかと思って今回は書き込みをしています.
    なので,『「ジェンダーフリー」(という単語表現)にこだわるかぎり、このように神学論争にしかならない』って面は確かにあるとは思いますが,でも『ジェンダーフリー(に関連する考え方)にこだわるかぎり神学論争にしかならない』ということはないと思います.
    >こっちのほうを、直接、100回以上、言い続けたほうが、まだ効果があるような気がします。これなら「学校教育で同性愛を教えるなんてふしだらです」の山谷えり子議員だって「う〜ん」と腕組みして考え込んでくれるかもしれないでしょ?
    仮に「ジェンダーフリーにすべき」と100回言ったのと比べて,その考え方に「も」もとづいている『具体的な一例』を100回言う方が効果があるというのは確かにそうだと思います.
    ==以下は余談です==
    ただし,最後の山谷さんうんぬんの話については,数年前ならそういう期待を持ったかもしれないけど,今の自分はなかなかそうは思えないです.少なくとも,山谷さんも関連してた自民党の実態調査プロジェクトチーム(?)のアンケートに対して,私自身は,自由記述欄に上の内容に近い話を書いて送信したりもしてます(山谷さんが目を通したかどうかはわかりません).でも,そのアンケート結果の使われ方は私にはあまりにもひどく見えたし,そのせいで少なくとも私はこのプロジェクトの関係者にはとても強い不信感を持ってます(←表現おだやかですけどホントはもっときつい言葉を使いたい・・・).
    もちろん,具体的な内容を話すことで,今まであまり目を向けてくれなかった人の一部が再考してくれるという事はあると思いますし,そういう趣旨そのものは理解できますけどね.

  31. Josef Says:

    >macskaさん
    >このいい加減さに頭がクラクラします。
    ジェンダーフリーのおかしさにはすっかり慣れてるからさすがにもうクラクラはしませんよ。
    ご紹介の部分は「ラブ&ボディブック」の「男らしさに縛られずリアル・マンになろう」に似てますね。このいい加減さというかトホホぶりこそジェンダーフリーの王道でしょう。「リアル・マン」には欧米崇拝も感じられますが、この卑屈な心性も『GENDER FREE』の以下の内容に共通していますね。
    >「日本人が名字を先に、名前を後で呼ぶのは個人を軽視している、欧米のように名前を先で呼ぶのがいい」みたいなことが書かれている
    卑屈は傲慢の裏返し。どっちに転んでも主張内容はトホホになってしまうようです。

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