シンポ「フェミニズムと障害」で再生産された「障害者役割」

3/10/2006 - 10:15 pm by macska このエントリーを含むはてなブックマーク

もう1ヶ月以上もずっと病気中。高熱・咳・呼吸困難みたいな症状がでているのだけれど原因が分からず(血液検査してもX線検査してもどこも悪いところは見つからない)、もしかしたらわたしがブログや講演で医療のイデオロギーを叩いているのをどこかで聞いて医者がいじわるしてるんじゃないかという気もしないではない。わたしのお医者さん、日本人だし。でもずっと寝ているわけにはいかないので、ビョーキが全快しないまま、某大学でシンポジウムにパネリストとして出席。「フェミニズムと障害」がテーマだったので、先日当ブログに載せた「インターセックスからDSDへ」の内容に近いことを短くまとめて早口でしゃべる。

ところが、一緒にパネルで発表していた人の一人がサイテーだった。CP(脳性マヒ)のある14歳の女の子のお母さんなんだけれど、プログラムにはお母さんの名前だけが書かれているのに何故かその子も壇上に上がっている。そのお母さんが言ってたことは、短く要約しちゃうとわたしの娘は凄いんだから正常でないなんて言うなというだけで、まぁそのメッセージ自体は親として本当に思っていることだろうからそれでいいんだけど、プレゼンテーションに問題ありすぎ。

お母さんはこう言う。障害者(the disabled)なんて言うと何もできないみたいにきこえるけれど、娘は普通の学校に通っていて成績は優秀だし11歳にしてレシピ集を出版している、ほらこの新聞記事を見て、と掲げた記事のヘッドラインは、「Always Smiling」(常に微笑んでいる)。でも、常に微笑んでいる人間なんているわけがない。いくら子どもでも、常に微笑んだりはしていない。

ブログの上記のエントリを読んだ人は、「障害者役割」というのを思い出してみて。障害者に社会的に押し付けられた役割の内容はいろいろあるけれど、その中心的なものは、他者の善意と愛情を注ぎ込まれる受動的な対象であることなのね。「常に微笑んでいる」という、人間として絶対にありえない在り方まで欲求されてしまうこのメディア的扱いは、わたしはグロテスクだとおもう。そのグロテスクさを告発するために「われらは、愛と正義を否定する」と宣言したのが、同じCP者らの団体、「青い芝の会」だった。

でも、新聞に載ったのもレシピの本を出版できたのも、彼女がCPで、記事を書いた記者や新聞を読んだ人や本を買った人がそれを通して自分の善意と愛情を確認できる便利な「魔法の鏡」だから。わたしは、障害者自身がそういう社会の視線に便乗して商売するのは否定しないけど、そういう役割を親が障害を持つ子どもに教え込むのはおかしいと思う。そりゃま、親としては娘が新聞で大きく取り上げられていたら嬉しくて内容まで気がまわらないモノなのかも知れないけどさ。

90年代前半に大手メディアにおける障害者の表象を調査した障害論者のジョン・クログストンは、メディアにおいてよくあるパターンの一つとして「スーパークリップ」という分類を提示している。「クリップ」とは「crippled」と同義で、障害者のことであり、「スーパークリップ」というのは文字通りスーパーマンのような特殊能力の持ち主として表象される障害者を指す。(Clogston JS. 1990. Disability coverage in 16 newspapers. Louisville KY: Advocado Press.)

「スーパークリップ」にも2つのパターンがあり、障害がある「から」何か特殊な物凄い才能があるとする表象(11歳で本を出版!)と、障害がある「にもかかわらず」障害がない人と同等のことができるのが凄いとする表象(CPなのに普通の学校に通っていて成績優秀!)だ。いずれも、障害者を「自分たちを感動させてくれる装置」として消費することで、どうして今の社会において障害者たちが普通に生活しその持てる才能を発揮することがそれほどまでに驚きなのか、あるいは難しいのかという問いを覆い隠している。

お母さんの発表の途中、娘が何か声明を準備してきたからと言って女の子に発言権を譲る。彼女はCPの症状によってしゃべる言葉が非常に聞き取りにくいので、あらかじめ発言内容をコンピュータに打ち込んでおいて当日は音声合成によってノートパソコンに読ませたようだ。ところがその声明の内容というのが母親の発言の繰り返しでほんの数行程度だけ。「わたしを異常として扱わないで欲しい、みんなと一緒に扱って欲しい。」 その発言に嘘はないのだろうけれど、14歳の成績優秀な女の子の書いた作文にしては幼稚すぎる。でもそれは、彼女のせいとは思えない。

彼女は体も小さく、外見上14歳よりずっと若く見える。CPのために一般と同じテンポで会話することはできないし、動作にも制約がある。なぜだかわからないのだけれど一般社会では、彼女のような身体を持つ人たちに、まるで幼い子どもをあやすかのように話しかける傾向がある(これは、当地の言語に不自由な外国人についても言える)。それだけでなく、彼女は母親に連れられて他にも同じようなパネルで母親と一緒に発言しているという。もし彼女がその成績優秀だという能力を発揮してより中学生らしい文章を書いてしまったら、母親が「娘を代弁する『完璧な愛情』の持ち主」を演じられなくなって困るのではないか。

聴衆も聴衆だ。母親が新聞紙を掲げたり「以前はこんなに時間がかかったことが今ではこんなに速くなった」とかいう話するのにいちいち拍手したり、女の子が幼稚な「声明」を読み上げると一斉に微笑んでまた拍手。いや、それぞれの発言者に拍手するのは構わないんだけど、ニヤニヤと抜けた善人面見せながら拍手しないでくれよ、目のやりどころに困るから。

パネルの時間が終わりに近づいたとき、女の子が何か言いたそうにしだしたのだけれど、母親が「それは終わってからにしなさい」と諌めて黙らせた。あのタイミングで彼女に語らせると終了時間を大きくオーバーしそうだから仕方がないと判断したのかもしれないけれど、本当にそれだけか? というか、司会者が「もう時間ですので終了しましょう」というならともかく、一発言者でしかない母親が止めることはなかったのでは。

本来なら、女の子をきちんと発言者として呼んで、中学校における経験とかきちんと報告して欲しかった。でもあの親のコントロール下にあるあいだは、それは難しい。結局、彼女は年齢の割にえらく幼稚な役割を演じさせられているという以外に、彼女のことはほとんど何も分からないままだった。困ったことに、彼女のように重い障害を持つ人たちにとって「親のコントロール」は成人や卒業で終わるわけではない。また仮に親の元を離れたとしても、同じように「障害者役割」を押し付ける福祉サービスに依存し続けることになるのがほとんどだ。それを思い、重い気持ちで会場を後にした。というのは半分ウソで、たまたま居合わせた知り合いを捉まえて夕食に誘いグチりまくった。

グチと言えば最悪なのがさ、その母親と開始前に雑談していたところによるとその人はいま、以前わたしが教えていた大学で女性学の授業受けてて、そのクラスの中でわたしが書いた論文を読まされたって言ってたのよ。おい、あんたわたしの論文ちゃんと読んだの?って聞いてやりたかったけど我慢した。母親と会場の聴衆による女の子に対するものすごく失礼な扱いに怒りながらも、その場で何か言っても女の子に恥をかかせるだけと思って我慢した。発言者の前に水の入ったカップが並べられていたけれど、女の子のカップにストローを入れておく(あるいは、こぼれないカップにする)という、CPの人を知っていれば当たり前な配慮がされておらず、彼女が水を飲むのを助けようと母親が彼女の顔にカップをぶち当てて水をこぼしているのを見て、これくらいは言おうかと思ったけれど、言い出したらそれだけで済みそうにないので我慢した。全部メールで主催者に送ってやろうっと。

54 件のコメント - “シンポ「フェミニズムと障害」で再生産された「障害者役割」”

  1. しゅう のコメント

    なまじっか善意でやってるだけに厄介なんですね(苦笑)

    労わりの気持ちが彼女の可能性を阻んでしまう、
    ある種の思考停止っていうのがいちばん怖いですよね(゚゚

  2. すまきだ のコメント

    家にも障害のある子がいますが、その程度は同じ障害をもつ子どもと比較して
    けっこう軽いです。重い障害をもつ親御さんたちには「ふつうっぽく見えるね」
    なんて言われます。それが世辞になるんですね。それでも「障害」があると知
    ったとたん目をそらすご近所さんやママ友のことを思い浮かべると、「障害」
    者であることからは決して逃れられないんだよ、と思います。

    何かが「できる」って何なんでしょう。最近大まじめに考えています。私は子どもに
    何か能力があるなら伸ばす手伝いをしてやりたいですが、「ほら、こんなに
    できることがあるんだから健常として扱って」なんて言えません。それは他の「障害」
    を持った人を排除することになるから。たまたま障害が軽くて「できる」ことが多くて
    へえなかなかやるね、なんて言われたとしても、そういう人がぽつぽついても、出生前
    診断で障害胎児が中絶される件数は減らないでしょうし。

    「できる」と「できない」は対等なんですよね。「ふつう」「異常」と置き換えてもいい
    かもしれないけど。でもみんな「できる」が好きだから、「できない」は恥ずかしいと
    感じる。「インターセックス」より「DSD」の方がどっちかっていえば確かに受け入れら
    れやすいでしょうね。
    「できない」「異常な」人が「できる」「ふつうの」人に対等感を持つ難しさに目眩。
    それで「『よりできない』探し」に走って自分はまし、と考えるのは醜悪だけどありがち。

    ところで「フェミニズムと障害」というシンポジウムが成り立つのが不思議。
    私にとっては両方気になるテーマだけど。そういう人が他にもいるのね。

  3. しゅう のコメント

    けど、出来ると出来ないが対等だとリハビリテーションって何なんだろうと・・・

  4. xanthippe のコメント

    こんにちは 

    リハビリテーションが障害者を健常者に近づけるための訓練だと考えるか、その子の持っている能力をいろいろ伸ばしてあげるための訓練と考えるか、どちらだといえば当然後者でしょう?

    だからメニューもその方向で考えられているはず。結果として、健常者では思いも及ばないことができたりする。人間の持っている潜在能力ってすごいんだなあ、って。

    それには多様性の大切さを認めて、いろんな才能を生かせる柔軟で懐の深い社会でなくてはならないと思うんですよね。多様性の複雑さに耐えられる、待てる社会っていうか・・・。その辺がフェミニズムにもつながるのだと思います。

    もちろん、社会生活に不便がないよう、自立のための訓練もあるとは思いますが、それはまだ社会が完全にはバリアフリー(あ、今これは使わないんだっけ)になっていないから仕方がなくやっている、つまり「ごめんね、まだまにあわないから不便だけどちょっとがんばって」とお願いする筋のもの。その辺は混ぜないほうが良いと思うのだけど。

  5. しゅう のコメント

    こんばんは〜♪

    >リハビリテーションが障害者を健常者に近づけるための訓練だと考えるか、その子の持っている能力をいろいろ伸ばしてあげるための訓練と考えるか、どちらだといえば当然後者でしょう?

    う〜ん、それはどうかなあ。
    例えば事故による後遺症を負った場合なんかは、「元に戻りたい」と思う人が大半だと思いますよ。
    プロ野球の長嶋さんの件でも、「やっと立って歩けるようになりました!」などと、
    症状が回復していることへの喜びを伝える報道ばかりですからね。

    リハビリの語源自体が「本来あるべき状態への回復。権利の回復、復権。教会からの破門の取り消し。」と言うものですし。

    >結果として、健常者では思いも及ばないことができたりする。人間の持っている潜在能力ってすごいんだなあ、って。

    え、例えばどんなことです?
    リハビリテーションによって常人よりずっと優れた技能を発揮出来るようになったという話は余り聞いたことがないんですよねえ。

    >それはまだ社会が完全にはバリアフリー(あ、今これは使わないんだっけ)になっていないから仕方がなくやっている、

    へえ、バリアーフリーって今は使わないんですか。

  6. xanthippe のコメント

    こんばんは

    このツリーは、事故などで障害を持つにいたった人がテーマだとは思いませんでしたよ♪

    まあでもそうだとしても結果は同じで、リハビリで完全にもとにもどるかというと、難しい場合が多いでしょう。 もちろん怪我や病気の程度や個人差にもよりますが、長島さんだって完全に元に戻れるかどうか、加齢の問題だってあるし。

    リハビリの語源は別として、ほとんどリハビリは「元に戻す」というよりは、やられていない能力を伸ばして補うことが効果的だとされているんじゃなかったっけ?

    知人の娘さんに、盲聾学校で音楽を教えている人がいるのですが、子どもたちの能力のすごさにいつも感動していると言ってます。録音テープを聞かせてもらったことがありますよん。

    それとか、・・・あ、やめとこ。 例はいっぱいあるって。

  7. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんばんは〜♪

    >このツリーは、事故などで障害を持つにいたった人がテーマだとは思いませんでしたよ♪

    ええ、そうですよん。
    私の発言はすまきださんが仰った”「できる」と「できない」は対等”を受けてのものです。

    >まあでもそうだとしても結果は同じで、リハビリで完全にもとにもどるかというと、難しい場合が多いでしょう。 もちろん怪我や病気の程度や個人差にもよりますが、長島さんだって完全に元に戻れるかどうか、加齢の問題だってあるし。

    完全に戻るとは限らないでしょうね。
    けど目指している方向はどっちなんでしょう?

    >リハビリの語源は別として、ほとんどリハビリは「元に戻す」というよりは、やられていない能力を伸ばして補うことが効果的だとされているんじゃなかったっけ?

    補うというのは何を補うんですか?(゚゚
    机上の話は良く知りませんが、作業療法室の患者さんの話とかを聞く限りでは、そんな風には感じないんですよねえ。
    今まで動かなかった指が、昔のように動いたと喜んでる患者さんの顔はよく見るんですけどん。

    >知人の娘さんに、盲聾学校で音楽を教えている人がいるのですが、子どもたちの能力のすごさにいつも感動していると言ってます。録音テープを聞かせてもらったことがありますよん。

    ただ”すごい”と言われても反応に困っちゃうなあ(~~;)

    >それとか、・・・あ、やめとこ。 例はいっぱいあるって。

    むかし、人の名前とか肩書きを覚えるのがとんでもなく得意な子がいて、人覚えの悪い私ではとても真似できんな〜と思ったことがあります(~~;

  8. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんにちは

    すまきださんがおっしゃった「できる」と「できない」が対等かどうかでしたら、しゅうさんはどう考えるのですか?

    「普通」を「基準」にするって言うのはトートロジーだと思うのだけど、しゅうさんの疑問はそういうところから出ているんじゃないですか? リハビリで元に戻るというのは、それまである個人ができたことが事故や病気でそのための能力を失って、他の能力も使って、その個人が又出来るようになるということでしょう? 決して他人の基準に合わせることじゃないはず。 オリンピックの選手が怪我をしてリハビリで目指すのは、一般的な基準よりうえのはずだしい。

    ってことは、「普通」をリハビリの「基準」にするというのは、すまきださんがおっしゃる「できる」と「できない」が対等かどうかという論旨とは離れるのではないかしら? 人それぞれにできることやできないことはあります。それはその人の個性でしょう? 個性だと考えれば対等なのは当たり前、じゃないのかな? 

    平均的なものが無難で受け入れられやすいということは実際にはあるでしょう。でもそれはどちらが優れているとか、上だとか下だとかということではないはず。

    たとえば、2日ほど前にパラリンピックが終わりましたが、オリンピックとパラリンピック、見る人に感動を与えるという点ではどちらも同じでしょう? むしろ勝つことにこだわって薬物を使ったりするようなオリンピックより、パラリンピックのほうがすがすがしい感動を与えてくれるかもしれない。人間ってすごい、と思わせてくれまするよ。

  9. macska のコメント

    体の具合が良くなった(当社比)と思ったら原稿書きでいそがしくて、これまで議論に参加できませんでした。自分のブログなのにごめんなさい。

    生まれつき障害のある人と、事故や病気や加齢で障害を負った人とではいろいろと事情が違いますよね。障害学の初期には、あまりに「障害とは社会的に構築された不公正のことだ」という主張を貫き過ぎて、かつて身体的に可能だったことができなくなった人の「喪失」の体験に無頓着だった時期もありました。「障害」を持つことによる個人の苦しみや悩みのすべてを社会の責任に還元することはできないということはきちんと見つめつつ、それでもやはりその大きな部分を作り出している社会の責任を問うていかなければいけないと思います。

    リハビリについて、まず第一に、CPの子どもで手づかみなら楽に食事できるのに無理矢理フォークとスプーンで食事させる(そうでないと食事させない)ようなやり方は非常に疑問に感じます。第二に、本人がリハビリテーションを希望しているのに他人が「それは『普通』になろうとする同化主義だ」と批判するのはおかしい。インターセックスの手術だって、幼い子どもに勝手にやるから反対しているわけで、思春期くらいになって手術のリスクなんかも理解した上で「手術を受けたい」と言うなら受けさせるべき。第三に、しかし社会の偏見や差別やアクセシビリティの欠如などによって「リハビリや手術を受けない」選択肢が事実上閉ざされていたり、選択し難い状況に置かれている場合、自己決定が阻害されるのでそういう要素は取り除いていかなければいけない。

    最後のあたりが難しくて、例えば誰でも手術を受ければ自分の足で歩いたり階段を登ったりできるような医療技術(というか、新たな義足技術だろうけど)が発達した場合、手術を拒絶して車椅子やスクータを使う人は「自分勝手な都合で車椅子を使っているのだから、歩道から段差を取り除くなどのコストを社会的に負担してやる必要はない、結果的にアクセシビリティが確保できなくなっても自己責任だ」「社会に余計な負担をかけないように強制的に手術をほどこすべきだ」という話が必ず出て来る。というか、ここまではっきりしてなくても現実にこういう問題は既にある。米国の例だと、ちょっとばかり活発すぎる子どもにリタリンを飲ませないと登校を認めないとかね。

    だからリハビリについては、現実として否定できない部分があるけれど、それがもっと進んだ先に起きる問題については、いまから障害学なり医療倫理などの面からじっくり考えておく必要がありそう。

    xanthippe さん:

    むしろ勝つことにこだわって薬物を使ったりするようなオリンピックより、パラリンピックのほうがすがすがしい感動を与えてくれるかもしれない。人間ってすごい、と思わせてくれまするよ。

    えー、パラリンピックだってドーピングはあるし、本当は障害のない人を書類上障害者として(あるいは、軽度の障害者をより程度の重い障害者として)出場させるという事件も何度も発覚してますよ。ま、世間にとっては障害者はひたむきで純粋で「感動的」でなくては困るので、あんまりそういう面は注目されないのかもしれませんが。

    ところで、わたしはスポーツを観戦していて感動するという感情がよくわからないです。応援しながら見てて楽しいとか、あのシーンはカッコ良かったとか、そういうのは分かるんですけど… 一体、人々はどうしてスポーツ観戦で感動できるんだろう?

    # テレビに写っているからお約束で感動してるだけだったりして。

  10. みずすまし のコメント

    皆さま、はじめまして(たぶん…)。
    xanthippeさんのコメントについて少し疑問が思いつきましたので、好奇心から、質問させてください。

    > リハビリテーションが障害者を健常者に近づけるための訓練だと考えるか、その子の持
    > っている能力をいろいろ伸ばしてあげるための訓練と考えるか、どちらだといえば当然
    > 後者でしょう?

    後者の考えは、「その子の持っている能力」が「伸ばしてあげ」られた状態のほうが、「伸ばしてあげ」られてない状態よりも、すばらしいという価値観が前提されているようにも、私には思えます。

    (もちろん、何であれ本人が望むならその訓練をすればよいという価値観を前提にして、後者のような意味でリハビリテーションをとらえることもできるでしょう。しかし、その場合、前者のような考え方を批判する根拠にはならないように思います。)

    > 知人の娘さんに、盲聾学校で音楽を教えている人がいるのですが、子どもたちの能力の
    > すごさにいつも感動していると言ってます。録音テープを聞かせてもらったことがあり
    > ますよん。

    ここでも、ある種の「能力」を持っていることをすばらしいこととする価値観が前提されているように、私には思えます。

    以上の二箇所で、xanthippeさんは「ある能力があることは、その能力がないことよりもすばらしい(つまり、対等ではない)」という価値観を前提されているのでしょうか? もしそうではないのでしたら、前述の二箇所は、どういうご趣旨なのでしょうか?

  11. ゴンゾ のコメント

    macskaさんの記事にあるスーパークリップの件について一言。
    これは知的障害の方面ではイディオ・サバンの問題として昔からあるのと似ている。日本で言えばそれは山下清~大江光までの流れを思いつく。作品の天才性を礼賛するというよりは、知的障害のある人がそれをつくったことの珍しさが根底にあるわけでしょ。
    別に芸術的な才能は無くても、数字の記憶力が強いとか、年月日と曜日を遡って覚えているとか、指先の感覚が鋭くて100分の1ミリの単位で当ててしまうとか、そういう才能を持った人が稀にいるけれども、知的障害があるということには変らない。特異な才能だけをありがたがって尊重するというのは、障害者への世人の認識の一つとして昔からあるとしても、見世物的興味を煽り、当事者の親はわが子にも特別な才能があるはずだと妄信するなど、いろんな点でやはり問題ですよ。

    次。
    すまきださんが仰ったような”「できる」と「できない」は対等”ということについて。これは障害観の話として重要なのでは。障害があるから~ができない、という風に劣弱性を列挙するような障害観には抵抗を感じるし、しかし「障害があるのに〜もできる」という風にあれもできるし、これもできるじゃないかというだけでは、現実に障害に悩んだり苦しんでいる本人や家族の思いを見過ごしてしまうことになる。

    次。
    リハビリテーションを単に身体機能の回復や向上を目指す医療的取り組みと限定するのは間違いで、これは障害学でもじつにいい難そうに認めている点でもあるが、主流は地域リハ。
    大規模入所施設を小規模なものへ、立地場所を交通の便の良くて地域との交流をしやすい所へ、グループホームや援助つき住居の設置、一般就労の機会の拡充、重度重複の人でも働ける作業所づくり、養護学校も大規模から小規模地域分散化へという考え方や運動がそもそも地域リハ。

    古い言葉ですが、リハって上田敏的にいえば「全人間的復権」のことです。

  12. しゅう のコメント

    >Macskaさん

    快方に向かっているとの事何よりです。
    ご無理をなさらずマイペースで良いんじゃないでしょうか(^^

    >xanthippeさん

    こんばんは〜♪
    いつの間にやらえらいレスがついてますね(^^;

    >すまきださんがおっしゃった「できる」と「できない」が対等かどうかでしたら、しゅうさんはどう考えるのですか?

    Macskaさんが十二分な解説をなさっているので、いまさら感もあるんですが(笑)

    人は誰しも何かを成し遂げようとすればいろんな壁にぶつかるわけですよ。
    それを乗り越えたいなら「できない」を「できる」にしていかなきゃいけない。
    障碍者とて例外じゃないでしょ?
    「できる」=「できない」としてしまったら、却って可能性を潰しかねないんじゃないかな?
    もちろん、個人ではどうにもならないところはバックアップするのが筋でしょうけどね。

    >リハビリで元に戻るというのは、それまである個人ができたことが事故や病気でそのための能力を失って、他の能力も使って、その個人が又出来るようになるということでしょう?

    患者さんは何を望んで治療を受けるのだとお考えですか?
    「元の生活、今までどおりの生活をおくりたい。」という回復願望(専門的にはどういうんでしょうかね。)って強いと思いますよ〜。

    >決して他人の基準に合わせることじゃないはず。 オリンピックの選手が怪我をしてリハビリで目指すのは、一般的な基準よりうえのはずだしい。

    一つには、”障害を負う以前の自分”でしょうね。

    >人それぞれにできることやできないことはあります。それはその人の個性でしょう? 個性だと考えれば対等なのは当たり前、じゃないのかな? 

    渋るお子さんに九九を教え込んだことありませんか?

    >たとえば、2日ほど前にパラリンピックが終わりましたが(中略)人間ってすごい、と思わせてくれまするよ。

    話はチョッと変わるんですけど、数年前にビートたけしがある番組で、「障碍者がみんな善良なんてのはおかしいんだな。今度オレは悪人が出る映画を作りたい。」なんてことを言ってたんですよね。
    その後製作された「座頭市」では、イカサマした人の腕をばっさり切り捨てたり、放送禁止用語を敢えて使ってみたりと−私の勘違いかもしれませんが(苦笑)−既存の常識に挑んでいく姿勢はさすが世界のキタノだなと思いました(゚ ゚

  13. makiko のコメント

    直接的には2006/03/20 - 20:54:27 - へのレスですが、インターセックススレの
    2006/03/10 - 10:12:35 - へのレスも兼ねて…

    >第三に、しかし社会の偏見や差別やアクセシビリティの欠如などによって「リハビリや手術を受けない」選択肢が事実上閉ざされていたり、選択し難い状況に置かれている場合、

    性同一性「障害」者が直面している問題(とは言って誰も指摘してないけど)、は、まさにこれなんですね。
    私が「よりよい医療化」に懸念を持ち、ジェンダー論と障害学の交差点の一つであると思っていることは。

    よりよい医療、QOLの向上というのはもちろん大切なことだけど、一方でそれは

    >例えば誰でも手術を受ければ普通の男や女と見分けがつかなくなるような医療技術(まさに性別適合手術だろうけど)が発達した場合、手術を拒絶してトランスジェンダーだのジェンダークィアだの言う人は「自分勝手な都合で女装なり男装なりしているのだから、社会から性差を取り除くなどのコストを社会的に負担してやる必要はない、結果的にアクセシビリティが確保できなくなっても自己責任だ」「社会に余計な負担をかけないように強制的に手術をほどこすべきだ

    という議論に行き着きかねないわけですよね。ま、日本の性同一性障害特例法なんかは既にそういう発想が見え隠れするわけだけど。

    だから、医療への間口を広げ、医療を受ける際の患者側の権利の手続的保障を十分に行えば問題ない、という議論はやはり、「インターセックス」にとっても性同一性「障害」者にとっても乱暴だと思うのですよ。

  14. macska のコメント

    ゴンゾさん:

    リハビリテーションを単に身体機能の回復や向上を目指す医療的取り組みと限定するのは間違いで、
    (略)
    古い言葉ですが、リハって上田敏的にいえば「全人間的復権」のことです。

    そうですね、世間のリハビリに対する信頼というか要請を正面から否定してしまうよりは、本当のリハビリとはこういうモノなんだと医療的取り組みではなく社会的なインクルージョンの取り組みに誘導するという論法は非常に有効ですね。現実にそういうリハビリがどれだけ行われているかとなると、かなり厳しいわけですが。

    「できる」と「できない」の話について。わたしも、「できる」と「できない」は等価であるというのはゴンゾさんの言うように「障害観として重要」ですし、優生学的な衝動に抵抗するために必要な基本的認識だと思いますが、口先だけでそう言うだけでは解決できない問題があるわけで。

    生産性という問題にも関わってきますけれど、障害者の社会的地位を考えるうえで、労働力として社会に参加できるかどうかが現実問題としてクリティカルになるわけです。生産性至上主義を批判することはできるけれど、でも生産性至上主義によって社会全体が豊かになったおかげで生産性至上主義によって労働から阻害されるような人や生産性至上主義を批判するような学者(笑)が社会的に養われている(あるいは、養うことができるようになる)面はあるわけで。そういうコントラディクションを抱えたまま、それでも生産性至上主義がいのちに優劣をつけるイデオロギーに転化することは批判し続けなければいけない。

    makiko さん:

    だから、医療への間口を広げ、医療を受ける際の患者側の権利の手続的保障を十分に行えば問題ない、という議論はやはり、「インターセックス」にとっても性同一性「障害」者にとっても乱暴だと思うのですよ。

    その通りですね。

    ところで、わたしは最近「ジェンダーフリー」という用語のラディカルな救済ができないかというコトを考え始めています。というのも、これまでわたしはジェンフリという言葉に批判的だったわけですが、山口智美さんの「日本におけるジェンフリは、バーバラ・ヒューストンが言っていたのとは全然意味が違う」という指摘や上野千鶴子さんの「ジェンダーフリーなんていらない、男女平等で十分」という言葉を受けて、フェミニズムの側でも一気に「ジェンダーフリーという言葉を使う必要はないんじゃないか」という風潮が出てきたように思うのです。お役所言葉としても、ジェンフリはもう使わない方向になっていますしね。

    というわけで、そこであえて「男女平等」ではカバーできない「ジェンダーフリー」という言葉の持つ可能性、すなわちトランスジェンダーやジェンダークィア的なものの肯定として、教育理論でも社会政策でもなく社会的・文化的な取り組みとして、あえてジェンダーフリーという言葉を再定義していく、男女共同参画行政からジェンダーフリーという言葉を奪還するということはアリなんじゃないかなぁと思い始めているわけです。

    もっとも、わざわざそんな誤解を浴びて叩かれそうな戦略を取る必要はないんじゃないかという気もしますが(笑)

  15. xanthippe のコメント

    みなさん こんばんは

    まず、「できる」=「できない」について、一個人の中でなら、もちろんしゅうさんがおっしゃるとおり。 でもここで問題になっているのは人と比べて、ってことでしょう。 そのひとにとって、できなかったことが努力して出来るようになるのはすばらしいことです。でもそれは人と比較しての問題じゃない。

    ですからしゅうさんには「人と比較して」というバージョンでどう考えるかをお聞きしたいんです。パラリンピックの感想以外は、maskaさんのおっしゃること(当社比? (^^:)も私が言いたいこともほぼ同じなんですけど。(しかし、パラリンピックにドーピングがあるってのは知らなかったなあ・・・。検査はしているんでしょうか?<maskaさん)

    昨年確か長野県で知的発達障害の人たちのための冬季世界大会があったでしょう? パラリンピックほどの知名度が日本ではないので、こちらでもトーチを持って、みんなと一緒に行進して、市民の皆さんにアピールしました。

    個別の詳しいルールは知りませんが、ここでは自分の記録に挑戦して、どれくらい伸ばせるかで競うんだとか。そういうのっていいなあ、って思うんですよ。

    みずすましさんのご質問に。
    その子が何か持っていたら、それを伸ばしてあげたいと思うのは親なら当たり前だし、きっと何かいいものをもっていると信じるほど親はばかだから、だから子どもは伸びてくれます。つまり、何かある能力があることが、その能力が無いことより良いということではありません。人と同じもの(才能)を持っていなくていいじゃん、ってこと。

    それからゴンゾさんのご心配も分かるんですが、「ひょっとしたら、うちの子天才じゃないかしら」と思って育てるのは親の常。天才じゃないことはやがて分かってくることですが、いいじゃないですかあ。賢い立派な親だと思ってもらう必要などないのですし。それから、その人がなにか障害を持っているってことでしか人の心に訴えられないようなレベルのものなら、後世には残りませんでしょう。

    ベートーベンが聴力を失ってから作った曲と、そうでない時に作った曲と、比べてどうですか?

  16. しゅう のコメント

    >まず、「できる」=「できない」について、一個人の中でなら、もちろんしゅうさんがおっしゃるとおり。 

    え、そうなんですか?Σ( ̄□ ̄;
    なんか引っかかるなあ。

    >でもここで問題になっているのは人と比べて、ってことでしょう。 そのひとにとって、できなかったことが努力して出来るようになるのはすばらしいことです。でもそれは人と比較しての問題じゃない。

    う〜ん、いまいち意味がわからない。
    A君個人にとって九九ができないより出来た方が良いけど、A君が九九が出来ることとB君が九九が出来ないことは等価だということ?
    九九ひとつで人格を否定するなんてのは言うまでもなくアウトですけど、これだと義務教育すら破綻しますよ。

    どうしたって私達は厳しい現実を生きざるえないし、ある程度の競争もやむをえない。
    それが現在”いちばんマシ”な社会システムである限りはね。

    「できる」=「できない」というメッセージは、今を生きる人には絵に描いたモチになりはしないかと。
    耳触りの良い言葉ではあるんですけどね(笑)

    目の前の壁を取り除いてやるというのは、一見いいことに思えるんですが、
    現実には、いつまでもそれをやり続ける訳にはいかない。いずれどこかで壁にぶつかってしまいます。
    だから来るべき時に備えて、苦労をいとわずに体力をつける、ということは。
    ゛今の現実を生きる知恵゛としてどうしても必要なんだと思います(゚ ゚

    >パラリンピックの感想以外は、maskaさんのおっしゃること(当社比? (^^:)も私が言いたいこともほぼ同じなんですけど。

    障碍者に中にも勝って一番になりたい人もいれば、欲に目がくらんで過ちを犯す人もいるでしょうね。
    にんげんだもの。

  17. みずすまし のコメント

    こんにちは。
    xanthippeさん、ご回答ありがとうございます。

    > みずすましさんのご質問に。
    > その子が何か持っていたら、それを伸ばしてあげたいと思うのは親なら当たり前だし、
    > きっと何かいいものをもっていると信じるほど親はばかだから、だから子どもは伸びて
    > くれます。つまり、何かある能力があることが、その能力が無いことより良いというこ
    > とではありません。人と同じもの(才能)を持っていなくていいじゃん、ってこと。

    えーと… おっしゃっていることを理解できたか自信がないので、確認させてください。

    1. 子どもは、みな、何らかの才能(=潜在的な能力)を持っている。
    2. しかし、どのような才能を持っているかは子どもによって異なり、そこに優劣はない。
    3. だから、ある才能を持っている子どもがその才能を伸ばせていたとしても、もとも
    とその才能を持っていなかた子どもと比較して、そちらのほうが良いとはいえない。

    という理解でよろしいでしょうか。
    この理解でよければ、さらに二点疑問が出てきます。

    a. 例えば作曲の才能を持つある特定の子どもについて、その作曲の才能が伸ばされて
    いるほうが、伸ばされていないよりは良いことだとお考えなのでしょうか?
    b. 同程度のピアノ演奏の才能を持つ二人の子どもについて、一方がその才能が伸ばさ
    れており、他方はその才能が伸ばされていない場合、前者の子どものほうがより良
    い状態にあるとは言えないのでしょうか?

  18. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんにちは

    何が引っかかるのかなあ・・・?さいしょっからそういっているつもりなんだけど。

    それからね、義務教育について何か誤解していません? 義務教育の義務は子どもに負わせる義務じゃなく、親や社会が負うべき義務なんですよ? 子どもにとっては権利です。 小学校や中学校に子どもが受ける卒業試験なんてあるウ? ないでしょ?

    それと、九九が苦手な子も、幾何は得意かもしれない。かけっこは得意かもしれない。人の話を聴いて気持ちを理解してあげる天才かもしれない。

    それにさあ、アメリカでお勘定を払おうというとき、九九でぱぱっと計算してくれる店員さんなんかあんまりいませんよ。<でしょ? masckaさん 今は計算機があるけど。

    私、実は四則計算が大の苦手なうえ、暗記が嫌いで、九九はいまだに自信がない。数学になってからは問題の解決の仕方がスマートだからというので点をもらっていただけで、大概結果の数字は間違っていた。

    そういえば今、アメリカでそろばん教室が盛んなんですってね。本当? 私も娘には習わせましたよ。(^^;;

    みずすましさんへ、

    1,2,3とあげてくださったのを読ませていただくと、拙文をきちんと理解してくださっていると思います。んで、それから派生したみずすましさんの疑問は、同じ分野の能力に優劣がある(とされる)場合、10と5で=といえるのか?ということですね?

    じゃあ、お尋ねしますが、10か5かを決めるのは誰ですか? そしてその10と5は常に固定されたものですか?

    私はね、10を持っている子が6を出すのと、5を持っている子が5を出すのとでは、後者のほうをよりほめてあげるべきだと思います。でも、その子がどれほどの潜在能力を持っているかなんて誰にもわかりません。だから、二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です。ひとりひとりの子を通時的にみてあげればいいんじゃないですか?

    持ってる才能を伸ばしているほうが、伸ばしていないより良いかどうかなら、そりゃ伸ばしてあげているほうがいいでしょうね?  んでも、子どもの才能っていろいろやって見なきゃ、何ができるかなんて顔に書いてないから簡単には分かりませぬよ。第一、その子がその分野のことを好きになれるかどうかにもよりますし。

    ですから、そんなことで悩んでも仕方が無い。(^^;;

  19. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんばんは〜♪゛

    >それからね、義務教育について何か誤解していません? 義務教育の義務は子どもに負わせる義務じゃなく、親や社会が負うべき義務なんですよ? 子どもにとっては権利です。 小学校や中学校に子どもが受ける卒業試験なんてあるウ? ないでしょ?

    でしょうね。
    けどそれって問題の本質と何の関係があるんですか?

    義務教育とは、実質的な意味での機会の平等を保障するために、
    国民に対して一定レベルの学力を習得させるものでしょう?
    昨今ではゆとり教育て基準が低下した弊害か、公立−私立間の格差是正が叫ばれていますが。

    知的障碍者に対しても、程度の差こそあれ基礎体力をつけるという方向性は変わらないわけで、
    いきなり能力開発センターなんかに送られる事はないでしょ?

    >それと、九九が苦手な子も、幾何は得意かもしれない。かけっこは得意かもしれない。人の話を聴いて気持ちを理解してあげる天才かもしれない。

    九九は基本的に暗記だから多少うんざりしながら覚えるのが普通だと思いますがね。
    「苦手ならやんなくていいよ。」とその子に言うんですか?
    いつかそのツケはその子にまわってくるんですが。
    8才の子どもにそんな責任を負わすんですか?

    >それにさあ、アメリカでお勘定を払おうというとき、九九でぱぱっと計算してくれる店員さんなんかあんまりいませんよ。

    インドでは20*20までやるらしいですよ?
    近年、インドの技術水準は国際的に高い評価を受けています。

    大体、アメリカの格差の硬直性って日本より酷いじゃないですか。
    東大は頭がよければ行けますが、ハーバードはそうも行かないでしょう?

    >私、実は四則計算が大の苦手なうえ、暗記が嫌いで、九九はいまだに自信がない。数学になってからは問題の解決の仕方がスマートだからというので点をもらっていただけで、大概結果の数字は間違っていた。

    小学5,6年の頃の担任がたくさん宿題を出す事で校内でも有名な先生でして、
    毎日ウンザリしながら問題を解かされていましたが、おかげで四則演算はバッチリですよ(^^

    >そういえば今、アメリカでそろばん教室が盛んなんですってね。本当? 私も娘には習わせましたよ。(^^;;

    へえ〜、そうなんですか。なんでまた?

  20. はんぞ〜〜〜 のコメント

    私は、入所型重度身障授産施設に勤めています。

    一連のお話で出ている「障害は個性」という言葉には違和感があります。私が日々一緒に仕事をしている中途障害の方々に、そのような言葉はとても言えないですね。

    なぜなら、日々付き合っていると、「障害はあくまで障害でしかない」と言外に彼らは言っているからです。「個性」と言うほど甘い現実はないと承知してみえる からでもあります。

    施設実習に来る学生さん達は、別れ際に「皆さん(身体障害者)が頑張っておられるのを見て励まされました」という趣旨の挨拶をよくされていて、そりゃ、学生さん達から見たらそういう感想を持つのだろうけれど、私はいつも「なんだかなぁ〜」と思って聞いています。

    ある時、中途障害のあるおじさまが、「あれな、学生の挨拶にいつも手をたたいているけどな、俺んたぁは普通にやっているだけなんやぞ。」とおっしゃいました。この「普通」は外側のことを指してはいませんでした。学生さん達は外側を見てましたけど。

    「選択の自由」って言葉があります。これ、いくつかある選択肢を経験した上で選ぶ自由を指すんですよね。でも、特に知的障害のある人々の場合、「選択の自由」どころの騒ぎではなかったりします。

    まず、いくつかあるはずの選択肢を知らない。経験もない。だから「選ぶ」どころではなく、彼、彼女が知っている唯一のものを選ぶしかない場合が多いのです。

    で、選択肢を増やすように働きかけるわけですが、彼、彼女らにそれをすることは、半ば強制することになったりします。なぜなら、言葉での説明を理解することが難しいし、大抵の場合、未知なるものを経験することは恐怖に感じることが多いから、彼ら自身に選んでもらうと自分の知っている唯一のものしか選べなくなってしまうからです。

    ただ、いくつかをあげて選んでもらえば、外から見れば、それは確かに「選択の自由」を享受しているようにみえる。本当の意味では「選択の自由」ではないんだけど。

  21. みずすまし のコメント

    xanthippeさん、コメントありがとうございます。

    かなりの長文になってしまいました。
    皆様、申し訳ありません。

    > んで、それから派生したみずすましさんの疑問は、同じ分野の能力に優劣がある(とさ
    > れる)場合、10と5で=といえるのか?ということですね?

    んー、私のパラフレーズには同意を頂いておきながら申し訳ありませんが、私の疑問を理解していただけているという確信を持てません。ですが、おそらく私の疑問a、疑問b を理解していただけているものとして、話をすすめますね。

    > じゃあ、お尋ねしますが、10か5かを決めるのは誰ですか?

    ある特定分野の能力間の優劣の判定は誰がするべきなのか? ということですね。

    その答えは問題となっている判定のシチュエーションに依存する、というのが私の考えです。

    いわゆる「個人的な意見」を持つだけなら、それぞれの人がそれぞれよく考えて判定すればよいと思います。

    また、何か団体や活動として判定するのなら、その団体や活動の内容に依存するでしょう。例えば、コンクールの審査であれば、事前に選ばれた審査員が、やはり事前に定められた手続きに従って判定すべきです。

    さらに、何かの判定が判定される人の権利を制約したり、不利益をもたらしたりするような場合には、その判定には公正さが求められると思います。

    > そしてその10と5は常に固定されたものですか?

    すみません。このご質問の意味が今ひとつ分かりかねるので、外した回答になっているかも知れません。申し訳ないです。

    一方で、前述のように、能力の判定はシチュエーションに依存します。ですから、ある判定と別の判定とが食い違っていることはありえます。

    他方で、ある分野についてのある時点での各人の能力間の優劣は、それについてかなり公正な判定が期待できるような種類の能力であるならば、やはり判定の内容から独立して、それ自体として決まっていると考えるほうが自然ではないかと思います。

    例えば、重量上げの競技において、かなり公正なやり方で判定が下された後、「この優劣の判定は、たんにその判定における優劣を意味しているのであって、『重量上げの能力の優劣そのもの』など現実にはありはしないし、この判定は『重量上げの能力の優劣そのもの』を反映などしていない」などと考えることは、常識(私たちの自然な直感)に合致していない、と私は思います。

    > 私はね、10を持っている子が6を出すのと、5を持っている子が5を出すのとでは、後者
    > のほうをよりほめてあげるべきだと思います。

    んー、その場合にどちらをよりほめるべきかは、子どもの受け止め方の予想や、その後のフォローのしやすさなど様々な要因を考慮したほうが良いような、いわば「政策的」な問題だと思いますから、私は一概には言えないと思います。

    > でも、その子がどれほどの潜在能力を持っているかなんて誰にもわかりません。だから、
    > 二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です。

    「二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です」とは、二人の子どもの能力間の優劣を共時的に判定してもどちらをよりほめるべきかの判断には役立たない、ということでしたら、私はそれには反対します。

    なぜなら、能力の優劣というのは子ども自身も気づくものであり、それとは乖離したようなほめ方をされたら子どもは自尊心を傷つけられる可能性があるなどの理由から、ほめ方が子ども自身が公正に判定した能力の優劣と乖離していることは好ましいこととは言いがたく、そのような乖離を起こさないためには自分自身が公正だと思うやり方で判定した能力の優劣を顧慮することは有益だと思うからです。

    > ひとりひとりの子を通時的にみてあげればいいんじゃないですか?

    もちろん、「ひとりひとりの子を通時的にみてあげ」ることも大事なことではあると、同意します。

    > 持ってる才能を伸ばしているほうが、伸ばしていないより良いかどうかなら、そりゃ伸
    > ばしてあげているほうがいいでしょうね?

    この部分は、私への質問ではなく、私の疑問a への Yes の回答だと理解しましたが、そのような理解でよろしいでしょうか?

    さらに、この部分は、疑問b への回答も Yes という意味にも理解できなくはないように思いますが、この点はどうでしょうか?

  22. xanthippe のコメント

    みなさん こんばんは

    しゅうさんへ:
    >でしょうね。
    >けどそれって問題の本質と何の関係があるんですか?

    どちらの立場で考えるかという点です。つまり、学力を習得させる責任が子どもにあるのか、大人に在るのかという問題。それは、何かをしようとするときの障害が何ゆえ発生するか、その原因をどう考えるかと通底するのだと思いますよ。

    >いつかそのツケはその子にまわってくるんですが。
    >8才の子どもにそんな責任を負わすんですか?

    たいした付けは回ってこなかった。(笑) 学年によって学習するべき内容が決まっていてるので、九九は苦手だけど、それを過ぎて図形は良かったりすると、なんとかごまかせましたよ。

    >インドでは20*20までやるらしいですよ?
    >近年、インドの技術水準は国際的に高い評価を受けています。

    あのね♪ だからってインド人が全員九九や算数が得意というわけではない。でしょ? ここで話題にしているのは「平均」のお話ではありません。「平均」ではない場合のお話です。

    >大体、アメリカの格差の硬直性って日本より酷いじゃないですか。
    >東大は頭がよければ行けますが、ハーバードはそうも行かないでしょう?

    ハーバードだって奨学金でいけるよ? 

    >小学5,6年の頃の担任がたくさん宿題を出す事で校内でも有名な先生でして、
    >毎日ウンザリしながら問題を解かされていましたが、おかげで四則演算はバッチリですよ(^^

    わー、いいなあ。私は計算機にお任せですう。別に不便はないけど。

    >へえ〜、そうなんですか。なんでまた?

    そろばんって、右脳を働かせるんですって。つまりイメージ。娘は暗算2級までだけど、買い物に連れて行ったときなどは計算機代わりに役立ってくれました。親に似て算数はかなり苦手だったけど。

    はんぞ〜〜さんへ:
    >なぜなら、日々付き合っていると、「障害はあくまで障害でしかない」と言外に彼らは言っているか>らです。「個性」と言うほど甘い現実はないと承知してみえる からでもあります。

    現場でいらっしゃる方はそうでしょうね。 でもお尋ねなのですが、そういう現実を承知して見える方に対して、あなたはどんな言葉をかけていらっしゃるのですか? どんなにがんばってもこれ以上は無理だろうなと専門家として判断するとき、どのように説明されますか? 「がんばってください」ですか?

    みずすましさんへ:
    aについては同意ですが、bは完全同意ではありませんので、確認させていただきますね。「より良い状態にある」というのが、「結果」は別として「良い環境にある」ということなら同意します。

    >なぜなら、能力の優劣というのは子ども自身も気づくものであり、それとは乖離したようなほめ方>をされたら子どもは自尊心を傷つけられる可能性があるなどの理由から、ほめ方が子ども自身が>公正に判定した能力の優劣と乖離していることは好ましいこととは言いがたく、そのような乖離を>起こさないためには自分自身が公正だと思うやり方で判定した能力の優劣を顧慮することは有益>だと思うからです。

    どうして他者と比較してほめる必要があるのです? 昨日はあそこまでだったけど、今日はここまでできたね!とほめてあげるのでは不十分なのですか? Aちゃんはすごいね! でもBくんもこんなにがんばったんだからすごい!とほめてあげるのでは駄目なのですか? 「Aちゃんに追いつけ追い越せ」と励ます必要があるのですか?

    子どもたちにとって必要なことは、他者と比較されることではなく、自分に注目してもらうことではないのかな? 別に子どもだけに限らないかもしれませんが。

  23. はんぞ〜〜〜 のコメント

     xanthippeさん、こんばんは。はんぞ〜〜〜です。

    >>なぜなら、日々付き合っていると、「障害はあくまで障害でしかない」と言外に彼らは言っているからです。「個性」と言うほど甘い現実はないと承知してみえる からでもあります。

    >現場でいらっしゃる方はそうでしょうね。 でもお尋ねなのですが、そういう現実を承知して見える方に対して、あなたはどんな言葉をかけていらっしゃるのですか? どんなにがんばってもこれ以上は無理だろうなと専門家として判断するとき、どのように説明されますか? 「がんばってください」ですか?

     状況と、相手の人となりやそれまでのその方の歩いてこられた歴史によって違います。
     そして、主役であり意思決定権は誰にあるかといえば、障害者本人です。私のような支援する者ではありません。請われもしないのに、支援する側の人間の価値観でものを言うのは如何なものかとも思っています。

    >どんなにがんばってもこれ以上は無理だろうなと専門家として判断するとき、どのように説明されますか?

     事実を話します。その事実に基づいて、どうそれを考えるかは本人の領分です。その事実を聞いた後の感情の嵐については、じっくり寄り添いますね。それしかないですから。ただ、そのときには別の見方があることも伝えます。

     感情の嵐の後は、たいていの場合何かしら答えを見つけることが多いので、見つけたであろう頃合いを見計らって「どうしたいのか?」尋ね、その希望を現実のものとするための戦略を本人と話し合って本人が決め、実行に移しますね。

     逆立ちしても無理なものはきちんと無理であることを伝える、それは大切だと思います。

  24. しゅう のコメント

    >どちらの立場で考えるかという点です。つまり、学力を習得させる責任が子どもにあるのか、大人に在るのかという問題。それは、何かをしようとするときの障害が何ゆえ発生するか、その原因をどう考えるかと通底するのだと思いますよ。

    今回の論点そんなんでしたっけ?(汗

    「出来る」=「出来ない」は、「出来る」>「出来ない」の行き過ぎを防ぐツールとしては有効ですが、
    普遍的な概念として振り回すのはいい迷惑(笑)だと思いますね。

    人って必要に迫られたときや、お互いに切磋琢磨してるときに一番モチベーション上がりますからね。
    自分で独立した目標をいちいち設定しなければいけないんて、それだけで大きなハンディキャップ。

    小学生の頃よく「夏休みの計画表」っての作ったんですがいつも上手くいかなくて、
    8月の末辺りにヒイヒイいいながらたまった宿題をやっていたものです(^^;

    >たいした付けは回ってこなかった。(笑) 学年によって学習するべき内容が決まっていてるので、九九は苦手だけど、それを過ぎて図形は良かったりすると、なんとかごまかせましたよ。

    苦手といっても「6×7っていくらだったかな?」くらいでしょ(笑)
    苦手なりにでもやっているのと、やっていないのでは全然違う。

    >あのね♪ だからってインド人が全員九九や算数が得意というわけではない。でしょ? ここで話題にしているのは「平均」のお話ではありません。「平均」ではない場合のお話です。

    一人一人の能力が高いから平均値が上がるんですよ。

    >ハーバードだって奨学金でいけるよ? 

    えー、そっちに食いつくの?。

    >わー、いいなあ。私は計算機にお任せですう。別に不便はないけど。

    毎日の買い物だって、無意識に予算を決めて食材をきめてません?
    今日は給料日だからワイン買っちゃえーみたいな。
    小銭減らすためにお釣りを調整するのって意外と高度な技らしいですよ(笑)

    直接的な便益だけでなく、算数・数学で論理的な思考力を養うと色々役に立つという話はよく聴きますよね♪
    論文書くにしても、前提条件がいつのまにか変わってるなんてのはお話にならないわけで。

    >そろばんって、右脳を働かせるんですって。つまりイメージ。娘は暗算2級までだけど、買い物に連れて行ったときなどは計算機代わりに役立ってくれました。親に似て算数はかなり苦手だったけど。

    達人は頭の中にそろばんが浮かび上がるといいますよね。
    授業で3時間ほどやった記憶があるけど、いまだに割り算の計算方法がわからない(^^;
    算数は、通過算と食塩水の濃度測定がだるかったなあ・・・

    >どうして他者と比較してほめる必要があるのです? 昨日はあそこまでだったけど、今日はここまでできたね!とほめてあげるのでは不十分なのですか? Aちゃんはすごいね! でもBくんもこんなにがんばったんだからすごい!とほめてあげるのでは駄目なのですか? 「Aちゃんに追いつけ追い越せ」と励ます必要があるのですか?

    100点満点のテストで90点を取った子に「この調子で頑張ってね。」
    30点を取った子に「もうチョット上げられるようにがんばろうね。」といえば、明らかに他者性を介在させた表現になるでしょうね。

    つうか、出来るか出来ないかと、頑張ったか頑張ってないかはべつでしょ?
    意地悪く言えば、出来るか、出来ないかという問題から目を背けた表現ですよ。

    >子どもたちにとって必要なことは、他者と比較されることではなく、自分に注目してもらうことではないのかな? 別に子どもだけに限らないかもしれませんが。

    注目されるというのは、周りから認めてもらうということでしょ?

  25. makiko のコメント

    macskaさん:
    > ところで、わたしは最近「ジェンダーフリー」という用語のラディカルな救済ができないかというコトを考え始めています

    私も別のブログで、「ジェンダーフリーは性差の否定で何が悪い?、という人がいないのはおかしい」と書いたのですが、性差の否定を国家主導で押しつけるのには今でも私は反対ですが、性差の否定を信条とする人、文化とするマイノリティ集団に対して抑圧的ではあるべきではないと思うのですね。その辺、インターセックスのところでmacskaさんが書かれていることと対立するかもしれませんが。

    ま、「大峰山問題」にみられるように、拙劣なやりかたは今度こそジェンダーフリーの死を招くでしょうし、戦術という点ではもっともっと熟慮する必要がありそうですね。ま、かれらの失敗は何かといえば、国の男女共同参画や医学・心理学という権威にすがったところが、広範な反発を招いた、というところだと思いますが。

    はんぞ〜〜〜さん:
    あるいはexileの方のmacskaさん:

    > 選択の自由」って言葉があります。これ、いくつかある選択肢を経験した上で選ぶ自由を指すんですよね。でも、特に知的障害のある人々の場合、「選択の自由」どころの騒ぎではなかったりします。

    > まず、いくつかあるはずの選択肢を知らない。経験もない。だから「選ぶ」どころではなく、彼、彼女が知っている唯一のものを選ぶしかない場合が多いのです。

    自己決定権という言葉がここ十年ほど、バズワードとして流通してきましたが(これはジェンダー業界でも障害者業界でも同じだと思いますが)、その十年間の間に、その意味も変質してきたし、またその考え方の問題点も浮き彫りになってきたように思います。

    すなわち、自己決定権の格差、ということですが。
    自己決定権を十分に行使できる人と、そうでない人が、それぞれのマイノリティセクタの中でも二極化してきたのではないか、ということです。
    もともと、自己決定権ということが言われ出したのは、いわゆる新自由主義が、マイノリティを苦しめてきた旧保守主義的な因習を打破するのではないか、という楽観的な前提があって、それなりに成果もあったとは思います。
    しかし、一方で社会環境(階級、人種、学歴、地域等々も含め)によって、選択肢が多い人とそうでない人、行使が容易な人とそうでない人が、個々のマイノリティセクタの内部として現れて来たのではないか、ということです。そういう意味で、自己決定論は、それを存分に行使できるマイノリティ内エリートの思想でしかなかったのではないか、という懐疑が、私にはあります。
    本来は自己決定論は、マイナージェンダーや障害に対して抑圧的である制度の変革につながるべきであった。にもかかわらず、個人の生き様、ライフスタイル、QOLの問題に矮小化された結果、むしろ自己決定ということが抑圧的に働く人々を生み出しているのではないか、ということです。

  26. macska のコメント

    > その辺、インターセックスのところでmacskaさんが書かれていることと対立するかも
    > しれませんが。

    インターセックスをダシに使わなければ対立しませんがー。

    インターセックスで、性別二元論に収まりきらない人というのはいるけれど、それは自分がインターセックスだからであるという話にしてしまうのは、「自分はペニスがあるから男性だ」と言っているようなモノでバカ丸出しだと思うんですねー。

    > ま、「大峰山問題」にみられるように、拙劣なやりかたは今度こそジェンダーフリー
    > の死を招くでしょうし、戦術という点ではもっともっと熟慮する必要がありそうですね。

    ああ、ジェンフリはもう安楽死させるという戦略もあり得ますね(笑)

    というか、政治的には実質的に死んでるような気がします。だからこそ、全く別の方向に救済したら面白いかな、みたいに思ったりするんですが。

    > 本来は自己決定論は、マイナージェンダーや障害に対して抑圧的である制度の変革に
    > つながるべきであった。にもかかわらず、個人の生き様、ライフスタイル、QOLの問
    > 題に矮小化された結果、むしろ自己決定ということが抑圧的に働く人々を生み出して
    > いるのではないか、ということです。

    まったくその通りです。しかし、いまさらどうしたらいいんだろう。

  27. みずすまし のコメント

    皆様、こんにちは。
    xanthippeさん、コメントありがとうございます。

    話が記事の内容から離れ気味で、申し訳ありません。

    > aについては同意ですが、bは完全同意ではありませんので、確認させていただきます
    > ね。「より良い状態にある」というのが、「結果」は別として「良い環境にある」とい
    > うことなら同意します。

    私の疑問aについては、ご同意、ありがとうございます。
    私が疑問bにおいて「より良い状態にある」と表現したのは「結果」についてですので、おそらくご同意いただけないものと了解いたしました(間違っていれば、訂正してください)。

    > どうして他者と比較してほめる必要があるのです?

    私は、ほめるときの表現として、他者と比較してほめる必要がある、とは申しておりません。子どもをほめるときに、他者との比較(についてのほめる側の意見)を考慮することが有益である、というのが私の意見です。

    > 昨日はあそこまでだったけど、今日はここまでできたね!とほめてあげるのでは不十分
    > なのですか?

    それで十分なときもあるでしょうが、また別の場合には、子ども(子どもに限りませんが)を傷つけることさえあると思います。子どもを含めて人は、自分が不十分にしか持っていないと思っている能力をほめられると、傷つくこともあります。

    > Aちゃんはすごいね! でもBくんもこんなにがんばったんだからすごい!とほめてあげ
    > るのでは駄目なのですか?

    そのようなほめ方が、つねに駄目だとは思いません。どのようにほめた方がよりよいのかは、相手の意識や周りの状況に左右される問題だと考えています。

    > 「Aちゃんに追いつけ追い越せ」と励ます必要があるのですか?

    繰り返しになりますが、どのようなほめ方/励まし方をするかは様々な要因に左右される問題ですので、その必要がつねにあるとは思いません。

    > 子どもたちにとって必要なことは、他者と比較されることではなく、自分に注目しても
    > らうことではないのかな? 別に子どもだけに限らないかもしれませんが。

    特定の状況における話ではなく、長期的にみれば、子どもにとって他者と比較されることは有益だと思います。

    おそらく、私たち人間は多くのものごとについて、他者との比較でしか判断したり、把握したりすることしかできないと思います。例えば、多くの人々の文字を見てきて、文字の美しさというものに理解を深めた上でなければ、ある人の文字の美しさを通時的に比較することも不可能なのではないでしょうか。

    従って、誰かの能力の発達に注目することは、ほぼ必然的に他の人々との比較をともなうと考えています。

  28. makiko のコメント

    >インターセックスで、性別二元論に収まりきらない人というのはいるけれど、それは自分がインターセックスだからであるという話にしてしまうのは、「自分はペニスがあるから男性だ」と言っているようなモノでバカ丸出しだと思うんですねー。

    御意

    >ああ、ジェンフリはもう安楽死させるという戦略もあり得ますね(笑)

    何度もネタにしますが、大峰で私もそれははっきりと自覚しましたよん(苦笑)

    >というか、政治的には実質的に死んでるような気がします。だからこそ、全く別の方向に救済したら面白いかな、みたいに思ったりするんですが。

    で、今わたしがやっているのは、ジェンフリを古典として読み解く作業です。
    ま、これ以上ネタバレすることはやめときますが(パトリック・カリフィアの件でえらい目に遭わされましたので、今回はトップシークレットですが、ネ申であるmacskaさんはわかるだろうなw)

    >> 本来は自己決定論は、マイナージェンダーや障害に対して抑圧的である制度の変革に
    >> つながるべきであった。にもかかわらず、個人の生き様、ライフスタイル、QOLの問
    >> 題に矮小化された結果、むしろ自己決定ということが抑圧的に働く人々を生み出して
    >> いるのではないか、ということです。
    >まったくその通りです。しかし、いまさらどうしたらいいんだろう。

    うん、物凄く絶望的な状況だと思います。日本の業界は。
    かなり前にこれを「歴史の終わり」だと書いたことがあるのだけれど、
    一つ言っておけば、そういう二極化からこぼれ落ちる人を救済する、でなくて、そういう二極構造を脱構築するべきものはまさにコミュニティの役割だった筈なんですよね。
    CRに結びつけて社会の変革につなげるべきだったのは。
    それが、少なくとも日本のGIDのコミュニティは、最初から医療主導で作られたものだから、医療の側が提示している基準を遵守しているかどうかを監視する機関でしかない。
    それは、いくら間口を広げたところで、構造自体は変わらないわけです。
    元トランスジェンダリズム宣言の連中はしっかりミイラにでもなってくらさいまし。
    その点、青い芝は今でもやはり物凄くかっこよく見えるのね。
    治療を拒否して障害者の文化を打ち立てる、なんて、今のセクマイ業界が思いもつかないようなことを言っていたりする。
    ま、隣の芝は青く見えるというのはよーく自覚しなければならないのはもちろんですが。
    この辺と、ジェンフリの「救済」というのは、かなり近いところにあるようには感じています。

  29. xanthippe のコメント

    みなさん こんにちは 
    なんだか2つ流れができているので、このまま続けていいのかなあ、と思いつつ。

    しゅうさんへ:
    >人って必要に迫られたときや、お互いに切磋琢磨してるときに一番モチベーション上がりますから>ね。
    >自分で独立した目標をいちいち設定しなければいけないんて、それだけで大きなハンディキャップ。

    自分の必要に迫られるのと切磋琢磨はちと違うと思うのだけど、どっちもモチベーションがあがればいいのであれば、「できる」≒「できない」ってことじゃん?

    >苦手といっても「6×7っていくらだったかな?」くらいでしょ(笑)
    >苦手なりにでもやっているのと、やっていないのでは全然違う。

    ってことは、苦手(できない)と得意(できる)はほぼ同じってことですよね、やっぱり。「知っている」と「知らない」の関係じゃないもんね。(^^)

    >一人一人の能力が高いから平均値が上がるんですよ。

    100点が50人と0点が50人だと平均点は50点。平均値が高いのは一人一人の能力が高い結果とはいえませぬ。ここでは平均が問題になるのではありませぬよん。

    >小銭減らすためにお釣りを調整するのって意外と高度な技らしいですよ(笑)

    私は得意ですよん。算数と数学はちと違うんじゃないかなあ?子どもは大概割り算とか分数でつまずくんだそうですね。九九じゃない。

    >達人は頭の中にそろばんが浮かび上がるといいますよね。
    達人だからではなく、そろばんとはそうするものだそうですよ? それはできる子とできない子がいて、できない子はまあ、あきらめたほうが良いみたい。そろばんなんかできなくても生きていけるしい。

    >100点満点のテストで90点を取った子に「この調子で頑張ってね。」
    >30点を取った子に「もうチョット上げられるようにがんばろうね。」といえば、明らかに他者性を介在>させた表現になるでしょうね。

    どうしても他者と比較したいんですねえ。(〜〜; その子が前20点だったら、「お!10点あがったね。目指せ40点」とほめてあげればいいことです。「できる」「できない」を他者と比較するから、がんばってできるようになったことを評価して上げられなくなるんでしょ? ”自社比較”がいいじゃないですかあ。それはけっして目をそむけることではありません。問題を正面から捉えるからこそですわん。

    >注目されるというのは、周りから認めてもらうということでしょ?

    認めてあげるのはたった一人でも十分。

    みずすましさんへ:

    >私は、ほめるときの表現として、他者と比較してほめる必要がある、とは申しておりません。子ど>もをほめるときに、他者との比較(についてのほめる側の意見)を考慮することが有益である、とい>うのが私の意見です。

    すません、おっしゃりたいことがほとんど分かりません。

    >特定の状況における話ではなく、長期的にみれば、子どもにとって他者と比較されることは有益>だと思います。

    ここでの議論は、一般論ではなく、特定の状況におけるお話かと思っておりました。長期的でも短期的でも、他者と比較する、その比較のされ方が問題なんだと思いますよ?

    >おそらく、私たち人間は多くのものごとについて、他者との比較でしか判断したり、把握したりすることしかできないと思います。例えば、多くの人々の文字を見てきて、文字の美しさというものに理解を深めた上でなければ、ある人の文字の美しさを通時的に比較することも不可能なのではないでしょうか。

    ふむ。ですからね、それだと最初私がお尋ねしたように、「美しさ」、それを誰がどのような状況で判断するのですか?というところに戻ります。

    たとえば「進化の方向」に良い悪いがあるのでしょうか?誰にもわかんないじゃないですか?

    >従って、誰かの能力の発達に注目することは、ほぼ必然的に他の人々との比較をともなうと考えています。

    何か物差しがないと測れない、ということは人によってあるかもしれませんが、それを測ることに意味があるかどうかは別の問題ではないですかね?

    ごんぞ〜〜さんへ:
    >事実を話します。その事実に基づいて、どうそれを考えるかは本人の領分です。その事実を聞い>た後の感情の嵐については、じっくり寄り添いますね。それしかないですから。ただ、そのときに>は別の見方があることも伝えます。

    その別の見方とは例えば何ですか?

    > 逆立ちしても無理なものはきちんと無理であることを伝える、それは大切だと思います。

    そして「障碍者」として社会に送り出すのですか?

    MAKIKOさん はじめまして:
    >うん、物凄く絶望的な状況だと思います。日本の業界は。
    >かなり前にこれを「歴史の終わり」だと書いたことがあるのだけれど、
    >一つ言っておけば、そういう二極化からこぼれ落ちる人を救済する、でなくて、そういう二極構造を>脱構築するべきものはまさにコミュニティの役割だった筈なんですよね。

    業界がどこのことか分からないんですが(~~;; そんなに絶望しなくていいんじゃないですか?
    ゴンゾさんのおっしゃった「全人間的復権」目指してがんばっている人もいらっしゃるでしょうし。

  30. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんばんは〜。

    まず一点、xanthippeさんがレスしているのはごんぞ〜〜〜さんではなく、はんぞ〜〜〜さんです。
    んで、先のレスでmaskaさんとかかれていますが、macskaさんです(~~;)

    >自分の必要に迫られるのと切磋琢磨はちと違うと思うのだけど、どっちもモチベーションがあがればいいのであれば、「できる」≒「できない」ってことじゃん?

    何言ってるのかさっぱり分かりません。
    う〜ん、ほかに誰かわかる人います?

    >>苦手といっても「6×7っていくらだったかな?」くらいでしょ(笑)
    >>苦手なりにでもやっているのと、やっていないのでは全然違う。
    >てことは、苦手(できない)と得意(できる)はほぼ同じってことですよね、

    何言ってるんですか。私はxanthippeさん程度の苦手ならほぼ「できる」でしょ、といってるんです。
    81通りのうちせいぜい間違ったところで1つ2つでしょ。
    で、これがもし2の段しか出来ないとなればどうなんです?

    苦手(ほぼできる)と得意(できる)はほぼ同じですが、
    苦手(全然できない)と得意(できる)はほぼ同じなんてことはありません。

    >やっぱり。「知っている」と「知らない」の関係じゃないもんね。(^^)

    コレいうの2度目ですが、九九は暗記です。
    「知っている」と「知らない」の関係に決まってるじゃないですか。(^^)

    >100点が50人と0点が50人だと平均点は50点。平均値が高いのは一人一人の能力が高い結果とはいえませぬ。

    え?平均点が100点の集団と0点の集団なら100点の集団の方が能力が高いですよ。
    平均点が一つしかないのなら平均値が高いかどうか分からんでしょう(笑)

    >私は得意ですよん。算数と数学はちと違うんじゃないかなあ?子どもは大概割り算とか分数でつまずくんだそうですね。九九じゃない。

    掛け算ができないと割り算もできないですよ。
    九九をしっかり勉強しなかった子はそこで躓いちゃう。

    >>達人は頭の中にそろばんが浮かび上がるといいますよね。
    >それはできる子とできない子がいて、できない子はまあ、あきらめたほうが良いみたい。

    散々「できる」と「できない」は対等と言っておいて、出来ない子に諦めろと言うんですか(笑)

    >どうしても他者と比較したいんですねえ。(〜〜; その子が前20点だったら、「お!10点あがったね。目指せ40点」とほめてあげればいいことです。

    え?なんで誉める必要があるんですか?
    20点のテストは高度な微積分の問題で30点のテストは1桁の足し算かもしれないじゃないですか。

    >「できる」「できない」を他者と比較するから、がんばってできるようになったことを評価して上げられなくなるんでしょ? 

    いつのまにかがんばってのうしろに”出来るようになった”がくっついてますね、まあ別にいいですけど。
    「できる」「できない」を他者と比較しても、がんばってできるようになったことを評価して上げることは十分出来ます。

    >それはけっして目をそむけることではありません。問題を正面から捉えるからこそですわん。

    人間は決して一人で生きているわけではありません。
    野球好きの少年がイチロー選手を見て、
    「あんなふうになりたいなあ、彼にあって僕にないものは何だろう。」
    と自答して練習に励む、というのは凄く自然なこと。

    「イチローとあなたは別の人間なんだから比較するのは無意味!」なんて意見を押し付けるのは却って彼のやる気を殺ぎ落とすことになると思いますよ。

    >>注目されるというのは、周りから認めてもらうということでしょ?
    >認めてあげるのはたった一人でも十分。

    それが他者です。

  31. makiko のコメント

    xanthippe さん
    はじめまして。
    「業界」はGID業界のことですので、他業界の方はご安心の程を。

  32. はんぞ~~~ のコメント

     xanthippeさん、こんばんは。はんぞ~~~です。

    >>事実を話します。その事実に基づいて、どうそれを考えるかは本人の領分です。その事実を聞いた後の感情の嵐については、じっくり寄り添いますね。それしかないですから。ただ、そのときには別の見方があることも伝えます。
    >その別の見方とは例えば何ですか?
    >> 逆立ちしても無理なものはきちんと無理であることを伝える、それは大切だと思います。
    >そして「障碍者」として社会に送り出すのですか?

     身障者の授産施設でつい最近起きたことをお話します。

     利用者Aさんから、車の免許を取りたいとの希望がありました。
     Aさんには、左半身麻痺で、眼球発作というてんかん発作が結構頻繁に起きています。発作の薬を飲んでいてその上で起きる発作です。薬の調整をしてもこの発作だけはおさまりませんでした。

     眼球発作は、発作としては軽いもので眼球だけが無軌道に動くというものです。数秒で収まりますが、発作が起きている数秒間、完全にAさんの動きは止まります。そういう発作を頻繁に起こされるAさんが、車の免許を取りたいと言う。

     我々はAさんの意思を確認しました。Aさんは自分が頻繁に眼球発作を起こしていることを自覚していて、その上で車の免許を取りたいと強く願っていました。その理由は、就職に有利だからということでした。そこで、免許を取れるかどうかの検査を受けることにし、自動車学校にAさんは職員と共に出かけました。

     後からAさんに聞いたところ、検査の最中に眼球発作が起きたそうです。で、検査の結果、免許取得は無理と判定が下されました。その結果をAさんに告げたときのAさんの荒れようは、すばらしかったです。

     私は泣き叫び、罵詈雑言の限りを尽くすAさんの傍にいて、Aさんが落ち着くのを待ちました。
     車を運転する上で、眼球発作が起きた時にどんな事態が起きるのか説明し、免許取得がなぜ無理なのか説明しました。そして、「Aさん、残念だけど、発作が起きている以上、車の免許は取れませんよ。無理です。」と話しました。

     その上で、確かに車の免許があれば就職先を探す際選べる職種は広がるけれど、免許がなくても就職は可能であること。移動には公共交通機関も使えるし、Aさんの障害であればほぼ問題はないこと。万が一発作が起きても、公共交通機関であれば、車の運転よりはリスクが少ないことを伝えました。

    xanthippeさんの、
    >そして「障碍者」として社会に送り出すのですか?
    というフレーズに、どんな意味が込められているのか、私にはよくわかりません。
    どういう意味が込められているのでしょう?

     Aさんの場合、発作さえなければ車の免許取得は可能でした。左半身麻痺だけであれば、左に遠心力が働く場合についての手立てをすれば、障害者用改造車(セミオーダーメイド)が運転できます。それでも右折の場合や、右回りのスピンのときなどにはリスクが伴いますけれど。

     運転中に発作を起こしたときのリスクに比べればたいしたことではないことは、言うまでもありません。

  33. みずすまし のコメント

    (今までもそうですが、引用を分かりやすくするため、引用部分の改行の位置や引用記号を変更しています。)

    > > どうして他者と比較してほめる必要があるのです?
    >
    > 私は、ほめるときの表現として、他者と比較してほめる必要がある、とは申しておりま
    > せん。子どもをほめるときに、他者との比較(についてのほめる側の意見)を考慮するこ
    > とが有益である、というのが私の意見です。

    との私の記述に対し、

    > すません、おっしゃりたいことがほとんど分かりません。

    というお答えですね。では、補足します。

    私は、「他者と比較してほめる」ということのを二つの意味に取れると受け止めました。二つの意味とは、(1)「表現上で、比較してほめる」と(2)「考慮として比較して、ほめる」です。

    (1)「表現上で、比較してほめる」とは、例えば「Aさんは、B君よりよくできているね」というふうな、ほめるときの言葉の上で誰かと比較するような表現がでてきている場合です。

    (2)「考慮として比較して、ほめる」とは、AとBを比較してAがよりよくできていることを考えながら、例えば「Aさんは前回よりもよくできているね」というふうな、考慮としては比較しているが言葉の上では全然比較するような表現になっていない場合を含めます。

    私は、(1)も(2)も必要だとは考えていません。ただ、(2)は必要とまでは言えなくとも、有益であると考えています。

    以上が、ご指摘の部分で私が述べたかったことです。

    > ここでの議論は、一般論ではなく、特定の状況におけるお話かと思っておりました。長
    > 期的でも短期的でも、他者と比較する、その比較のされ方が問題なんだと思いますよ?

    「比較のされ方」とは、表現上の比較でのことでしょうか? つまり、「比較のされ方が問題」とは、ほめる側が何を考えているかではなく、何を言葉にするかが問題、ということでしょうか?

    > > おそらく、私たち人間は多くのものごとについて、他者との比較でしか判断したり、
    > > 把握したりすることしかできないと思います。例えば、多くの人々の文字を見てきて、
    > > 文字の美しさというものに理解を深めた上でなければ、ある人の文字の美しさを通時
    > > 的に比較することも不可能なのではないでしょうか。
    >
    > ふむ。ですからね、それだと最初私がお尋ねしたように、「美しさ」、それを誰がどの
    >ような状況で判断するのですか?というところに戻ります。

    すでにお答えしたように、シチュエーションに依存すると思います(しかし、どのように判断するのかがシチュエーションに依存するからといって、またしばしばその判断が食い違うからといって、判断の対象が存在しないとか、大雑把な合意も不可能な完全に主観的なものだとかはいえません)。

    子どもをほめる場合に文字の美しさを判断するのは誰が判断するべきか、ということなら、ほめる側が判断すればよいと思います。もちろん、自分がその判断にふさわしい力量がないと思えば、その判断を言葉にしてあらわす必要はありません。

    ところで、一応は以上のようにお答えしたものの、なぜ「それだと最初私がお尋ねしたように、『美しさ』、それを誰がどのような状況で判断するのですか?というところに戻」るかが分かりません。

    申し訳ありませんが、この点、ご説明いただければ幸いです。

    > たとえば「進化の方向」に良い悪いがあるのでしょうか?誰にもわかんないじゃないで
    > すか?

    人間にとってということからいえば、良い悪いがあります。そうでなくては、品種改良など意味がありません。

    それともご質問は、「人間にとって」ということを超えた、何か形而上学的な意味で良い悪いがあるのか、ということでしょうか。

    > > 従って、誰かの能力の発達に注目することは、ほぼ必然的に他の人々との比較をとも
    > > なうと考えています。
    >
    > 何か物差しがないと測れない、ということは人によってあるかもしれませんが、それを
    > 測ることに意味があるかどうかは別の問題ではないですかね?

    もちろん別の問題ですが、関連した問題ではあると思います。

    子どもの何か特定の能力について、その能力をほめることがその子どもにとって有益であるとしても、それが「何か物差しがないと測れない」能力であったとします。そのときは、何か基準をもってその能力を測らなければ、その子どものその能力をほめるという有益な目的が達成できません。

  34. xanthippe のコメント

    ここのレベルを一人で引き下げているような気がしているのですが、まあ、お許しいただいて続けます。

    みなさんこんにちは

    しゅうさんへ:
    まず最初に思い出してくださいね。私は一人一人の子どもに注目して、その子の中でできるできないを比較することを話題にしているのではありません。それに対して、「他者との比較がなければ」というご意見もあるようですが、本人が誰かを目標に持つことと、周囲の人間から他者と比較されることは同じではありません。このあたりは当然区別が必要ですよね? 

    Bちゃんの比較の対象となるAちゃんと、AちゃんとBちゃんを比較する人間は違いますわん。周囲に認めてもらうという場合の周囲は、Cさんですよん。私が一人でよいといったのはCさんです。分かってもらえました?

    それと、イチローの”ような”選手にあこがれて選手を目指すことは、まさしく「できる」=「できない」につながると思いますよ? イチロー選手にあこがれるといっても、まさにしゅうさんがおっしゃったように、イチロー選手と自分がどこが違って、イチロー選手にない何が自分にあるかを見つけることが大事なわけで、イチローのフォームを真似てもイチローのようにはなれないじゃないですか。

    そうしてあこがれて自分の得意技を生かしてBちゃんがスーパー選手になれたら、イチローの「できること」=Bちゃんの「できないこと」じゃないのかなあ??

    はんぞ〜〜〜さん(間違えてごめんなさいね):
    大変だけど、とても有意義なお仕事をなさっているのですね。これからもがんばっていただきたいと思います。私の身近にも似たような仕事をしているものがおりますので、ご苦労はよく分かります。

    ただね、当該の方が何とか免許が取りたいと思われる気持ちもとてもよく分かるのですよ。いまどき車の免許なんて持っていて当たり前の時代、無理だと思っても形だけでも免許があれば何とかと思う、それくらい就職活動は大変です。その一方で自立が求められますしね。

    ところで、はんぞ〜〜〜さんは就職活動に付き添われた経験はおありですか?

    免許が取りたいとおっしゃったそのときに、免許を持っているよりは、もっと有利だといえるその方の別の能力を生かす方法と戦略について、しっかり話し合いがもたれたのであれば、そのうえで、実際に車を運転するということではなく、自分に自信をつけるためにチャレンジするくらいで受けられていたのであれば、少々「荒れ」られても、今はきっと落ち着いて新たに就職活動に挑戦されていることでしょう。 しっかりサポートしてあげてください。

    みずすましさん:
    >私は、(1)も(2)も必要だとは考えていません。ただ、(2)は必要とまでは言えなくとも、有益であ>ると考えています。

    だったらほとんど私が申し上げていることと同じですね。(^^; 第三者がみればその時点の違いは必然的に見えます。ただ、私は、その違いを第三者が頭の中で比較し考慮する上でも、今自分には見えていないものがあるということを自覚することが必要だし、現実に評価するうえでは個々人の時系列の変化に重点を置くべきじゃないだろうかということを申し上げたいのです。

    >ところで、一応は以上のようにお答えしたものの、なぜ「それだと最初私がお尋ねしたように、『美>しさ』、それを誰がどのような状況で判断するのですか?というところに戻」るかが分かりません。

    >申し訳ありませんが、この点、ご説明いただければ幸いです。

    「美しさ」を「できる」と置き換えて考えてみてくださいますか? 例えば、美しい字も抽象書道家の字とペン習字の字とでは違います。単純にどちらが美しいとは比較できないでしょう? 友人に何度も入選している書道家がいるのですが、はがきの字はどう見てもへたくそです。彼はペン習字のような美しい字はかけないのです。でも立派な書道家で、美しい字を書きます。

  35. しゅう のコメント

    皆さんこんばんは〜♪
    三寒四温といいますが、今年のは特に過激ですね(笑)
    季節の変わり目で体調を崩すことのないようご注意くださいませ。

    明日は気分転換に桜を見に行く予定です。
    と言ってもキャンパスから徒歩10分ですが。

    xanthippeさんへ:
    >本人が誰かを目標に持つことと、周囲の人間から他者と比較されることは同じではありません。このあたりは当然区別が必要ですよね? 

    でしょうね(^^

    >Bちゃんの比較の対象となるAちゃんと、AちゃんとBちゃんを比較する人間は違いますわん。周囲に認めてもらうという場合の周囲は、Cさんですよん。私が一人でよいといったのはCさんです。分かってもらえました?

    ええ、最初からわかってますよん♪
    ではxanthippeさんはなぜCさんが必要なのだと思いますか?
    自己採点なら一人でもできますよ。
    目標だって一人で作ることができる。

    結局自分の能力が他者からみても優れていると認めてほしいからでしょ?

    >それと、イチローの”ような”選手にあこがれて選手を目指すことは、まさしく「できる」=「できない」につながると思いますよ? 
    >イチロー選手にあこがれるといっても、まさにしゅうさんがおっしゃったように、イチロー選手と自分がどこが違って、
    >イチロー選手にない何が自分にあるかを見つけることが大事なわけで、イチローのフォームを真似てもイチローのようにはなれないじゃないですか。

    学ぶと言う言葉はもともと真似るから来ているという話は有名ですよね?
    イチローにあって自分にないものを見つけたら、まずそれを自分のものにできるようにチャレンジするのが筋ってもんでしょう。
    他人のあら捜しばかりしてたらろくな人間に育ちませんよ(^_^;)

    >そうしてあこがれて自分の得意技を生かしてBちゃんがスーパー選手になれたら、イチローの「できること」=Bちゃんの「できないこと」じゃないのかなあ??

    人間誰にだって長所や短所はあるんだし、日々これ精進していくものだと思いますけどねえ。

  36. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんばんは!

    >結局自分の能力が他者からみても優れていると認めてほしいからでしょ?

    うんにゃ、違うと思う。自分ががんばっているってことを認めてほしいんですよ。 もちろん、「自分が一番だ!」と思いたい人もいるでしょうが、そんなモチベーションを維持するのは無理よね。だって、何かで一番って一人しかいない。何かの分野で横にいる人より自分が上だと思わなければ生きていけないなんて情けないし、そういう人の多くは、幻想を見なければ生きていけない。

    >>そうしてあこがれて自分の得意技を生かしてBちゃんがスーパー選手になれたら、イチローの「できること」=Bちゃんの「できないこと」じゃないのかなあ??

    >人間誰にだって長所や短所はあるんだし、日々これ精進していくものだと思いますけどねえ。

    それについて異論はありませぬよ?

  37. しゅう のコメント

    xanthippeさん こんにちは〜
    結局雨が降ったので桜見れなかったんですよねえ(゜゜

    >うんにゃ、違うと思う。自分ががんばっているってことを認めてほしいんですよ。

    何を基準にがんばっていると判断するんでしょう?
    当人が判断しさえすればいいのなら、やっぱりCさんは要らない.
    努力できるというのは立派な才能ですよ♪

    >もちろん、「自分が一番だ!」と思いたい人もいるでしょうが、そんなモチベーションを維持するのは無理よね。だって、何かで一番って一人しかいない。

    一番だと思い込むのと一番を目指すのは全く別物だと思いますが・・・
    オリンピック選手ならともかく、一般人まで一番を目指すのはしんどいでしょうね。
    べつに基準をNo.1に設ける必要はなくて、義務教育のように人並みの学力を基準にしてもいい.

    >何かの分野で横にいる人より自分が上だと思わなければ生きていけないなんて情けないし、そういう人の多くは、幻想を見なければ生きていけない。

    仰るとおりですね(^^
    自分の位置を客観的な視点で認める事が出来ない人は、幻想の中に生きることしか出来ない。

    >>人間誰にだって長所や短所はあるんだし、日々これ精進していくものだと思いますけどねえ。

    >それについて異論はありませぬよ?

    思いやりに溢れるAさんと冷酷無慈悲なBさん、
    他の条件が同じなら私はAさんとお友達になりたいですね。

    優れた(と世の中で定義されている)ものに敬意を払うのは人間の自然な感情で、
    みだりにイデオロギーで押さえつけても、すぐにガタがくると思いますよ.
    相手の口はふさげても、心までは変えられない。

  38. xanthippe のコメント

    しゅうさ〜ん こんばんわあ!

    こちらも咲き出した桜に無情の雨。 ンでも元気にがんばってますよん<桜

    雨上がり、西空から差す夕日に照らされて、ピンクの桜花がほのかにオレンジ色に染まって、とーってもきれいでした。

    >一番だと思い込むのと一番を目指すのは全く別物だと思いますが・・・

    「一番だと思い込む」のと、「一番を目指す」のと、ってお話ではないと思うんですね。私が申し上げたいのは、「一番だと思いたがる」つまり「一番になりたがる」ってことなんで。そういやSMAPの歌のフレーズに、こんなのありましたっけ。「ナンバーワンにならなくっていい、もともと特別なオンリーワン」って。私、この歌とっても好きです。

    ”客観的に”一番になろうとすれば、だれかナンバー2を見つけなければならない。自分より下の存在がなければ自分が保てないのでは、生きるのがつらいですね。

    >オリンピック選手ならともかく、一般人まで一番を目指すのはしんどいでしょうね。
    べつに基準をNo.1に設ける必要はなくて、義務教育のように人並みの学力を基準にしてもいい.

    人並みね・・・・。その基準以下だと人じゃない? んなわけないですよね。(^^; しゅうさんもおっしゃるとおり、人間の能力にはでこぼこがあるんだし。

    >仰るとおりですね(^^
    >自分の位置を客観的な視点で認める事が出来ない人は、幻想の中に生きることしか出来ない。

    そそ。そうして自分の”個性”を発見して行くんじゃないですかね? 違いを上下関係で捉えるか、違いそのものとして捉えられるかで、生き難さがちがいますよね。違いを上下関係でしか見られない人って気の毒。

    >優れた(と世の中で定義されている)ものに敬意を払うのは人間の自然な感情で、
    みだりにイデオロギーで押さえつけても、すぐにガタがくると思いますよ.
    相手の口はふさげても、心までは変えられない。

    ですね。でも、イデオロギーとか関係なく、冷酷無比と見られたBさんが世界を救うこともあるかもしれない。「世の中の定義」を無条件に受け入れることに、少し懐疑的でもいいなあ、って思いません?

  39. はんぞ〜〜〜 のコメント

     makikoさん、こんばんは。はんぞ〜〜〜です。
     返事が大幅に遅れて申し訳ありません。転勤しました。今は、重度知的障害児・者の施設にいます。

     転勤して最初にもらったもの。からん・カギ6本!
     これはどういうことかというと、いろいろな戸棚、倉庫、居室、玄関、すべてにカギがかかっている、ということです。水道の蛇口も利用者さんの自由にはさせません。水浸しになり、水道代がとてつもない金額になってしまいますから。そして、天井の電灯には頑丈な網が付いてます。取られないように。

     こう書くと、非難轟々でしょうけど、仕方がないんですよ。なんでも口にする方々ですから。
     天井の電灯を取って、床にたたきつけて割って、その破片を口に入れるんですから……
     口の中は当然血だらけになりますが、ご当人にその自覚はありません。何度でも同じことをなさいます。

     普通に考えれば、痛いハズなんですけどねぇ。感覚がないのでしょう。
     草・石・自分の排泄物、当然口にされます。こちらがうっかりしていると。
     ですから、庭に除草剤はまけません。草刈りを職員がします。
     草を食べる人がいる以上、当然のことです。

     服を着ることを嫌がる人がいます。なので、施設内で過ごすときには、裸のままでいていただきます。なんせ服着せた端から脱ぎますから。しかし、外出するときには、無理矢理服を着ていただきまして、服を脱がないように見張っております。
     喫茶店なんかでいきなり裸になられたら、周囲から顰蹙を買いますからねぇ。

     しっかし、日常的に裸でいると、お尻の皮はざらざらになるんですね、知りませんでした。

     生後1歳前後の子どもがやらかす数々の悪戯を思い出してください。それを身長140cm以上の方々がやらかすわけです。その悪戯の数々のスケールがどのくらいでかくなるか……想像していただければ、今私が勤めている施設の利用者さん方が少しは理解出来ると思われます。

    >自己決定権という言葉がここ十年ほど、バズワードとして流通してきましたが(これはジェンダー業界でも障害者業界でも同じだと思いますが)、その十年間の間に、その意味も変質してきたし、またその考え方の問題点も浮き彫りになってきたように思います。
    >すなわち、自己決定権の格差、ということですが。
    自己決定権を十分に行使できる人と、そうでない人が、それぞれのマイノリティセクタの中でも二極化してきたのではないか、ということです。
    >本来は自己決定論は、マイナージェンダーや障害に対して抑圧的である制度の変革につながるべきであった。にもかかわらず、個人の生き様、ライフスタイル、QOLの問題に矮小化された結果、むしろ自己決定ということが抑圧的に働く人々を生み出しているのではないか、ということです。

     私が最初に「自己決定権」という言葉を知ったとき思ったこと。
     この言葉を思いついた人って、一体どんな人を対象として考えたんだろう?というものでした。

     なんせ、「自己決定権」という言葉を知った当時の私は、40km/hで走る車に触りたくて車めがけて走り出す30才の利用者さんを、必死で止めるのが日常でしたので。その利用者さんにとって、走る車は実物大の動くおもちゃでしかないんですもん。

     「自己決定権」を思いついた人の頭の中に、私が日常的に接している重度知的障害の人々が存在していなかっただろうと思いますね。少なくとも接してはいないと思いましたです。もし、よく知っていてこの「自己決定権」を思いついたのなら、それはすごいことだよなぁ、と思います。

     私が今勤めている施設の利用者さん達は、「自己決定権」以前の段階で留まっており、多分生涯その段階から成長はしないであろう人々です。昔であれば、座敷牢はおろか檻に入れられていたかも(世間に対して恥だから)しれない人々です。

     「自己決定権」という言葉と概念の普及は、重度知的障害の人々が、「我々と何ら変わらないかけがえのない人である」という事実を後押ししている、と私は思います。

  40. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんばんは〜♪

    >こちらも咲き出した桜に無情の雨。 ンでも元気にがんばってますよん<桜

    結局次の日に友達と結局青々とした木々の下、行列のできる和菓子屋の豆餅を食べながら、
    お茶飲んでだべってました。
    ここ2日間はお天気続きで満開でした♪

    >「一番だと思いたがる」つまり「一番になりたがる」ってことなんで。

    「一番だと思いたがる」と「一番になりたがる」は別でしょと言ってるんですけどん。
    イチローはメジャー最多安打を記録しましたけど、
    けっして周りの人間を卑下するような人ではありませんよ?

    >そういやSMAPの歌のフレーズに、こんなのありましたっけ。「ナンバーワンにならなくっていい、もともと特別なオンリーワン」って。私、この歌とっても好きです。

    どうもNo.1アイドルグループのSMAPが歌うと胡散臭く感じちゃうんですよね。
    作曲者の槙原敬之が歌う分には全然問題ないんですけど(何)
    彼のアルバム「EXPLORER」を持ってるんですが、すばらしい曲ばかりでかなりお気に入りだったりします(^^

    ただ、歌詞の中の花たちが争わないのは、相手を尊重してるわけではなく、ただ相手に無関心なのだと思いますけどね。
    人間はまわりに認めてもらわないと(自分と相手を比べないと)安心できない弱き存在ですが、
    相手を尊重できる優しさをもてるのも人間だからこそですよ。

    >人並みね・・・・。その基準以下だと人じゃない? んなわけないですよね。(^^; しゅうさんもおっしゃるとおり、人間の能力にはでこぼこがあるんだし。

    仰る通り、たとえ基準以下の能力しか身に付けられなかったとしても、それだけで即人格が否定されるわけではないでしょうね。
    何か基準を設ければ”世の中の半分は平均以下゛になるわけですから、平均以下であることを過剰に恐れることは無いと思います。
    ましてや、「個々人の能力を比べてはいけない!!」なんてのは過剰反応もいいとこ。

    >そそ。そうして自分の”個性”を発見して行くんじゃないですかね? 違いを上下関係で捉えるか、違いそのものとして捉えられるかで、生き難さがちがいますよね。違いを上下関係でしか見られない人って気の毒。

    何でもやりすぎは良くないでしょうね。違いそのものでしか捕らえられない人はもっと深刻。

    >ですね。でも、イデオロギーとか関係なく、冷酷無比と見られたBさんが世界を救うこともあるかもしれない。

    xanthippeさんは「二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です」と仰っていましたが、それと明らかに食い違いますね。
    Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比」の比較が無意味であるのなら、「Bさんが世界を救う」という+の価値観を持ち出す必要は全くありません。
    上記発言は、Bさんの「冷酷無比」という−評価を、+の価値観で補償する行為に他ならないでしょう。

  41. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんばんは〜

    >>「一番だと思いたがる」つまり「一番になりたがる」ってことなんで。

    >「一番だと思いたがる」と「一番になりたがる」は別でしょと言ってるんですけどん。

    ええ〜〜〜??!! どう区別するんです? オンリーワンとナンバーワンなら区別できるけど。
    「思いたがる」人が満足できるためには、「ナンバー2以下」の存在が不可欠です。「なりたがる」人にとってもそれは同じ。

    >イチローはメジャー最多安打を記録しましたけど、
    >けっして周りの人間を卑下するような人ではありませんよ?

    イチローさんを個人的に存じ上げないので、それが事実かどうかは存じませんが、オンリーワンを目指した人じゃないのかなあ???

    >ただ、歌詞の中の花たちが争わないのは、相手を尊重してるわけではなく、ただ相手に無関心な>のだと思いますけどね。

    うん?どして?? 相手を丸ごと対等な存在として受け入れることがそんなに難しいことですかね?

    >人間はまわりに認めてもらわないと(自分と相手を比べないと)安心できない弱き存在ですが、
    >相手を尊重できる優しさをもてるのも人間だからこそですよ。

    まわり(競争相手ではない、一人で十分)に認めてもらえることと、競争相手と自分を比べることは違うと思うなあ。ここがポイントですね。「Aちゃんと比べて君はすごい!」と言ってもらえることと、「昨日の君と比べて今日の君はすごい!」と言ってもらえることと。Aちゃんと比べてすごいといってもらえないと認められた気がしないって言うのだと、Aちゃん以外にBちゃんもCちゃんも出てくるんだしい。

    そうなるとAクラスの中の順位、Bクラスの中の順位、なんてことになってくる。まさにすまきださんがおっしゃった「それで「『よりできない』探し」に走って自分はまし、と考えるのは醜悪だけどありがち」という結果に陥るんだと思います。

    それだとまだ「無関心」のほうがましかもね?

    >仰る通り、たとえ基準以下の能力しか身に付けられなかったとしても、それだけで即人格が否定さ>れるわけではないでしょうね。

    「それだけで」ではなく「それで」ですよねん?

    >何か基準を設ければ”世の中の半分は平均以下゛になるわけですから、平均以下であることを過>剰に恐れることは無いと思います。

    ”適切に恐れる”必要はあるのですかん? ”客観的”判断が必要だから? 違いを違いとしてみることと、上を「恐れる」ことは同じじゃありませぬ。

    >ましてや、「個々人の能力を比べてはいけない!!」なんてのは過剰反応もいいとこ。

    「いけない」ではなく、「必要がない」って申し上げているのですがん? 必要がなくても、比べたい人はいます。そうしなければ自分を維持することができない人です。「かわいそう」というほかありませぬ。

    人間は確かに「進化」しています。でもそれはその「進化」が次の天変地異、あるいは「技術改革」に人類が順応できる能力であることを保障するものではありませぬよん。そういう点でも、「できる」=「できない」ですわん。

  42. しゅう のコメント

    xanthippeさん こんばんは〜

    >ええ〜〜〜??!! どう区別するんです? オンリーワンとナンバーワンなら区別できるけど。
    「思いたがる」人が満足できるためには、「ナンバー2以下」の存在が不可欠です。「なりたがる」人にとってもそれは同じ。

    今の自分はその分野のNo.1ではないことを認めつつも、精進を続けていつかNo1になりたい、という人は、今の自分がNo1であると思いたがる人ではないでしょう。

    >イチローさんを個人的に存じ上げないので、それが事実かどうかは存じませんが、オンリーワンを目指した人じゃないのかなあ???

    そもそもNo.1とオンリー1は二律背反ではないのですが・・・
    メジャー最多安打達成目前になって彼は随分調子を落としてましたね。
    本人も大きなプレッシャーが掛かっていたと語っています。
    WBCで日本をNo.1にするために最も躍起になっていたのも彼だと思います。

    「最多安打なんてどうでもいい。」、「No.1なんてならなくてもいい。」、「楽しければそれでいい。」と彼が思っているのなら、
    このようなエピソードは生まれなかったでしょうね。

    >うん?どして?? 相手を丸ごと対等な存在として受け入れることがそんなに難しいことですかね?

    え゛?もしかして「綺麗な言葉を水にかけると綺麗な結晶が出来る。」とか信じちゃうクチ?
    とまあ、冗談は置いといて、以下のレスを返答に変えさせていただきます。
    ”>ですね。でも、イデオロギーとか関係なく、冷酷無比と見られたBさんが世界を救うこともあるかもしれない。

    xanthippeさんは「二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です」と仰っていましたが、それと明らかに食い違いますね。
    Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比」の比較が無意味であるのなら、「Bさんが世界を救う」という+の価値観を持ち出す必要は全くありません。
    上記発言は、Bさんの「冷酷無比」という−評価を、+の価値観で補償する行為に他ならないでしょう。”

    重要なとこですので、ちゃんと答えてくださいね♪゛

    >まわり(競争相手ではない、一人で十分)に認めてもらえることと、競争相手と自分を比べることは違うと思うなあ。ここがポイントですね。

    いえ、問題の矮小化でしょう。
    どちらも、他者の価値観と自分か価値観を比べて承認を求めることにかわりありません。
    Bさんにとって、何に関してもYESとしかいわないDさんに認めてもらうのと、
    良いものは良い、悪いものは悪いと言う信念を持つEさんに認めてもらうのでは、意味が全く違う。

    コックさんに料理の腕を誉めてもらうのと、大工さんに誉めてもらうのでは、
    コックさんに認めてもらう方がより自信がつくのが普通でしょうね。

    >それだとまだ「無関心」のほうがましかもね?

    え、どこが?
    「無関心」は相手を認めることもしなければ、思いやることもしない。
    相手の痛みに共感することも無い、それが無関心ですよ。

    >「それだけで」ではなく「それで」ですよねん?

    ん?文意はほとんど変わらないと思いますけど?

    >”適切に恐れる”必要はあるのですかん? ”客観的”判断が必要だから? 違いを違いとしてみることと、上を「恐れる」ことは同じじゃありませぬ。

    ”適切に恐れる”必要はありますよ。義務教育も、所得の再分配も、障碍者福祉も平均以下を”適切に恐れる”からやってるんですよ。
    以前の国会答弁で、前原代表(当時w)が、「低所得者層のこどもの学力が落ちている。格差の是正が必要ではないか!」といったことに対し、
    小泉首相は「勉強ができないからといって悲観しないでもいい。」と答えたんですよ。

    私は、この発言には批判的なんですが、見事に立場が入れ替わってますね(笑)

    >「いけない」ではなく、「必要がない」って申し上げているのですがん? 必要がなくても、比べたい人はいます。そうしなければ自分を維持することができない人です。「かわいそう」というほかありませぬ。

    「個々人の能力を比較すること」を全面的に否定したがってることには何の代わりも無いでしょ?

    >人間は確かに「進化」しています。でもそれはその「進化」が次の天変地異、あるいは「技術改革」に人類が順応できる能力であることを保障するものではありませぬよん。そういう点でも、「できる」=「できない」ですわん。

    着の身着のままでバングラディッシュに移住したいですか?私はごめんですよ、自分がかわいいですから。

  43. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんばんわ〜

    >今の自分はその分野のNo.1ではないことを認めつつも、精進を続けていつかNo1になりたい、と>いう人は、今の自分がNo1であると思いたがる人ではないでしょう。

    「なりたい」という心の志向を持ち続けること(客観的に判断すること)と、「誰が現在の一番か(誰が2番か)」を”客観的に”判断することの違いを私にわかるように説明してくださりませ。

    >そもそもNo.1とオンリー1は二律背反ではないのですが・・・

    もちろんそうですね。でも=じゃない。

    >「最多安打なんてどうでもいい。」、「No.1なんてならなくてもいい。」、「楽しければそれでいい。」と彼が思っているのなら、
    このようなエピソードは生まれなかったでしょうね。

    それは違うと思います。記録を破るということは、新しい記録を作るということです。「破る」ことに重点を置くか、「作る」ことに重点を置くか。「作る」ためには新しい創造が必要です。つまり、その人に独創性があるか?ってこと。作れて結果、破ることができるんじゃないですか?

    >xanthippeさんは「二人の子を共時的に10と5で比較するのは無意味です」と仰っていましたが、それと明らかに食い違いますね。

    食い違いませぬ。なぜなら

    >Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比」の比較が無意味であるのなら、「Bさんが世界を救う」という+の価値観を持ち出す必要は全くありません。

    とおっしゃるように、Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比が世界を救う」の比較が無意味であることを示すために、「Bさんが世界を救う」可能性に言及したわけですから。

    >>まわり(競争相手ではない、一人で十分)に認めてもらえることと、競争相手と自分を比べることは違うと思うなあ。ここがポイントですね。

    >いえ、問題の矮小化でしょう。

    価値観(視座?)の相違です。子育て(女性であれば生んだかどうかではなく)の経験があるかどうかの違いかな?

    >どちらも、他者の価値観と自分か価値観を比べて承認を求めることにかわりありません。
    Bさんにとって、何に関してもYESとしかいわないDさんに認めてもらうのと、
    良いものは良い、悪いものは悪いと言う信念を持つEさんに認めてもらうのでは、意味が全く違う。

    そこが違う。個人のモチベーションがどのように形成されるのか?という認識の違いでしょうね。”客観的”な判断で、「あなたは”平均”よりかなり低いですよ」と判定されるしかない場合と、「昨日のあなたはこうだったけど、今日はここまで来ましたね」と判定される場合と、モチベーションがどちらがいいですか?ということだと思います。

    >>それだとまだ「無関心」のほうがましかもね?

    >え、どこが?
    >「無関心」は相手を認めることもしなければ、思いやることもしない。
    >相手の痛みに共感することも無い、それが無関心ですよ。

    常に上か下かを比較する対象でしかないのであれば、「思いやり」や「痛み」が”存在”するかというと、かなりあやしいでしょう? でなきゃ格差社会が問題になることはないです。

    >”適切に恐れる”必要はありますよ。義務教育も、所得の再分配も、障碍者福祉も平均以下を”適切に恐れる”からやってるんですよ。

    しゅうさんが思ってらっしゃる「恐れる」主体は何ですか?

    >私は、この発言には批判的なんですが、見事に立場が入れ替わってますね(笑)

    ですね。

    >「個々人の能力を比較すること」を全面的に否定したがってることには何の代わりも無いでしょ?

    「比較することを全面的」かどうかは別にして、「能力」を”分野”や”時系列”に対してどう判断するかについてはかなりな認識の相違があることは分かりました。

    >>人間は確かに「進化」しています。でもそれはその「進化」が次の天変地異、あるいは「技術改革」に人類が順応できる能力であることを保障するものではありませぬよん。そういう点でも、「できる」=「できない」ですわん。

    >着の身着のままでバングラディッシュに移住したいですか?私はごめんですよ、自分がかわいいですから。

    バングラディッシュに生まれ育った人はどう思うんでしょうね? 今ここで問題になっているのは、バングラディッシュに生まれ育った人はどうなんだということと同値だとおもうのですが。

  44. しゅう のコメント

    xanthippeさん こんばんわ〜

    >「なりたい」という心の志向を持ち続けること(客観的に判断すること)と、「誰が現在の一番か(誰が2番か)」を”客観的に”判断することの違いを私にわかるように説明してくださりませ。

    人は誰しも主観の外に出て客観を確かめることは出来ないので、他者を通してでしか自らの存在を確認することが出来ません。
    他者の存在によって人は自分の居場所を見つけ、進むべき方向を決めていきます。
    たしかこの辺はMacskaさんすごく詳しかったようなー。

    >>そもそもNo.1とオンリー1は二律背反ではないのですが・・・
    >もちろんそうですね。でも=じゃない。

    仰るとおりですね(^^

    >それは違うと思います。記録を破るということは、新しい記録を作るということです。「破る」ことに重点を置くか、「作る」ことに重点を置くか。「作る」ためには新しい創造が必要です。つまり、その人に独創性があるか?ってこと。作れて結果、破ることができるんじゃないですか?

    イチローがプレッシャーを感じたのは、自分がこれから塗り替えようとする記録が偉大なものだったからです。
    彼自身がその記録に敬意を表していたし、多くのベースボールファンが敬意を表していたからです。

    >とおっしゃるように、Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比が世界を救う」の比較が無意味であることを示すために、「Bさんが世界を救う」可能性に言及したわけですから。

    ”Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比が世界を救う」の比較が無意味であることを示すために、「Bさんが世界を救う」可能性に言及した”のが矛盾なわけです。
    Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比が世界を救う」が等価ならば、「Bさんが世界を救う」を持ち出す必要は全くない。

    >そこが違う。個人のモチベーションがどのように形成されるのか?という認識の違いでしょうね。”客観的”な判断で、「あなたは”平均”よりかなり低いですよ」と判定されるしかない場合と、「昨日のあなたはこうだったけど、今日はここまで来ましたね」と判定される場合と、モチベーションがどちらがいいですか?ということだと思います。

    「昨日のあなたと、今日のあなた」が違ってたからといってなんになるんです?
    違いは違いで比較は無意味なんでしょ?
    昨日のあなたより今日のあなたの方がスバラシイなんて誰が決めるんですか。
    xanthippeさんの論理だと結局そうなるといってるんですよ。

    >常に上か下かを比較する対象でしかないのであれば、「思いやり」や「痛み」が”存在”するかというと、かなりあやしいでしょう? でなきゃ格差社会が問題になることはないです。

    文意が全く読み取れませんが、それのどこが”無関心の方”がマシという話なんですか?

    >しゅうさんが思ってらっしゃる「恐れる」主体は何ですか?

    私であり、他者であり、社会であり、政府であり、ですからMacskaさんも入るでしょうね(笑)

    >>私は、この発言には批判的なんですが、見事に立場が入れ替わってますね(笑)
    >ですね。

    え〜、マジで小泉発言(今回に限る)支持しちゃうんですか(~~
    私には社会が抱える問題を個人のレベルに矮小化した姑息な言い逃れに見えますけどね。
    ココをちゃんと突付けば民主党をチョッとは見直そうかと思ってたんですが、結果は言わずもがな・・・

    >「比較することを全面的」かどうかは別にして、「能力」を”分野”や”時系列”に対してどう判断するかについてはかなりな認識の相違があることは分かりました。

    あ〜、確かに。

    >>着の身着のままでバングラディッシュに移住したいですか?私はごめんですよ、自分がかわいいですから。

    >バングラディッシュに生まれ育った人はどう思うんでしょうね? 

    「”あなた”はどうするのか?」を聞いてるんですよ。
    そんなに難しい事言ってないと思いますけどん。

  45. しゅう のコメント

    以下訂正です

    ”Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比が世界を救う」の比較が無意味であることを示すために、「Bさんが世界を救う」可能性に言及した”のが矛盾なわけです。
    から
    ”Aさんの「思いやり」とBさんの「冷酷無比」の比較が無意味であることを示すために、「Bさんが世界を救う」可能性に言及した”のが矛盾なわけです。
    になります。

  46. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんばんは ごぶさたです。 ちとばたばたしていたもので。

    >人は誰しも主観の外に出て客観を確かめることは出来ないので、他者を通してでしか自らの存在を確認することが出来ません。
    他者の存在によって人は自分の居場所を見つけ、進むべき方向を決めていきます。
    たしかこの辺はMacskaさんすごく詳しかったようなー。

    へえーそうなんだあ。なにかmacskaさんがそれについてブログで書かれていたら、教えてほしいなあ。<macskaさん

    ただねえ、「客観」ってその人が自分の価値を決める決定的な要因ですか? 客観って、人との距離(違い)を測る視座ではあっても、価値を決めるものではないでしょ?

    >>>そもそもNo.1とオンリー1は二律背反ではないのですが・・・
    >>もちろんそうですね。でも=じゃない。

    >仰るとおりですね(^^

    別の尺度だってこと、ご理解いただけてうれしいなあ。(^^)v

    >イチローがプレッシャーを感じたのは、自分がこれから塗り替えようとする記録が偉大なものだった>からです。
    >彼自身がその記録に敬意を表していたし、多くのベースボールファンが敬意を表していたからです。

    ベーブルースの記録とは尺度が違うけどね(^^)v(野球はあまり詳しくないからはずしていたらごめん)

    >「昨日のあなたと、今日のあなた」が違ってたからといってなんになるんです?
    >違いは違いで比較は無意味なんでしょ?

    だからあ、そのことはもう申し上げているでしょ? 違いを感じることができるのは本人と、その人に副っている人です。そしてそういう比較が無意味だとは言わないということも最初に申し上げているじゃないですかん。

    >>しゅうさんが思ってらっしゃる「恐れる」主体は何ですか?

    >私であり、他者であり、社会であり、政府であり、ですからMacskaさんも入るでしょうね(笑)

    >え〜、マジで小泉発言(今回に限る)支持しちゃうんですか(~~
    私には社会が抱える問題を個人のレベルに矮小化した姑息な言い逃れに見えますけどね。
    ココをちゃんと突付けば民主党をチョッとは見直そうかと思ってたんですが、結果は言わずもがな・・・

    民主党のことは知りませんが、競争は必然で、格差が生じる現実はあります。その点の現実認識は小泉さんも小沢さんも、前の代表の前原さんも、菅さんだって同じじゃないのかな? だからこそ、
    そうじゃない尺度を持つ必要があると思うかどうかが違う点だと思います。

    ンで私はそうじゃない尺度(競争原理主義じゃない尺度)が「できる=できない」じゃないかと思っているんですけど?

    >>バングラディッシュに生まれ育った人はどう思うんでしょうね? 

    >「”あなた”はどうするのか?」を聞いてるんですよ。
    >そんなに難しい事言ってないと思いますけどん。

    たとえ着のみ着のままでもお客や旅行者や一時のボランティアで行くのならそれなりの冒険で楽しいかも。「いいお勉強になりました」というだけのことですものね。でも生まれ育った人は一生懸命貧しさと戦っているんでしょうし、私もバングラディッシュに生まれ育っていたらそうだとおもいまするよ?

    何か意味がある質問とは思えませぬが・・・。

  47. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんばんにー。
    2週間ぶりですねヾ(´Д`)ノ

    >へえーそうなんだあ。なにかmacskaさんがそれについてブログで書かれていたら、教えてほしいなあ。<macskaさん

    そもそもMacskaさんココ見てるのかな?(苦笑

    >ただねえ、「客観」ってその人が自分の価値を決める決定的な要因ですか? 客観って、人との距離(違い)を測る視座ではあっても、価値を決めるものではないでしょ?

    ぬ?客観が価値判断に影響を与えないなんて話は聞いたことないんですけど。
    もう少し詳しく説明してもらえます?(゚゚

    >民主党のことは知りませんが、競争は必然で、格差が生じる現実はあります。その点の現実認識は小泉さんも小沢さんも、前の代表の前原さんも、菅さんだって同じじゃないのかな? だからこそ、
    そうじゃない尺度を持つ必要があると思うかどうかが違う点だと思います。

    競争は必然で、格差が生じるのが現実です。
    人は誰しもその現実を生きなきゃいけないんです。
    だから成すべき事はまず現実をしっかり見据えて、生き抜いていくための知恵を伝えていくことでしょう?

    >ンで私はそうじゃない尺度(競争原理主義じゃない尺度)が「できる=できない」じゃないかと思っているんですけど?

    競争原理のあるなしに拘わらず、人々はあらゆる物にたいして価値判断をしていると思いますけど?

    高校の授業にウエディングドレスで出席して「これはファッションなの!。」と口を尖らせても通らないし、
    女子社員のお尻を触ったエロ部長が「おれなりのコミュニケーションだよ。」といったって許されない。

    他者との比較は無意味だと言い切ってしまえば、行き着く先は「今私の感じる世界・価値観こそすべて。]になってしまう。
    障碍者や子どもたちにそのような態度を求めるのは、彼らを幻想の世界に幽閉することに他ならないですよ。

    >たとえ着のみ着のままでもお客や旅行者や一時のボランティアで行くのならそれなりの冒険で楽しいかも。「いいお勉強になりました」というだけのことですものね。

    ん?なんで返答に際して、お客や旅行者や一時のボランティアなんて条件をゴテゴテつける必要があるんですか?

    >でも生まれ育った人は一生懸命貧しさと戦っているんでしょうし、私もバングラディッシュに生まれ育っていたらそうだとおもいまするよ?

    今のxanthippeならどう判断するのかって聞いてるんですよ。
    仮定の話じゃなくて。

    >何か意味がある質問とは思えませぬが・・・。

    私にとっては意味のある質問なんですよ(^0^)

  48. しゅう のコメント

    訂正ッというか敬称付け忘れ失礼

    ×今のxanthippeならどう判断するのかって聞いてるんですよ。
    仮定の話じゃなくて。

    ○今のxanthippeさんならどう判断するのかって聞いてるんですよ。
    仮定の話じゃなくて。

  49. xanthippe のコメント

    しゅうさん こんにちは 

    >ぬ?客観が価値判断に影響を与えないなんて話は聞いたことないんですけど。
    >もう少し詳しく説明してもらえます?(゚゚

    ”客観”が対象にどういう価値付けをするんです? それはもう客観じゃないじゃないですかあ。
    100メートルを10秒で走ることと、20秒で走ることの客観的違いは、その時間的差が10秒だということだけ。

    10秒で走る人より20秒のほうが上だからそれを目指そう(価値判断に影響させる)という、他人より早く走るほうが優れているという競争原理上の価値基準を”客観”につけちゃったら、それはもう客観じゃないでしょう?

    これが、同じ人間が昨日は20秒だったけど今日は10秒というのであれば、それに価値を感じるのは本人だし、それはそれですばらしいこと。 第一ね、記録がないことに挑戦している人(あるいはすでにある記録を破っている人)だっているけど、その人はしゅうさんの理論だと何を目標にするわけ? 2位との差を広げること?

    >競争は必然で、格差が生じるのが現実です。
    人は誰しもその現実を生きなきゃいけないんです。
    だから成すべき事はまず現実をしっかり見据えて、生き抜いていくための知恵を伝えていくことでしょう?

    それこそ小泉さんが言ってるのと一緒じゃない。私はね、競争原理一本やり、つまり競争原理主義社会じゃ困るって言っているんです。別の価値基準を提起する必要があるってことです。

    >>ンで私はそうじゃない尺度(競争原理主義じゃない尺度)が「できる=できない」じゃないかと思っているんですけど?

    >競争原理のあるなしに拘わらず、人々はあらゆる物にたいして価値判断をしていると思いますけど?

    あの。「競争原理」じゃなく、「競争原理主義」ですう。

    >高校の授業にウエディングドレスで出席して「これはファッションなの!。」と口を尖らせても通らな>いし、
    >女子社員のお尻を触ったエロ部長が「おれなりのコミュニケーションだよ。」といったって許されない。

    卒業式に何を着るかとセクハラはぜーんぜん問題がちがいまするよ。いいじゃん、ウエディングドレスきたって。セクハラがコミュニケーションだという勝手な定義は、「客観」に価値を持ち込もうとするから成り立つ言い分であって、「女性のオシリを触った」というのが客観的事実。

    それがセクハラかコミュニケーションかというのは、客観じゃなく、オシリを触られた女性の「主観」が問題になるわけ。

    >障碍者や子どもたちにそのような態度を求めるのは、彼らを幻想の世界に幽閉することに他ならないですよ。

    求めなくても障害者は現実の競争から切り棄てられて生活しておりまするよ? その中にまた「競争原理主義」を持ち込むことに拒否感を持ってらっしゃって「できる=できない」と言う発言が出てきたんじゃないですか?

    子どもたちに対しては、「競争原理」を教えるまえにまず、自尊感情を植え付けてやるのが最重要ですわん。 私の子どものころにもいましたよ。負けん気が強いのはいいんだけど、自分が向上することではなく、相手の足を引っ張ることで何とか勝とうとするの。

    >ん?なんで返答に際して、お客や旅行者や一時のボランティアなんて条件をゴテゴテつける必要があるんですか?

    家族や仲間や、仕事や、責任ある人間として簡単に棄てられないものが一杯ありますからね。<私

    >>でも生まれ育った人は一生懸命貧しさと戦っているんでしょうし、私もバングラディッシュに生まれ育っていたらそうだとおもいまするよ?

    >今のxanthippeならどう判断するのかって聞いてるんですよ。
    仮定の話じゃなくて。

    今の私なら無理ですね。しゅうさんのように「ごめんこうむる」とはけっして思わないけど。

    >>何か意味がある質問とは思えませぬが・・・。

    >私にとっては意味のある質問なんですよ(^0^)

    どういう意味があるの?

  50. しゅう のコメント

    xanthippeさんこんにちはー。

    >”客観”が対象にどういう価値付けをするんです? それはもう客観じゃないじゃないですかあ。
    >(中略)これが、同じ人間が昨日は20秒だったけど今日は10秒というのであれば、それに価値を感じるのは本人だし、それはそれですばらしいこと。 

    あのー、明らかに文章が矛盾してるんですけど・・・
    客観的な価値が存在しないのであれば、『昨日は20秒だったけど今日は10秒ということに価値を感じること』を素晴らしいと評価するのはおかしいでしょう。
    その『素晴らしい』は、誰の言葉であり、何に正当性を求めてるんですか?

    >第一ね、記録がないことに挑戦している人(あるいはすでにある記録を破っている人)だっているけど、その人はしゅうさんの理論だと何を目標にするわけ? 2位との差を広げること?

    記録を破った自分自身を客観的に見つめ、その自分自身と戦う人もいるでしょうね。
    2位の人との差を広げるのもありだし、その人にもっとうえに上がって来いよと発破をかけてもいいでしょうね。

    >それこそ小泉さんが言ってるのと一緒じゃない。私はね、競争原理一本やり、つまり競争原理主義社会じゃ困るって言っているんです。別の価値基準を提起する必要があるってことです。

    ん?どこがそう思うんです?
    前原発言は、現実の問題を見つめた上で、その解決法を模索しているのに対して、
    小泉発言は、安易な相対論で問題の深刻さをごまかしているものでしょう。

    >あの。「競争原理」じゃなく、「競争原理主義」ですう。

    あれ、そうでしたか。まあ「競争原理主義」の方がより狭いから文意には問題ありませんね?

    >卒業式に何を着るかとセクハラはぜーんぜん問題がちがいまするよ。

    そりゃそうでしょーが(笑)
    ”様々な規範”の例示をしているんですから関連性が薄いのは当たり前です。
    ちなみに、卒業式じゃなくて学校の授業ですけど、まあどっちでもいいです。

    >いいじゃん、ウエディングドレスきたって。

    現実はそうもいかないでしょう。われわれが生きているのは現実であって幻想の世界ではありません。
    あんなに場所をとる服を着られたら周りの人の勉強の妨げになりますし、
    体育の授業をするにしても、あれじゃ跳び箱もとべませんよ。
    それに、もし校舎が火事にでもなったりしたら逃げ遅れて焼け死ぬかもしれません。
    それで死んだら自己責任だとでもおっしゃるんですか?

    >セクハラがコミュニケーションだという勝手な定義は、「客観」に価値を持ち込もうとするから成り立つ言い分であって、「女性のオシリを触った」というのが客観的事実。

    客観的事実に意味がないのなら、エロオヤジが責められる道理はありません。
    エロオヤジの主観と女性の主観のどっちが正しいか判断できないわけですから。

    >それがセクハラかコミュニケーションかというのは、客観じゃなく、オシリを触られた女性の「主観」が問題になるわけ。

    ちがいます。エロオヤジが罰せられるのは女性の訴えが客観的な見地からして妥当だからです。<