「排他的な安全」から「構築プロセスとしての安全」へ

5/31/2005 - 2:08 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

地元で来月開かれるあるコンファレンスの関係者から運営方針について相談を受ける。そのコンファレンスというのは、左翼系の運動や活動家たちのコミュニティ内部における性暴力にどう対処すべきかという課題を掲げるもので、相談内容というのは、予定されたワークショップの1つとして「ラディカルなポルノを作ろう」という内容のものがあり、それを知ったある参加予定者から「自分は幼い頃児童ポルノに利用された経験があり、ポルノを肯定するようなコンファレンスには参加できない」というメールが届いたということ。主催者内部でも、参加できる人を制限するような事になるくらいなら「ラディカルなポルノ」についてのワークショップは別の機会に回そうという意見と、性暴力のサバイバーの一部にはポルノを通した自己表現によって自分のセクシュアリティを取り戻すという意義を見いだす人もいる以上そういったワークショップも必要とされているのではないかという意見とに割れてしまった様子。

わたしの考えというか解決法を結論から言ってしまうと簡単な話で、ポルノという言葉を耳にするだけでも不快なサバイバーと「ラディカルなポルノ」についてのワークショップを希望するサバイバーが一緒に参加できるコンファレンスにするには、両者のワークショップを物理的・時間的に隔離して、また一部の参加者にとって不快であることが予測されるワークショップについては明示的に警告することによって、間違って見たくない内容を見せられないように配慮すれば良い。「ラディカルなポルノ」についてのワークショップがある間、別の空間では別のワークショップは提供されるわけだから、嫌な内容のワークショップを避けるのは簡単で、何もコンファレンス全体を避ける必要はないはず。

ところが相談に来た主催者の人は、PTSD状態の人にとっては、パンフレットにポルノの文字が載ってたり、会場のどこかでポルノについてのワークショップが開かれていると思うだけでそれがトリガーとなって参加できなくなるかもしれないと言う。うん、それは確かにそうかも知れないんだけれど、そもそも性暴力に関するイベントからトリガーとなりそうなモノを全部排除できるわけがないわけで。その辺りは、個々のサバイバーが自分自身で参加するかどうかできるようにワークショップの内容についての情報を事前に提供しておくなり、途中でパニックを起こした人に対するサポート体制を整えるなどする事は必要だと思うけれど、究極的には人は他人が何にトリガーされるかというコトには責任は持てないのよ。

話がそれるけれど、ドメスティック・バイオレンス(DV)シェルターで男性被害者を受け入れない理由として、被害者の女性たち(の大部分を占める、ヘテロセクシュアルなDV被害者)は男性全体を恐れているからとかいう人がいるのだけれど、全くのウソ。シェルター内では割と頻繁に「なんでここオトコがいないのよ」という苦情が聞かれます(笑) さらに、「女たちの共同体」でしばらく暮らすことで自己解放に目覚めるなんていう主張もどこかで見かけたのだけど、現実には窮屈な場所に押し込められた他のサバイバーたちと縄張り争いをしたりスタッフにいじめられたりして、いわゆる「女の醜さ」ばかり経験した末に「これなら暴力夫と暮らす方がマシだ」と加害者の元に舞い戻ってしまったり… という話はまた別の機会に書くとする。

とにかく、ポルノという言葉を見てトリガーを起こすかもしれないサバイバーのために「ラディカルなポルノを作ろう」のワークショップを中止するというのはおかしい。それは、一部のサバイバーのトリガーの責任を、他のサバイバーに負わせるということになってしまうから。それに第一、サバイバーの「安全」という概念の前提からしてしっかり考えられていないような気がしたので、「元加害者でコンファレンスに参加したいという人がいたらどうするのか」という問題について主催者の意見を聞いてみた。

主催者の答えは、わたしが思っていたよりもかなり単純で、「加害者が参加していることが分かったら、主催者がその人に近づいて出て行くよう言う」という話。「それは、サバイバーが主催者のところに来て、あの人がいたら自分は安全ではなくなるから追い出してくれって言ってきたらその特定の加害者について対応するということ?それとも、その場に被害者本人がいなくても、加害者は一切来るなと最初から禁止するわけ?」と聞いたら、後者だという。自分を傷つけた加害者が会場にいると思うととても参加できないと感じるサバイバーが多く存在する以上、元加害者の参加を認めてサバイバーが来なくなるよりは加害者の参加を禁止することでサバイバーが安心して参加できるようにしたいというのがその理由。ポルノについてのワークショップが原因で参加を止めるような人が出るくらいならワークショップの方を中止にしてしまえという考えと、発想が似ている。

主催者の考える「安全」というのは、つまり危険や脅威が除去された状態のことなのだろう。だからこそ、元加害者の参加を禁止したり、一部のサバイバーにとって精神的に危険な「ラディカルなポルノ」のワークショップを中止すれば「安全になる」という発想になるわけだ。でもそれは、街からホームレスを排除し、移民を追放し、前科者はミーガン法で監視し、テロや大量殺戮兵器の拡散を予防するのに少しでも関係するなら先制攻撃でも何でもやってしまえという、米国現政権の発想と同じじゃないの。そうしたレトリックに流されがちな一般社会に対して「それじゃいけない」と主張し続けなければいけないはずの左派活動家の集会が、同じ土俵に乗ってしまってはいけない。

性暴力やDVと闘う運動は、「安全」という概念を根本的に考え直す必要があるとわたしは思っている。「加害者」なり「ペドファイル」なり「アラブ人」なり「男性」なり、何か自分たちの外部に「脅威」を見出してそれを排除するような「排他的安全」に頼るのではなく、また、ただ単に脅威を取り除いた状態を作ってそれを「安全」と呼ぶのでもなく、積極的に人間関係を通して築くもの、あるいはそのプロセスとして「安全」を捉え直すことはできないだろうか。

そう言うと、共同体的な取り組みを思い浮かべるかもしれない。わたしの知る例だけれど、ある南アジア系移民(ほとんどはインド人)のコミュニティでは、どこかの家庭でDVがあったという話を聞くと、コミュニティに住んでいる女たちがみんな出てきて加害者が「二度と暴力はやらない」と誓うまで大勢で怒鳴りつけるということを実際にやっているらしい。プライバシーも何もあったモノじゃないけれど、そういう事ができるというのは羨ましい気もする。あるいは、別の人から聞いた話だと、彼女が南部の小さな街に住んでいたとき夫に殴られた事があったのだけれど、翌日にはその夫の母親を含んだ親戚の女が大勢集まって夫を殴る蹴るした上で、今度同じことがあったらタダじゃ済まない(とゆーか、既にタダじゃ済んでないよーな)と強烈に脅して帰って行ったとかいう話もあったりして、それはスゴいと単純に感心してしまったりする。

でもそれは、言語的・文化的理由で移民コミュニティの外に飛び出せなかったり、南部の貧しい黒人たちが家族・親族でお互いに支え合わなければ生きて行けないという特殊な事情があってこそ成り立つわけで、今更それを一般的なモデルにすることなんてできない。共同体というのが現実に生きられている限りそれを利用したDV対策というのは可能だけれど、既に崩れ去った共同体をDV対策のために再建しようなんてのは無茶に決まっている。このコンファレンスの主催者の人たちはやっぱり共同体主義者なので「共同体へのコミットメントをどうすれば取り戻せるか」なんて話をしているのだけれど、時代錯誤なのよ。

そんな頼りない「共同体」ではなくて、誰でも大切に思っている「友人関係」を利用しよう、というのがシアトルのクィアDV団体 Northwest network の考え方。共同体へのコミットメントは取り戻せないけれど、現にわたしたちがコミットしている人間関係というのがあって、それがパートナーとの関係であったり友人との関係のような個人的な関係だ。それなら、そうした既存の人間関係を回路としてDVや関係性の暴力を予防するようなコミュニケーションを築こうというわけ。この場合、予防という観点が重要で、現実に暴力的な関係が固定した後では対処が難しいし、最悪の場合人間関係を切り離す事で対処するしかなくなる可能性もある。いくら「排他的安全」に反対でも、目の前に凶器を持って暴れている人がいたら押さえ付けるしかなくなってしまうのと同じ。

具体的にどうしたコミュニケーションを取るかというと、まずお互いに友人関係を大切にしようということに明示的にコミットした上で、DVって何なのか、暴力って何なのかといった話題について共通了解を得たり、また友人ネットワークの中の誰かが暴力的な関係に陥りかけていた場合、何をするべきか、周囲はどう反応して欲しいかということをじっくり話し合う。それと同時に、最低でも1月に1回は顔を合わせようだとか、2週間に1回は電話するといった取り決めを作ることで、DVの初期にありがちな「被害者の孤立化」を防ぐとともに、危険な信号を早い段階でキャッチするようにする。そうすることで、より友情を深めよう、関係性の暴力を予防しようというのが Northwest Network の考え方。

友人関係ほどのコミットメントはないとしても、これと同じ仕組みを運動体にも当てはめることができる。すなわち、性暴力について直接取り組む団体でなくても、性暴力についてどう考えるのか、どう対処するのか、あるいは自分が当事者となったときにどう対処して欲しいのか、執行部はメンバーに対してどういう責任を負うのかということを明示的に議論することによって、暴力を予防するだけでなく、より運動に対するコミットメントを深めることができるかもしれない。

コンファレンスについて言うならば、お互いにとって安全なコンファレンスにするためには、お互いが何を必要としているのか、もしトリガーが起きたときどう対応するのかといったことを明らかにしていくとともに、どうしても利害が噛み合ない部分、例えばポルノのついてのワークショップを必要としている人たちと、そういったワークショップは自分にとって有害だと感じる人たちは、お互いに空間的に住み分けるといったことまで含めてコミュニケーションに乗せていく必要がある。そうすることで、「誰誰がいないから安全」なのではなく、一緒により安全な空間、安心してリスクを負える空間を作っていこうというという方向にしたい。永続的な共同体としての取り組みは不可能でも、その空間を快適に共有するための関係というのは作れるんじゃないか。

もっとも、そういったところまで考えずとも、「元加害者の方は参加しないでください」というポリシーは問題が多い。というのもまず第一に、本当は被害者ではなく加害者の側が、被害者の参加機会を奪うために「あいつは加害者だ」と名指しするといったことが起きる可能性がある。被害者でなく加害者が先に「自分が被害者だ」と名乗り出るケースは女性同士のパートナーにおけるDVで特に多くあり、その事についてだんだん理解が高まった結果、全国的なDVコンファレンスにおいて「被害者」を名乗り出た人を一方的に信用して「加害者」と名指しされた人を排除するという事はやらなくなっているのだけれど、このコンファレンスの主催者は知らなかったようだ。(まぁ、そういう事が周知されてしまうと、今度はさらに捻って「自分は加害者だと名指しされたけれど、実は被害者なんだ」と名乗り出る本物の加害者がでてくるから、あまり宣伝してもいけないのかも知れないのけれど。)

第二に、元加害者の方は来ないでくださいと言われて「じゃあ参加したいけれど我慢しよう」と納得してくれるような人は十分自分の行為について反省して責任を取ろうとしている人であると思われるのに対して、はなから責任を取る気もないような悪質な加害者がそんなポリシーを気にするとは思えないこと。前者の元加害者というのは、ちょっと相手の気持ちを察するスキルが足りなかったりして相手が本気で嫌がっているのに気付かずに無理矢理セックスして結果的に傷つけてしまったというタイプの人たちで、そういう人たちにとってこの種のコンファレンスは得るものがあるんじゃないかと思うだけに排除してしまうのは残念。その一方で、相手を傷つけたことを何とも思っていない加害者は、被害者の側が直接名乗り出て「あの人は加害者です」と名指ししない限り平気で参加できてしまう。

最後に、性暴力について集中的に議論するのは良いとしても、性暴力だけを別格の暴力として扱うようなポリシーはそれ自体、他の暴力を容認することに繋がるように思う。だって、極端なことを言うと、性暴力の加害者の参加はダメだというのに、殺人犯とかテロリストは参加OKなのよ(笑) …というのは冗談としても、例えば人種差別は性暴力と同じように深刻だと考えるのであれば、過去に人種差別的な言動を取ったことのある人は全員参加禁止ということにしなくちゃバランスが取れない。すると次は同性愛者差別だとか経済的な抑圧だとかまで基準を広げていくと、最終的に参加できる人が一人もいないという事態に陥るはず。本当にそうなればそれはそれで面白いのだけれど、もちろんそんな事にはならずにどこかで線が引かれる。その線こそが、主催者にとっての「ここまでの暴力は許容するけれど、ここから先は許容しない」というラインを自白しているのではないか。

とまあ、こういう話を延々としたわけだけれど、どこまで通じたかあんまり自信なかったり。リベラリズムと共同体主義の論争というのは昔からずっと続いているわけだけど、どういうわけだかわたしの周囲はアナキストや社会主義者やその他「ラディカル」を自称する共同体主義者ばかりで、自分の考えを説明するのに苦労する。ま、それだから「ちょっと変わった奴の意見を聞こう」という時にわたしに声がかかるからいーんだけど。そういう彼らだって別にリベラリズムやリバタリアニズムとの論争を理解した上でコミュニタリアニズムを選択しているわけじゃなくて、ただ単にエスタブリッシュメントへのオルタネティヴを求めた時にたまたま共同体主義的な反体制集団に出会ってしまっただけだから、たまにわたしの意見を聞いて「自分もうすうすそう感じていたけれど、はっきり言語化できずにいた」みたいに言い出す人もいて、それがまた面白いしね。

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