水原さんへお返事(映画「ミリオンダラー・ベイビー」ネタバレ)
2/25/2005 - 3:09 pm by macskaシンポジウム参加のため訪れていたニューヨークから昨夜帰宅。空港に向かう前に少し時間があったので、泊めてもらったイーストハーレムの知人宅からバスでセントラルパークへ行き、最近話題の屋外インストレーション「The Gates」を見ることができた。合計23マイルにも及ぶセントラルパークの遊歩道にオレンジ色の布をたなびかせたものなのだけれど、背景に見える先週降った雪の残りと剥き出しになった土があまりにみすぼらしいので、もう少し暖かい季節だったら良かったのにと思った。
さて、今回話題としたいコトはそれとは前々関係なく、先週このサイトに載せた「障害者運動と映画『ミリオンダラー・ベイビー』」について水原文人さんから受けた批判(というか、誤解もしくは言いがかりだとわたしは思うのだけれど)について、コメント欄での議論が長引いたので新たなエントリとしてまとめて回答することにします。前回に引き続き「ネタバレ」の危険があるので、映画の内容について知りたくない方は以下は読まないでください。
上で書いたように、わたしから見て水原さん批判の大部分は、誤解をもとにしたものだと思う。でも、その部分は誤解ですよと説明し、さらにそのような誤解を招いたのはわたしの表現に問題があったのかもしれないのでその点は謝りますとまでわたしが言ったのに、それでも最初の批判を延々と繰り返す水原さんを見ていると、これはもう「言いがかり」としか言いようがないんじゃないかと感じる。誤解に基づく批判には反論のしようがないので、どこが誤解もしくは言いがかりなのか明らかにしていくことにする。
【誤解もしくは言いがかりその1】
先の文章は映画評論である、という誤解。
水原さんは、観てもいない映画をあれこれ評価するのは傲慢ではないかとわたしを繰り返し批判しているが、そもそもわたしは映画についての評価をしているわけではない。既に明らかになっているプロットや、他の人の論評を参考にしつつ、そこにある障害学的問題について一般的な見解を述べているだけだ。すなわち、先の文章は、映画「ミリオンダラー・ベイビー」を論じた文章なのではなく、同映画における障害の扱いをきっかけとして社会における障害の位置づけを論じた文章だ。
ただ、1カ所だけうっかりと「この映画の問題は、〜だ」といった形で、観てもいない映画についてやや断定しすぎた記述をした部分があり、この点については ryu2net さんの「いささか早まりすぎだと思う」という指摘を受けてすぐに撤回した。つまり、水原さんが登場する5日も前にこの問題についてはすぐに決着がついている。それ以外の部分について、水原さんの言うように「観ていなければできないはずの『評論』を傲慢にも行っている」部分はない。
水原さんは、わたしが「映画評論を行っている」証拠として、タイトル(「障害者運動と『ミリオンダラー・ベイビー』」)を挙げたり、他者の論評を要約した部分を挙げたりしているが、タイトルだけを読んで「映画論評だ」と断じるのはそれこそプロットだけで映画の中味を判断するのと同じ間違いであるし、他の論者の論評を要約した部分に評論的な要素が含まれていても、それはわたし自身が評論していることにはならない。何もかも、言いがかりに過ぎないのだ。
【誤解もしくは言いがかりその2】
Macska は死を選ぶという主人公の決断を「否定している」という誤解
はっきり言って、どこをどう読めばこういう誤解ができるのか分からない。具体的にどこにそう書いてあるのか示そうともしないし、「否定していない」とわたしが反論しているのに、そればかりか「否定できないという主張に、わたしは強く賛同する」とまで言っているのに、何を血迷ったか「どうしてあなたは否定できるのか」と訳の分からない質問をしてくるのだから、それこそ「言いがかり」に等しい。
精一杯がんばって、水原さんの頭の中でどうしてわたしが主人公の決断を「否定している」というコトに決めつけられてしまっているのか想像するに、水原さんは社会的な制度に対する批判と、その社会の中を生きる個々の人々に対する批判を区別するだけの一般教養を欠いているのではないか。以下に例を挙げて説明を試みる。
例えば、ある社会において、女性は結婚もしくは出産した時点で賃金労働をやめて主婦となるのが当たり前とされており、男性はそうした女性に家族をほぼ全面的に任せる形でその分企業に奉仕するのが当たり前とされていたとする。それに抗して女性がキャリアを最優先したり、男性が家族のために時間を取ろうとするのも不可能ではないにせよ、そうした決断を取ることは大きな社会的・経済的な犠牲を伴うとする。
もしそうした社会にわたしがいた場合、わたしはリベラリストであるから、そのような特定の性役割分担が特権化される(そして、その性役割分担に従わない人が生きにくい)社会の仕組みを批判するだろう。しかし、仮にわたしがそうした社会の仕組みを批判としたとしても、それは専業主婦あるいは企業戦士となった個々の人々の決断を批判しているのと等価ではない。わたしが批判しているのは、個人の決断そのものではなく、決断の幅を狭めている社会の仕組みなのだ。与えられた社会的条件のなかで個人がどのような選択をするかなんて事は、はなから問題にすらしていない。
(幇助付きも含む)自殺・尊厳死の話に話題を戻すと、個人の自由を重視するリベラリストとして、わたしは個人が「死を選ぶ」権利を積極的に肯定する。だから、映画の主人公の決定をわたしが「否定している」などという言いがかりは、全くのデタラメでしかない。と同時に、現状の社会を見回すと、多くの障害者たちが「尊厳ある生」を選択する機会を奪われているという現実がある。いまの社会が、特に重症の障害者たちから「尊厳ある生」という選択肢を事実上奪ったまま、「尊厳ある死」のオプションばかり押し付けるのは不正義であるというのがわたしの議論であるが、それは「尊厳ある死」という選択を否定することと同じではない事は明らかであろう。わたしが問題としているのはあくまで社会の有り様であり、個人の選択ではないのだ。
この辺りの誤解は、例えば水原さんによる(ボクシング一筋の価値観を持つ人が半身不随になった場合)「あなたはその人にどうやって『障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方』を伝えるのですか?」という質問にも現れている。わたしは、障害者に対して「障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方」を説いているのではない。そうではなく、「障害を抱えつつ充実した生を追求する」ことを限りなく不可能に近くしている社会的な仕組みを変革したいのだ。
【誤解もしくは言いがかりその3】
Macska は「ボクシング一筋」という主人公の価値観を理解していない、という誤解
上の項目の続きだが、わたしの「『尊厳ある生』という選択肢を事実上奪ったまま、『尊厳ある死』のオプションばかり押し付けるのは不正義である」という文章を読んだあと、水原さんは以下のように反論するのではないか。すなわち、「それは重症障害者一般についてなら当てはまるかも知れないが、この映画の主人公には当てはまらない。なぜなら、彼女はボクシングに人生を賭けてきたのであり、彼女が死を選ぶのは、社会が『尊厳ある生』への機会を与えているかどうかとは関係ない」と。
そう、その通り。そしてそれこそが、障害者運動がこの映画に批判的な理由なのだ。
もし映画が、社会が「尊厳ある生」という選択肢を彼女から奪った結果、彼女が死を選んだというストーリーであったなら、障害者運動によって批判されることはなかったはず。むしろ、障害者が社会の不正義によって「殺されている」現状を鋭く描いた映画として賞賛されていたかもしれない。しかし「ミリオンダラー・ベイビー」は、あくまで個人的な、そして合理的な結論として「死の選択」を描くことで、一般の障害者たちが社会に「殺されている」現実を隠蔽する方向に働くと、障害者運動は受け止めている。だからこそ、障害者運動はこの映画に対して抗議活動をしているのだ。
水原さんにとっては、ストーリーが内部的に納得のいくものであれば(すなわち映画としての完成度さえ高ければ)それで良いのかも知れない。しかし、そうした映画としての完成度とは別に、ストーリーが発するメッセージや政治的なインパクトに注視してそれを論じることも可能だ。例えば昨年、マイケル・ムーア監督の「華氏911」が米国で公開された直後に観たわたしは、この映画について「映画としては最悪の駄作、ただしプロパガンダとしてなら認める」と言ったが、逆に「映画としては優れているが政治的なメッセージは危険」ということだって有り得る。
わたし自身は映画を観たわけではないので映画としての完成度については一切コメントしていないが、プロパガンダとしての効果については、伝えられているプロットを読む限り、障害者運動による分析に納得した。
【誤解もしくは言いがかりその4】
Macska は政治を優先して、映画としての完成度を無視せよと言っている、という誤解
言っていません。作る方は自由に思ったままの映画を作って欲しいと思っています。ただし、映画としての完成度や演出の素晴らしさとは別に、障害学的視点による批判的言及も可能であると言っているだけ。もちろん、後者をする際にも実際の映画を観た上でやるのが基本だが、基本的にわたし自身が批判しているわけではなくて障害者運動による批判を紹介しているだけだし、そもそも個人が趣味でやっているブログで一般の論文や出版物と同じスタンダードを期待されても困る。
最後の部分に対しては、水原さんは、ブログに書かれた事も「誰でも読めるパブリックな情報です」と応えている。そりゃその通りであるが、パブリックであればどこでも全く同じスタンダードが適用されるわけではない。
【誤解もしくは言いがかりその5】
Macska は「魔女狩り」を行っている、という誤解
これも、どこをどう読めば「魔女狩り」に見えるのか理解に苦しんだのだが、最大限好意的に解釈するに、おそらく水原さんはわたしの文章を「映画についての文章」だと思い込んでいるので、映画の評価だけをすれば良いのに、監督のイーストウッドが議会に出て障害者の権利を制限するようなロビー活動をした過去があることなどを紹介するのは「映画評論として」フェアではない、と思ったのかな、と思い当たった。その証拠に、イーストウッドのロビー活動を水原さんは「関係がない」エピソードだと決めつけている。
もちろん上記を読めば分かる通り、わたしの文章が「映画についての文章」であるという思い込み自体が間違いだ。わたしは障害学理論・障害者運動について書いているのであり、その中における「ミリオンダラー・ベイビー」批判を紹介しているのだから、イーストウッド監督自身が障害者運動に対してどういう立場を取っている人物なのかを明らかにすることは本題と大きく「関係のある」話だと思う。
ところで、イーストウッドが議会でロビーした時、彼の応援をした「障害を持つ著名人」がいた。先の文章でも批判的に言及したクリストファー・リーブだ。その事はあまり本文と関わりがないように思えたので特に言及しなかったが、もしわたしが「魔女狩り」を行っているのであれば、当然リーブがイーストウッドのロビー活動を支援していたことを書いていただろう。このことからも、わたしがことさらに批判対象を悪く言うために関係ない悪評を挙げているわけではなく、本題に関係がある場合のみ関係ある範囲で言及していることが分かるはずだ。
【誤解もしくは言いがかりその6】
「個人の努力で『尊厳』を勝ち取れ的な扱いは無責任」という言葉の意味
これは言いがかりではないんだけど、わたしの「個人の努力で『尊厳』を勝ち取れ的な扱いは無責任」という部分は水原さんに何度も繰り返し引用されており、なおかつその引用のやり方が支離滅裂(わたしは「個人の努力で『尊厳を勝ち取れ』という言説を批判しているのに、まるでわたし自身がそう言っているかのような形で引用されている)なので、わたしが何を言わんとしているか全然分かっていないと想像される。そこで、以下に分かりやすく説明する。
先に述べた通り、わたしは今の社会は重度障害者の「尊厳ある生」への希求を大幅に制限していると認識している。そのような社会は変革されるべきだと口で言うのは簡単だが、現実というのはそう簡単には変化しない。その時、「尊厳ある生」への道を事実上閉ざされた人に対して、それ以外の「わたしたち」は何を言えるかと考えてみるに、社会的な障壁を放置したまま「個人の努力で尊厳ある生を勝ち取れ」というのは無責任極まりないであろうというのが、わたしの言わんとした事だ。
別の言い方をすると、わたしたち社会ができることは、社会的に構築された障壁を粛々と取り除いて行くことであり、死を求める障害者たちに「生きろ」と求めたり、「死の選択」を否定するのは傲慢であるというのがわたしの主張の趣旨だ。もし水原さんにこれが理解できていたら、「Macska は主人公の決断を否定している」などというデタラメな言いがかりは無かったと思うのだが。
【誤解もしくは言いがかりその7】
障害者運動は、イーストウッドの映画に便乗している、という言いがかり
水原さんは、障害者運動が「ミリオンダラー・ベイビー」に対して抗議している理由について、2つの仮説を挙げている。
最後のパートだけあげつらう運動家がいるのは、それはそのままアカデミー賞監督であるイーストウッドの監督・主演、しかもハリウッド・メジャーの製作で、つまり目立つから自分たちの運動を宣伝するのに好都合なターゲットだった、って部分が相当にあると思いますよ。
それで個々の障害者が抱えている問題がどう解決されるのかって言えば、ほとんど関係ないのではないでしょうかね?
(略)
あと運動の主体がこうした機会を利用して自分の主張を通すことそれ自体は、僕は別に否定はしませんよ。それも彼らが自分の運動に注目を集めるための選択でしょう。彼らにとっては自分たちの運動の方が大事なのですから。でもそれは一方で、極めてエゴイスティックな行為であり、そして人間の行いとしては歪んでいます。またそれに利用される映画にとっては、えらく迷惑な話です。
実情は、たぶんプロライフとか言ってる宗教右派が騒ぎ始めたので、障害者運動の方でもなにも言わないわけにはいかなくなった、ってことでしょうけど。
仮に前者の動機が「相当にある」のであれば、それとは別の後者の動機が「実情」であるというのは論理的にいっておかしいのではないかと思うけれど、それは取りあえず問わないとしよう。
前者の指摘は、社会運動に対するかなりシニカルな見方を反影したものと言える。しかし、そうしたシニカルな見方が今回の件に当てはまるという論拠を水原さんは全く示していない。今回抗議を行っている Not Dead Yet という団体は、「尊厳死」「医師による自殺幇助」といった名の元に、本当は死を希望していない重度障害者が本人の意志に反して殺されたり、あるいは「死という選択」に同意するよう強要されたりする問題を扱っており、具体的には尊厳死を認める法律が濫用されないように歯止めの要件を付け加えるなどといったロビー活動も行っている。
かれらにとって、映画「ミリオンダラー・ベイビー」が扱っている問題、そしてそれが発する政治的なインパクトは無視できないものであり、運動を宣伝するちょうどいいチャンスだとして嬉々として便乗しているというようには到底思えない。もちろん、この映画がイーストウッドの主演・監督でありメジャーの製作だから目立つことも無関係ではないが(だって、誰も知らないような映画だったら、わざわざ抗議活動をして注目を集めるとかえってマイナスでしょ)、抗議活動をしている人たちは「こんな映画がメジャーで作られるなんて」「こんな映画が名誉ある賞にノミネートされるなんて」と本気で憤慨している。
後者の指摘に至っては、全く意味不明。どうして宗教右派が騒ぎ始めたからといって障害者運動が何か言わなければいけないことになるのか。例えば、同性婚の問題について宗教右派は騒いでいるけれど、だからといって障害者運動が同性婚問題で何か活動をやっているという話は一切聞かない。もし水原さんが障害者運動は主体的に活動方針を決定できないと考えているとすると、それは障害者に対する偏見ではないか。というか、前者の指摘では障害者運動がかなりマキャベリ的に想像されているのに対し、後者では主体性のない運動と規定されていて、その落差が面白いけど。
ちなみに、水原さんは障害者運動に対する上記のような評価を述べることで、致命的な間違いをおかしている。つまり、わたしという第三者の紹介だけを元にして運動そのものを論評するという、まるで映画を観ずにプロットだけを聞いて論評するのと同じくらいのミスを犯しているのだ。
どうしてそう分かるか、説明する。コメントの11番でわたしが水原さんによる障害者運動への決めつけを「何の根拠もない邪推」と批判したところ、水原さんは12番で「氏の公表した文章自体がその根拠ですが?」と応えている。ここで「氏」というのは、文脈からいってドレイク氏のことであり、その文章というのは Ragged Edge Online に掲載された論評だと思われる。しかし、この論評を水原さんは読んでいないのだ。その証拠が、コメント25番の以下の部分だ。
私は基本的に尊厳死の賛成派で、職業(=「生き甲斐」「生きる意味」)がら、たとえば失明しただけでも死んだほうがいいと自分では思っています。念のため断っておきますがこれはあくまで僕個人が職業柄、目が見えなければ自分が人生を賭けてやるべきだと思っていること…というかそれしかできないんで恐らく自分の存在理由はそこにあるんだろうと思っていることができなくなるから、と言うだけであって、一般論としては目が見えなくてもできること、生きる意味はたくさんあるでしょう。ただ僕個人がその一般論には当てはまらないだけです。
で、失明した自分が勝手に自殺するだけなら周囲は基本的に深く悲しむだけでたぶん済みますけれど、首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しいわけですし、医師であれば人を生かすことこそその使命であり天命であるわけで、父親代わりみたいなコーチにしても、当然彼女が死ぬことは望んでなどいないわけです。そこに解決できない矛盾があり、それはおよそ「ロマンチック」などというべきものではないでしょう。
つまり、この文章を読む限り、水原さんは「首から下が麻痺しているため自ら自殺するのは困難であり、なおかつ医師に幇助を頼むこともできない、だから父親代わりみたいなコーチに頼むしかなかった」という映画の設定を鵜呑みにしていることがわかる。ところが、ドレイク氏の批判の1つは、こうしたプロット自体が現実離れしていることだった。以下に引用する。
Frankie allegedly “helps” Maggie because she can’t do it herself. Bullshit. We can assume, just from seeing the cars on the street in the movie, that this is post-1990. All Maggie has to do to die is to ask. No kidding. Court rulings in the 90s say that a person who uses a vent can request the vent be shut off, and the staff will give them a sedative and shut the vent off just as they start to lose consciousness.
It’s that simple. It’s already all legal. We’ve seen it play out too many times already in real life.
So what’s this “Frankie helps Maggie die” about? Why is it part of the script?
つまり、現実には主人公は死を望むのであれば医者にそう告げれば呼吸器を外してもらえたはずであり、コーチに頼まなければいけない絶対的な理由は一切無かった。さらには、主人公が療養していた施設には警備員もいなければ鍵をかけたドアもアラームもないなど、米国の同種の施設としては非常に不自然。殺害シーンをロマンティックに演出させることを最優先させた結果、一歩下がってみると非現実的な描写ばかりになっているとドレイク氏は酷評している。
ドレイク氏の文章を読んでいれば、映画の設定を鵜呑みにして「首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しい」とは水原さんは書いていなかったはず。つまり、水原さんはそれほど長くない論文の1つすら読みもせずに、障害者運動に対する評価を下した挙げ句、その評価は自分が読んだ文章を元としていると言い放っている。あれだけ自ら「観ていない映画について評価するな」と言っておきながら、読んでいない文章について堂々と評価を下してしまうというのは大きな矛盾。
このように、誤読と言いがかり以外に水原さんは何も意味のあるコトを言っていないので、これで終わり。ただ、ここまで不可解な言いがかりをしてまで水原さんが真剣に擁護する「ミリオンダラー・ベイビー」という映画にもうちょっと興味が湧いたのは事実。
ついでに、もう一人の批判者、Jose Yacopi さんへの返事も(あっちのコメント欄は増え過ぎたので)ここで行っておく。
22番のコメントから、他者の「尊厳ある生」を決めつけるのは越権行為であるという点までは、わたしは Jose Yacopi さんの考え方に完全に同意する。また、「個人が不幸な状態なのは、社会の認識不足とか環境の不整備だ」という言明が必ずしも正しくないのは、例えば全てにおいて恵まれた境遇にある人が必ずしも幸せでないという Jose Yacopi さん自身が挙げた例からも納得できる。
しかし、その一方で障害者が現実の社会においてさまざまな生き方の選択肢を社会的に奪われており、そのため特定の生き方を押し付けられているという点を無視することはできない。他者に特定の「生のあり方」を押し付けることが暴力であるとするなら、制度的に特定の集団に属する人たちの「生のあり方」を制限する社会的制度も暴力であると言える。そして、全ての人の幸福を実現することはできなくても、障害者に対する社会的な制約であれば政策的にある程度取り除くことができる。
わたしが言っているのはそういった当たり前の事なので、わたしの発言をかつての社会主義思想と結びつけた Jose Yacopi さんの批判は当たっていないように思える。「スワンク(のキャラクタ)のように死を選ぶか、リーブのように障害を克服しようとするか、あるいは障害を障害としてそのまま受け入れて充実した生を生きようとするかはそれぞれの価値観であり、他者が一律にこうだと批判してはいけない」という点には完全に同意しているのだが、現実問題として(スワンクのキャラクタ)のような重度の障害者に対して「死という選択」を強要するような社会的環境があったり、軽度の障害者に対してはリーブのように個人的な努力で障害を克服せよという強要が強く、一方障害者の存在を社会として受け入れて共生しようという社会的な意志が欠けている。水原さんへの返答でも書いた通り、わたしはそうした社会の側の問題を批判しているのであって、障害者個人が下す決断については一切否定していない。
「個々人が自分の生き方を選択できることこそが人間の尊厳」まさしくその通り。個々人から自分の生き方を選択する機会を奪うような社会制度を変革するべきだというわたしの主張と全く矛盾しない。
そのことには、Jose Yacopi さんも次第に気付いたらしく、33番のコメントでは、結局問題なのは「この映画はそんなに浅い内容の映画ではない、障害者がおかれた境遇について論じるのは構わないがこの映画に絡めるのはおかしい」という点だけになっているように思う。わたしは映画そのものについて論じたつもりは一切なくて、ただ単にあの映画の一面に関連した抗議活動を紹介しつつ障害学の立場から一般的なコメントしたに過ぎないのだけれど、もちろん実際観てから書いた方が良かったというのはその通り。でも、観なければ分からないような事については書いていない(論評の対象とはしていない)と思うし、仮に観ていても文章の内容が変わっていたとは思えない。
以上。
2005/02/26 - 08:52:17 -
macskaさん、はじめまして。celineといいます。
一連のやり取りを読ませていただきましたが、少しばかりコメントさせて下さい。
> 現実問題として(スワンクのキャラクタ)のような重度の障害者に対して「死という選択」を強要するような社会的環境があったり、
まさにご指摘のような「現実問題」を鋭く提示した本に
『ALS 不動の身体と息する機械』(立岩真也 医学書院)
があります。
(macskaさんは既にお読みかもしれませんが)
この本の中で語られている重度障害者であるALS患者が苦悩し、直面せざるを得ない「死という選択」については、↓の書評にうまく纏められており参考になると思います。
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2621dir/n2621_02.htm
ところで、細かいことかも知れませんがちょっと気になったので・・・
> 軽度の障害者に対してはリーブのように個人的な努力で障害を克服せよという強要が強く
この文章では、読んでいる人にリーブが軽度障害者であるかのような誤解を与えかねません。
それから、クリストファー・リーブ氏についてmacskaさんは障害学、障害者運動の観点から批判的なことを書かれておりましたが、私にはあまりピンと来ませんでした。氏のどのような言動を問題視しているのか、もう少し具体的に説明していただけないでしょうか。
リーブ氏と同じくハリウッド有名人でパーキンソン病に罹患し障害を抱えているマイケル・J・フォックス氏も、再生医療研究への財政的援助や財団設立、障害者福祉向上のための精力的活動など、リーブ氏と同じ方向の活動を展開しており、その点で二人は親交があったと聞きます。
macskaさんはリーブ氏やJ・フォックス氏のようなハリウッド有名人の障害者活動をどのように評価していらっしゃるのでしょうか。あらためてお聞かせいただけますか。
2005/02/26 - 09:56:52 -
コメントありがとうございます。
リーブ氏やフォックス氏がハリウッド有名人として培った資産や知名度を利用して障害についての啓蒙をしたり、医学的研究を推進したりするのは、もう文句なく評価できることだと思っています。
ただ問題となるのは、メディアや一般社会における彼らの扱いで、特にリーブ氏については「障害を絶対に受け入れない、克服してみせる」と公に発言することで、そうした態度が障害者として「正しい」態度なのだという風潮を強化しています。そしてそれは、障害を持って生きることが非常に困難である原因の多くが社会制度によるものであるという点を隠蔽し、身体的差異そのものがいけないのだという考え方に繋がりかねません。
前に紹介した障害学のページにも書かれていますが、障害学では日本語における「障害」を、身体的な機能の制限を意味する「インペアメント」と、そうした身体的な特徴によって社会参加の機会を奪う社会制度としての「ディスアビリティ」に区別します。もちろんそんなに明快に区別できるものなのかというのは怪しいところもあるのですが、だいたいそういうモノだとお考えください。障害者運動が訴えるのは、インペアメントの有無に関わらず社会参加を妨げられないような社会を作ろうということであり、インペアメント=身体的差異そのものを取り除くことで社会参加を実現しようとする言説には批判的なのです。
もちろん、リーブ氏個人の生き方としてであればどんな生き方をしても構わないのですが、彼のような有名人が公に発言すると、それが他の障害者に対する圧力として機能してしまう危険があるので、もう少し気をつけて表現して欲しかったとは思います。が、もちろん一番問題なのは彼の発言そのものではなく、彼の発言に便乗して「インペアメントの有無に関わらず社会参加できる世の中にしよう」という訴えを無視し続ける一般社会やメディアの方です。
つまりね、リーブ氏が障害を持つ以前から障害者運動というのはあるわけですが、彼はそうした運動や研究の蓄積を知らないまま、障害者のスポークスパーソンのように祭り上げられてしまった。その責任の大部分はもちろん彼をそのように扱った一般社会やメディアにある(リーブは、あくまで健常者が考える「障害者のヒーロー」であって、現実の障害者たちからヒーロー視されてはいなかった)わけですが、彼自身もう少しそのことに自覚的であれば良かったと思います。
2005/02/26 - 11:48:17 -
>水原さんは、観てもいない映画をあれこれ評価するのは傲慢ではないかとわたしを繰り返し批判しているが、そもそもわたしは映画についての評価をしているわけではない。
その自覚がないだけなのでしょうが、実際にはしているのです。「納得できない」などと書かれれば、それが映画それ自体への評価でなくてなんなのでしょうか?
実在の個人の選択について問題視するなら、そのすべてを知ることはできませんから、「知らないで批判」している危険は常にあります。でもね、映画は映画で、見りゃとりあえずその映画自体の伝えていることは一応全部見えてしまうんです。
なのになぜそこまで映画館に行くことを厭われるのでしょうか? 見ないのなら書かなきゃいい、これは常識です。現に見ていないが故に間違った解釈をしていたことを最初に指摘されているのですから、その時点で書かれた内容を取り下げるというのも、まともな責任ある言論としての選択枝の一つでしょう。
率直に申し上げて、今回の言い訳を読んでいるとあなたが責任ある言論を行使できるだけの自覚がある人とは思えません。
2005/02/26 - 11:54:46 -
>すなわち、「それは重症障害者一般についてなら当てはまるかも知れないが、この映画の主人公には当てはまらない。なぜなら、彼女はボクシングに人生を賭けてきたのであり、彼女が死を選ぶのは、社会が『尊厳ある生』への機会を与えているかどうかとは関係ない」と。
「重症障害者一般」というカテゴリー自体がよく分かりません。私には障害を抱えている個々人しか見えませんから。医療の面で、ケースごとの分類はやむを得ないですし、そのことはむしろ研究と治療の観点からは有効です。しかし「尊厳」とは個々人の奥深い内面の問題であって、一般論を持ち出すこと自体が実はおかしいのです。
「尊厳ある生」を選ぶのも「尊厳ある死」を選ぶのも、その点では個人の選択です。ただそれだけでは済まないのが現実の世界であり、そこには矛盾が常に引き起こされます。その矛盾を忌避し続けておいでなのではないでしょうか? 映画はそこをこそ描いているはずですが?(って見てなければ分かるわけがない、ってところで3のコメントに戻る)。
もう少し個人個人というものを尊重されてはいかがでしょうか? 「障害学の理論と実践」、とくに後者をなさっているのでしたら、それはとても重要なことだと思います。
障害者運動に注目を集めるためのキャンペーンとして、メジャーな映画を利用することそれ自体はアリだと僕は思いますけれど、見てないでそれをやってはあまりに突っ込みどころがありすぎで、信憑性がガタ落ちになりますよ。
2005/02/26 - 12:00:20 -
> はっきり言って、どこをどう読めばこういう誤解ができるのか分からない。具体的にどこにそう書いてあるのか示そうともしないし、
少しはご自分がなにを書かれているのか自覚しましょう。
「この映画のストーリー展開についてイーストウッドは「原作の小説に従っただけ」と言っているという。しかし、監督としてどの小説を映画化するかを選んだのはイーストウッド自身なのだから説明とはなっていない。もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」
「というか、触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任。」
貴女は原作者や映画の脚本家や監督がそう「扱った」だけだと思い込んでおいでなのでしょうが、そのためにこの指摘をしています。
「エンゲルスのフローベール論を持ち出すまでもなく、作品というのはその作り手(芸術家)個人を超えて存在するものです。こと物語芸術、つまり登場人物の生き方を描く場合、実際にその制作過程で起こるのは、登場人物の方が作品をコントロールするということです。作り手の側はそれを真摯に追い、描写するしかなくなる。またそうでなければ、優れた物語芸術作品にはなりません。」
そうでなければ、プロパガンダです。で、クリント・イーストウッドはプロパガンダ映画の作家ではありません。本人が共和党支持で、共和党から立候補してカーメルの市長をやっていたのに、なんで『許されざる者』とか『ダーティーハリー4』とか『ミスティック・リバー』とか、その時々の共和党の政策とは真っ向からぶつかりそうな映画ばかり作るのか、よう分からんほどです。
つまり、やっぱり映画を見ていないし、そもそも芸術作品とか表現とかがなんなのかを分かってない、ってことでおしまいになってしまいますよ。
2005/02/26 - 12:04:21 -
>ドレイク氏の文章を読んでいれば、映画の設定を鵜呑みにして「首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しい」とは水原さんは書いていなかったはず。つまり、水原さんはそれほど長くない論文の1つすら読みもせずに、障害者運動に対する評価を下した挙げ句、その評価は自分が読んだ文章を元としていると言い放っている。
冗談も休み休み言って下さい。僕が指摘しているのはあなたの文章の問題点ですよ。
2005/02/26 - 12:07:06 -
>Macska は政治を優先して、映画としての完成度を無視せよと言っている、という誤解
そんなこと言うとりませんがな(爆笑)。見てないあなたが「完成度」云々できるわけないでしょう? 「見てない」からダメだ、って言われてるんだから見に行けばいいじゃない?
そんなに自分のプライドが大事ですか? あなたが「政治を優先」してると思われてるなんてのは、ただのうぬぼれじゃないですか? あなたはあなた自身のチンケなプライドを優先してるだけでしょう? というか、書かれている内容はそうなってますよ。
2005/02/26 - 12:09:49 -
> 先に述べた通り、わたしは今の社会は重度障害者の「尊厳ある生」への希求を大幅に制限していると認識している。そのような社会は変革されるべきだと口で言うのは簡単だが、現実というのはそう簡単には変化しない。その時、「尊厳ある生」への道を事実上閉ざされた人に対して、それ以外の「わたしたち」は何を言えるかと考えてみるに、社会的な障壁を放置したまま「個人の努力で尊厳ある生を勝ち取れ」というのは無責任極まりないであろうというのが、わたしの言わんとした事だ。
誰もそれは否定しとらんがな。貴女が実際に書いたことはそういう文章になってないんですよ。障害学の研究に熱心なのも結構ですが、テクスト理論ぐらい少しは勉強して下され…。我々は貴女が文字として書いたことしか判断出来ないわけなんですけどねぇ…。その文章の背後のどっかに隠れてるご立派なあなた様なんて、文章そのものでちゃんと表現してくれん限り、見えるわけないがな…
2005/02/26 - 12:12:59 -
で、具体的に障害と共に生きる「尊厳ある生」って、あなたはなにを想定しているわけですか? 言葉だけの「尊厳」だけを呪文のように繰り返したって、説得力がありません。
前のページにも書きましたが、僕は自分が失明したら自殺する覚悟はしています。それは私の個人的な選択。別に社会に強制されたんでもなんでもない。
2005/02/26 - 12:16:44 -
> >ドレイク氏の文章を読んでいれば、映画の設定を鵜呑みにして「首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しい」とは水原さんは書いていなかったはず。つまり、水原さんはそれほど長くない論文の1つすら読みもせずに、障害者運動に対する評価を下した挙げ句、その評価は自分が読んだ文章を元としていると言い放っている。
> 冗談も休み休み言って下さい。僕が指摘しているのはあなたの文章の問題点ですよ。
…で、かつこの辺りがまた個人の心理や感情、つまり「尊厳」に関わる部分を無視してる典型なのだけど、医師にやらせるのと、自分が心から愛している人間にやってもらうのと、どっちが個人の尊厳にとって重要? 生きるか死ぬかって、そんなに単純に区分けできるもの? 違うでしょ??
だからとりあえず映画を見ればいいんだけど、要するに机上の空論では済まない個人個人のそれぞれの現実を少しは尊重して下さいな。
2005/02/26 - 12:21:45 -
> 前者の指摘は、社会運動に対するかなりシニカルな見方を反影したものと言える。
単なる現実主義ですが、なにか? 社会運動は社会的な注目を集めなければならないのは当然。そのために映画を利用するくらいのことはするでしょう。それ自体は別に悪いことじゃないですよ。
2005/02/26 - 12:37:11 -
> 水原さんが真剣に擁護する「ミリオンダラー・ベイビー」という映画にもうちょっと興味が湧いたのは事実。
別に擁護なんてしてないけど? ただあまりに一般的な社会常識と、映画作家としてのクリント・イーストウッドについての背景知識を申し上げただけですが? ただあなたがやってることが、我々の立場から見ればあまりにメチャクチャなわけですよ。
>この映画について「映画としては最悪の駄作、ただしプロパガンダとしてなら認める」と言ったが、逆に「映画としては優れているが政治的なメッセージは危険」ということだって有り得る。
あり得んわ、そんなもん。政治的なメッセージの立場からすると「不快」ならあり得るけど。だって「政治的メッセージ」だけに集約される時点で、それはすでに作品として優れていないことになるもの。ただ自分の政治的立場を揺さぶられるものに対して「不快」なのを、「危険」だと決めつける政治的に未熟な人々がいるだけの話。
>かれらにとって、映画「ミリオンダラー・ベイビー」が扱っている問題、そしてそれが発する政治的なインパクトは無視できないものであり、運動を宣伝するちょうどいいチャンスだとして嬉々として便乗しているというようには到底思えない。
当たり前や。誰がそんなこと言うとるねん。自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対するのも、メジャーな映画を政治的理由で利用することの範疇でっせ? あなたが書いてることは僕の書いてたことのパラフレーズにしかなっておらず、ただロマンチシズムのバイアスの掛け方で印象が正反対になってるだけ。
「動機が純粋だから」云々みたいなロマンチシズムの世界が元々僕にとって興味がないだけ…というか、その基準である行動を美化したりすること自体に否定的。そんなもんフロイトとか潜在意識とか少しでも勉強すれば、当たり前のことやんけ。
2005/02/26 - 13:21:53 -
またたくさん反論があるみたいですが、できるだけ簡潔に。
コメント3:
> 「納得できない」などと書かれれば、それが映画それ自体への評価
> でなくてなんなのでしょうか?
映画のストーリーとしては納得できたとしても、それが与える政治的インパクトが懸念される、ということですが… わたしは最初から一貫として映画としての出来だとか完成度について論じていはいないのでストーリーについて納得できるかどうかについては何も言っていませんが、仮に町山さんの言うようにストーリーとして納得がいく内容だったとしても、それだけでは困ると言っているのです。
> なのになぜそこまで映画館に行くことを厭われるのでしょうか?
既に述べた通り、映画館が苦手だからです。
> 現に見ていないが故に間違った解釈をしていたことを最初に指摘されているのですから、
> その時点で書かれた内容を取り下げるというのも、まともな責任ある言論としての選択
> 枝の一つでしょう。
間違った解釈というか、言い過ぎの部分があったのでその部分に関してはあなたが登場するよりずっと前に取り下げました。残りの部分については、プロットやあらすじが分かれば十分な事しか書いていないので、取り下げる必要は感じません。
あなたの言い方だと、例えば映画のポスターについて批評するためにも映画そのものを観なければいけないことになりかねませんが(また、映画の内容を参照しつつポスターについて批評するという事があっても良いですが)、ポスターそのものについて批評することだって可能だとわたしは思います。
コメント4:
> もう少し個人個人というものを尊重されてはいかがでしょうか?
だから、社会制度の問題と、個人の問題をあなたは混同されているのです。
わたしの言う事があなたに理解できないのは仕方がないですが、個人を尊重していないなどと決めつけるのはやめてください。
> 障害者運動に注目を集めるためのキャンペーンとして、メジャーな映画を利用する
> ことそれ自体はアリだと僕は思いますけれど
かれらが、メジャーな映画を利用しようと考えているようには見えません。
むしろ、どうしてこんな映画がメジャーで作られるのだ、と本気で憤慨しているように見えます.
あなたは、ドレイク氏の論評すら読んでいないくせに、どうしてこうした邪推しかできないのでしょうか?
コメント5:
> 貴女は原作者や映画の脚本家や監督がそう「扱った」だけだと
> 思い込んでおいでなのでしょうが
思い込んでいません。そうではなく、「『尊厳ある生』に触れさえすればそれで良いのか」という反論が有り得ると思ったので、先回りして答えておいただけです。
今回の返答を読む限り、やはりあなたはわたしが「個人の努力で『尊厳』を勝ち取れ的な扱いは無責任」という文章の意味をまったく理解していません。あれだけ丁寧に説明したのに…
コメント6:
> 僕が指摘しているのはあなたの文章の問題点ですよ。
わたしの文章の問題点(?)も指摘していますが、同時に障害者運動がこの映画に抗議している動機(?)についてもあなたはいくつか「指摘」しています。障害者運動が、メジャーな映画だからと便乗しているというのが大部分だろう、というあなたの邪推について、その根拠を尋ねたら、あなたはドレイク氏の文章だと答えました。ところが、あなたはそのドレイク氏の文章を読んでいないのです。
コメント7:
> そんなこと言うとりませんがな(爆笑)
要約がまずかったのかもしれませんが、要するに「Macskaは映画をプロパガンダの手段にしようとしている」という意味でした。しかしわたしは、映画がこうあるべきだったとか、ヒロインがこうした選択をするべきだったということは一言も言っていないので、そういう批判は当たりませんよ、という事が言いたかったのです。
コメント8:
> 貴女が実際に書いたことはそういう文章になってないんですよ
「『尊厳ある生』への道を事実上閉ざされた人に対して、それ以外の『わたしたち』は何を言えるかと考えてみるに、社会的な障壁を放置したまま『個人の努力で尊厳ある生を勝ち取れ』というのは無責任極まりないであろう」という文章を短く要約すると「個人の努力で『尊厳』を勝ち取れ的な扱いは無責任」となりますが、どこが違うんですか? あなたが誤読していただけでしょ。
コメント9:
> で、具体的に障害と共に生きる「尊厳ある生」って、あなたはなにを想定しているわけですか?
個人が何に尊厳を感じるかというのはそれぞれであって、一律にこれであるというものを想定できるわけがないじゃないですか。ただ、それ以前の問題として、対等な人間として社会に参加できるような制度的準備をすることが、個人が自分なりの尊厳のあり方を追求できる最低限の条件だとわたしは考えるので、そうした制度的変革が必要であるというのがわたしの主張です。
コメント10:
> 医師にやらせるのと、自分が心から愛している人間にやってもらうのと、どっちが個人の尊厳にとって重要?
予想通りの見苦しい言い逃れ、ありがとうございます(笑)
あなたは、医者は患者を生かすことが仕事だから医者にやらせることはできない、という映画の設定を鵜呑みにしていたんでしょ? だから、本当はただ単に医者に頼めば済むだけなのに、「失明なら自殺もできようが、首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しい」、という文章を書いているわけです。それはすなわち、水原さんがドレイク氏の文章を読みもせずに、ドレイク氏が関わる抗議運動について評価を決めつけたという、決定的な証拠となります。
そもそも、わたしの指摘が間違いであるというなら、「いや、自分はちゃんとドレイク氏の文章を読んだ上で評価を下しているのだ」と答えれば済むのに、読んだか読んでいないかは巧妙に明言を避けている(笑) だから見苦しいのね。
コメント11:
> 単なる現実主義ですが、なにか?
シニカルな見方である、と言っただけで、別に悪いといったわけじゃないんですが、それこそなにか?
コメント12:
> だって「政治的メッセージ」だけに集約される時点で、それはすでに作品として
> 優れていないことになるもの。
いつ誰が政治的メッセージ「だけ」の映画だなんて言いました? 作品として優れた映画が、政治的メッセージというか、政治的なインパクトを持つというのは有り得るんじゃないの?
> 自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対するのも、
> メジャーな映画を政治的理由で利用することの範疇でっせ?
あははは。またもや苦しい言い逃れ。
「自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対する」のも「利用」に含めるのであれば、そもそもあなたはどうしてそれを「極めてエゴイスティックな行為であり、そして人間の行いとしては歪んでいます」とまで非難していたわけですか? 自分たちの政治的主張と反対なものに抗議することを「人間の行いとして歪んでいる」と言うのであれば、民主主義は成り立たないでしょ。もし最初から「利用」という言葉に「自分たちと反対の政治的主張に反対する」も含めていたのであれば、そうした「利用」をあなたがあれほど極端に非難する理由がないわけです。
つまり、あなたはもともと「自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対する」のも「利用」に含める、とは考えていなかったのに、今になって議論で追いつめられて苦しくなったから、「フロイトとか潜在意識」まで持ち出して「それに含まれる」ことにしておきたくなったのでしょう。
その一貫性のなさを誤摩化すために、「動機が純粋だから」みたいなロマンチシズムに興味がないとか、全然無関係な事を言っているけれど、全く無意味。いい加減にしてください。
あと、お願いですから、一度のコメントは1つにまとめてください。
カット&ペーストで同じ事を何度も繰り返すのも、できるだけ避けてください。
2005/02/26 - 20:04:05 -
>映画のストーリーとしては納得できたとしても、それが与える政治的インパクトが懸念される、ということですが…
はあ。「もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」は立派に映画そのもへの評価として読解されうるテクストですが? なにしろ「ロマンティックに美化」したかどうかは映画を見ないと分からないんですから。
苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば? あなたが見るまでペンディングしたいって言ってるんですけど、こちらは。だって不毛でしょ。
>個人が何に尊厳を感じるかというのはそれぞれであって、一律にこれであるというものを想定できるわけがないじゃないですか。
そうですよ。なのにその個人の領域を侵害してるからおかしいんです。で、この場合は『ミリオンダラー・ベイビー』のヒロインという個別例がいるんでしょ? その人に対してどうするの? あるいはクリストファー・リーブでもいいんですけど、その個人の選択を無視し続けてるのはあなたなんですけど?
> 「『尊厳ある生』への道を事実上閉ざされた人に対して、それ以外の『わたしたち』は何を言えるかと考えてみるに、社会的な障壁を放置したまま『個人の努力で尊厳ある生を勝ち取れ』というのは無責任極まりないであろう」という文章を短く要約すると「個人の努力で『尊厳』を勝ち取れ的な扱いは無責任」となりますが、どこが違うんですか?
ご自分が見ていない映画に対する「評価」が前提になってることを忘れないで下さいね。
>その根拠を尋ねたら、あなたはドレイク氏の文章だと答えました。ところが、あなたはそのドレイク氏の文章を読んでいないのです。
あなたの引用した部分を根拠にしてるだけですが? で、それは根拠としては極めて十分なんですけど? だって僕は批判や邪推をやってるんではなく、単にアメリカにおける政治的運動の行動パターンについての一般論を述べただけなんですから(爆笑)。それに対し自分がシンパシーを感じる団体だからということで過剰反応しておいでなだけですよ。
>> そんなこと言うとりませんがな(爆笑)
>
>要約がまずかったのかもしれませんが、
と、僕がそんなこと言ってないということを認めたフリをしながら、その舌の根も乾かないうちに「それはすなわち、水原さんがドレイク氏の文章を読みもせずに、ドレイク氏が関わる抗議運動について評価を決めつけたという、決定的な証拠となります」とか言ってるんだから、あなたって本当に言論における誠意とかとまったく無縁な人なんですねぇ、と判断せざるを得ませんな…
>> 単なる現実主義ですが、なにか?
>
>シニカルな見方である、と言っただけで、別に悪いといったわけじゃないんですが、それこそなにか?
「邪推」とかなんとか言ったヒトがなにを今更・・・
>「自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対する」のも「利用」に含めるのであれば、そもそもあなたはどうしてそれを「極めてエゴイスティックな行為であり、そして人間の行いとしては歪んでいます」とまで非難していたわけですか?
やっている側の意図はどうであれ、結果として作り手を侮蔑する行為にしかならないからですけど? 誰であろうとその社会的な行動が、その背後にある善意を常に了解された上で理解されるなんてことはありませんよ。いい例が、あなたが「自分が攻撃されている」と思い込んでこうやって必死で苦しい言い逃れをしていることです。
>自分たちの政治的主張と反対なものに抗議することを「人間の行いとして歪んでいる」と言うのであれば、民主主義は成り立たないでしょ。
つまり政治的な意図であることは認めるんですね♪
> つまり、あなたはもともと「自分たちの政治的主張と反対なものがメジャーなものとして出るから反対する」のも「利用」に含める、とは考えていなかったのに、今になって議論で追いつめられて苦しくなったから、「フロイトとか潜在意識」まで持ち出して「それに含まれる」ことにしておきたくなったのでしょう。
もう、メチャクチャですな(爆笑)。
まずは映画をご覧下さい。お話はそれからにしましょう。
> あなたは、医者は患者を生かすことが仕事だから医者にやらせることはできない、という映画の設定を鵜呑みにしていたんでしょ?
設定を鵜呑みにできるわけも、擁護できるわけもありませんが? あのぉ、私は日本在住で、日本では6月公開予定ですから、まだ試写も始まってません。つまり僕も見てないんですけど。当然他の資料は読んでますけど、基本的にあなたへの批判・反論に用いさせて頂いているのは、あなた自身が引用している資料だけですよ(爆笑)。
徹底してあなたの自己矛盾を突いているだけだ、ってことにまだお気づきでないようで…
2005/02/26 - 20:24:31 -
> 苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば?
これはわたしの持つ障害とも関係することですが、映画館が苦手であるとわたしが何度も言っているのに、どうしてそうやって無神経に「見に行け」とばかり言えるのでしょうか? 何度も言う通りDVDが出たら観るので、それまで待ってください。
> そうですよ。なのにその個人の領域を侵害してるからおかしいんです。
わたしは「個人の領域を侵害していないし、侵害するべきではない」という内容の文章を書いているのに、それを読んで「Macskaは個人の領域を侵害しているからおかしい」とあなたが反応するのは、偏執狂的ではないですか? それをいい加減理解してくださいな。
> あなたの引用した部分を根拠にしてるだけですが?
つまり、障害者運動自身が発するメッセージを1つも読みもせずに、わたしが紹介したほんの数行程度の引用だけを根拠にかれらの動機をあれこれ勝手に決めつけていたわけですね。見ていない映画について論評するのと同じくらい傲慢な行為であるように思いますが。
> やっている側の意図はどうであれ、結果として作り手を侮蔑する行為にしかならないからですけど?
自分たちの政治的主張と反対のものに抗議することが、どうして相手を侮辱することになるのですか? まったく訳が分からないです。もしかして、映画という表現手段を取れば、その映画が持つ政治的インパクトについての批評の一切は「侮辱」であるとでもお考えですか?
それから、善意だから良いとかそういう議論は誰もしていないので、関係ない方向に話を逸らそうとしないようにお願いします。
> あなたが「自分が攻撃されている」と思い込んで
攻撃されているとは思っていません。だって、わたしの主張そのものに対する攻撃は一切ないんだもの。あなたの言うことは、全てわたしの主張をこうであると決めつけたり誤解した上で、わたしの主張とは何の関係ないものを攻撃しているだけ。わたしの主張とは何の関係もないので放っておいても構わないんですが、できたらわたしの主張を理解した上でそれについて意見を聞かせて欲しいので、こうやって「それは誤読・言いがかりである」と説明しているのですが。
2005/02/26 - 21:06:11 -
>これはわたしの持つ障害とも関係することですが、映画館が苦手であるとわたしが何度も言っているのに、どうしてそうやって無神経に「見に行け」とばかり言えるのでしょうか?
見ないで映画に対する評価として受け取られることを書いておいでだからです。あなたは「障害の専門家」として書いているから映画そのものへのクリティークにはならないと思っているのかも知れませんが、誰が書こうがその映画に対して評価を下している文章は、その映画に対するクリティークになるのです。そこの認識が甘いのです。
ただあなたの障害に関するものであるとは知りませんでした。その点については、知らなかったし知りようもないこととはいえ、いささか配慮が欠けていたことは謝ります。ごめんなさい。
>わたしは「個人の領域を侵害していないし、侵害するべきではない」という内容の文章を書いているのに、それを読んで「Macskaは個人の領域を侵害しているからおかしい」とあなたが反応するのは、偏執狂的ではないですか? それをいい加減理解してくださいな。
あなたが自分の主張とはまるで逆のことを書いているから、指摘しているのですが? まだ分からないのですか?
>> やっている側の意図はどうであれ、結果として作り手を侮蔑する行為にしかならないからですけど?
>
>自分たちの政治的主張と反対のものに抗議することが、どうして相手を侮辱することになるのですか?
映画のなかから自分たちの主張を展開するために都合のいい部分だけをあげつらっているからに決まってますが?
>それから、善意だから良いとかそういう議論は誰もしていないので、関係ない方向に話を逸らそうとしないようにお願いします。
あなたがしていいますよ。あなたは自分が引用した文章を書いた団体について書いたことを再読して下さい。で、それに対して僕はロマンチシズムのバイアスが違っているだけでパラフレーズにしかなってない、とすでに指摘して差し上げています。
>攻撃されているとは思っていません。
ほぉ。やせ我慢ですねぇ。ならばなぜ
…というような、通常考えられない誤読に基づいた倒錯したことを喚き立てるのでしょうか? あまりに下らないので無視して来ましたが。
>わたしの主張とは何の関係ないものを攻撃しているだけ
すべてあなたが書いたことに基づいていますよ。
> 何度も言う通りDVDが出たら観るので、それまで待ってください。
ですから、待ちますとずっと言ってます。あなたがこのページを立ち上げる前にすでに提案させて頂いてますよ。前の方のページのコメント26番に書いてありまして、日付は2/23/2005 @ 7:39 amです。
2005/02/26 - 21:44:18 -
> あなたは「障害の専門家」として書いているから映画そのものへのクリティーク
> にはならないと思っているのかも知れませんが、誰が書こうがその映画に対して
> 評価を下している文章は、その映画に対するクリティークになるのです。
だからですね、わたしがクリティークの対象としているのは、社会なのです。映画そのものの評価については他の人の評論を紹介・引用しつつ、そうした映画が受容され賞にノミネートされる「社会」に焦点を絞った批評を行っているつもりです。もっとも一カ所だけ言い過ぎた部分(社会に言及しているつもりが、文面上映画に対する評価として表現してしまったミス)は確かにあったので、その部分については早くから撤回しました。
自分が「障害の専門家」だから映画そのものへのクリティークにならないと思っているわけではありません。映画そのものへのクリティークではなく、社会へのクリティークを書いているとわたしは言っているのです。また、障害学理論をやっている者だとは言いましたが、専門家と言えるほどの専門ではないです。
> あなたが自分の主張とはまるで逆のことを書いているから、指摘しているのですが?
その「指摘」というのが、単なるあなたの誤読でしかないのです。
あるいは、わたしの表現力が貧しいのかもしれません。わたしの表現力の貧しさのために、誤読を招くような表現をしてしまったとしたら、それはすみませんでした。しかし、誤読であるとちゃんと説明した後になっても、例えば「Macskaは主人公の決断を否定している」みたいな、その時点では既に誤読であると判明したはずのことを繰り返すのは止めて欲しいです。
>> 自分たちの政治的主張と反対のものに抗議することが、どうして相手を侮辱することになるのですか?
>
> 映画のなかから自分たちの主張を展開するために都合のいい部分だけをあげつらっているからに決まってますが?
障害者運動の当事者であるドレイク氏らが、映画のなかから自分たちの主張を展開するために都合のいい部分だけをあげつらっているという決めつけはおかしいのではないですか? 現に、ドレイク氏の批判を全文読むと、わたしが紹介した部分以外にも、障害を持つ別の登場人物の描写・演出についても批判していますし、プロットが論理的におかしなところなども指摘しています。ドレイク氏の文章を読むと、映画全体を観た上で障害者運動の立場から批判の対象とすべきであるとドレイク氏が判断したことには非常に納得がいきます。
あなたが言うような「相手を侮辱すること」というのは、例えば映画の本質とは関係ない一瞬だけの描写や言葉遣いみたいなものを取り出してあげつらっている場合に当てはまることかもしれませんが、「自分たちの政治的主張と反対のものに抗議すること」自体が必ずしも「相手を侮辱すること」であるとは思えません。
>> それから、善意だから良いとかそういう議論は誰もしていないので、
>> 関係ない方向に話を逸らそうとしないようにお願いします。
>
> あなたがしていいますよ。
ほら、またわたしの発言を捏造していますね。言ってもいない事を言っていると決めつけられても、それはわたしの主張でもなんでもないので、反論のしようがありません。善意という言葉自体、あなたが唐突に持ち出したものでしょうが。
いいですか、わたしが言ったのは、わたしが見る限りドレイク氏は映画に対して本気で怒っているようであり、あなたが邪推したように、自分たちの運動を宣伝するのに丁度良い機会だから便乗してやろうと考えているようには到底見えない、ということです。彼が善意であるとか、だからそれが良いかどうかとか、そんな事は一言も言っていません。
じゃ、続きはDVDが発売されてからというコトで。
2005/02/26 - 22:11:03 -
>だからですね、わたしがクリティークの対象としているのは、社会なのです。映画そのものの評価については他の人の評論を紹介・引用しつつ、そうした映画が受容され賞にノミネートされる「社会」に焦点を絞った批評を行っているつもりです。
だから〜、では
ってのはなんなの? だいたい映画は社会の一部ですよ。
>あるいは、わたしの表現力が貧しいのかもしれません。わたしの表現力の貧しさのために、誤読を招くような表現をしてしまったとしたら、それはすみませんでした。
誤読なんてしてませんよ。あなたが書いたものが現にそう解釈されうるものであった、というだけです。それはあなた個人を知らないが故の「誤解」ではあるかも知れませんが、「誤読」などというのなら「あなたは何様のつもりですか?」ってことになってしまいます。
> しかし、誤読であるとちゃんと説明した後になっても、例えば「Macskaは主人公の決断を否定している」みたいな、その時点では既に誤読であると判明したはずのことを繰り返すのは止めて欲しいです。
あなたが僕が何度も引用して問うていることについて、ちゃんと説明してないからに決まってるじゃないですか。
これはあなたが、映画を見ていないが故にプロット自体すら知らなかったことを指摘された時の返答ですよ。どういう神経してるんですか?
> ほら、またわたしの発言を捏造していますね。
してませんよ。というか、また凝りもせず繰り返してますが…
>わたしが見る限りドレイク氏は映画に対して本気で怒っているようであり、あなたが邪推したように、自分たちの運動を宣伝するのに丁度良い機会だから便乗してやろうと考えているようには到底見えない、ということです。彼が善意であるとか、だからそれが良いかどうかとか、そんな事は一言も言っていません。
「本気で怒ってる」から、メジャーな映画を利用しているというのは邪推だ、っていうのがあなたの論旨でしょう。違いますか? 「本気で起ってる」かどうか自体を問題にしてないのが僕なんですけど。構図として利用していることになってるし、それを自覚してなかったら運動の主体が独善的であるだけですよ。まさかそんなことはないと思いますけどね。だからその部分のロマンチシズムを除けば、パラフレーズでしかありませんよ、って言っているんですが?
>じゃ、続きはDVDが発売されてからというコトで
はいはい…ってどうせまた文句つけてくるに決まってるけど(苦笑)。
2005/02/26 - 22:16:07 -
>見ないで映画に対する評価として受け取られることを書いておいでだからです。
突き詰めれば、水原さんが言っているのはこれだけなんだけど、一体何故それがいけないのでしょうか?
当然のことながら、視覚に「障害」を持つために映画自体を観れないという人は現にいます。でもその人は点字でシナリオは読めるかもしれません。
また、視覚に障害がなくても、何らかの理由で病室から出られないという人だって世の中にはいます。でもその人は、公式サイトでプロットを知ることは出来るかもしれません。
そのような人たちが、シナリオを元に、あるいはプロットを元に映画を論じたとして、別段何か問題があるのでしょうか? 「これはシナリオ(プロット)を元にした」ということが読み手に分かれば、別にこれといった問題はないでしょう。
それとも水原さんは、「観られない」境遇の人は一切映画についての論評・評価はしてはいけないという主旨を開陳したいのでしょうか。(実際そういうことになるわけですが。この辺の「健常者至上の差別意識」もものすごいですね。)
勿論、実際観てみるとその部分はそういう場面ではないよと、書き手の誤解を指摘することは全然あってよい。が、ここで水原さんがやっていることはその前段、「書くこと自体」への難癖です。
それって単に嫌がらせ・イチャモンの部類なのでは?
例えば、観ないで「肯定的」な評価が書かれていた場合でも、水原さんは今回と同じようなコメントをつけたのでしょうか?
2005/02/26 - 22:36:00 -
> そのような人たちが、シナリオを元に、あるいはプロットを元に映画を論じたとして、別段何か問題があるのでしょうか?
それじゃ「映画を論じたこと」にはならないからに決まってますが。
その意味では視覚障害者を最初から排除したメディアであるわけです。ではそれが差別であるかどうか、ってことになると極めて難しい問題になりますが、せめてその辺りから議論を起こすことはできないもんですかねぇ?
>それとも水原さんは、「観られない」境遇の人は一切映画についての論評・評価はしてはいけないという主旨を開陳したいのでしょうか。(実際そういうことになるわけですが。この辺の「健常者至上の差別意識」もものすごいですね。)
現に見えないんだからしょうがないでしょう?
これがどういう意味か、分かってます? 私があなたのオレ様ルール独裁掲示板(笑)で言及した「不便」というのも、そういう問題なんですが?
まあさっぱり分かってないと見えて差別意識の裏返しでしかない議論を展開していたのが横山様なわけですが。
2005/02/26 - 22:46:13 -
>まあさっぱり分かってないと見えて差別意識の裏返しでしかない議論を展開していたのが横山様なわけですが。
詳細はこちらをどうぞ。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?range=1&base=12481
あ、ちなみにあなたの俺様ルール独裁掲示板になぞ今後投稿する気はまったくありませんので、よろしく。
参考
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?range=100&base=12500
2005/02/26 - 23:04:51 -
>それじゃ「映画を論じたこと」にはならないからに決まってますが。
「これはシナリオ(プロット)を元にした」ということが読み手に分かれば、別にこれといった問題はない」と書いています。つまり各人の映画の論じ方など、別に一意にあなたが決められる問題ではないということ。
では聞きますが、「映画を論じる」とは一体どういうことですか?
(究極的には同時空間的にその映像を共有しない限り私は無理だと思うが?)
>その意味では視覚障害者を最初から排除したメディアであるわけです。ではそれが差別であるかどうか、ってことになると極めて難しい問題になりますが、せめてその辺りから議論を起こすことはできないもんですかねぇ?
話を逸らさないで下さい。
「視覚障害者を排除したメディア」「それが差別であるかどうか」なんて話題は私は一切していません。そうではなく、「観られない」境遇の人でも、プロットなりシナリオなりを元にその映画について語って(論評・評価)よい、それすら認めないというのは「差別的」だと言っているのです。
>現に見えないんだからしょうがないでしょう?
「現に見えない」ことは、その映画について語れる(論評・評価)自由を妨げる理由にはなりません。何様だよあんた。
それと、「他板」のことはここではどうでもいいです。(機を見てちゃんと批判すると既に宣言済み。)
あと、明確な質問をスルーしちゃう性癖は改められた方がよいのでは。
>例えば、観ないで「肯定的」な評価が書かれていた場合でも、水原さんは今回と同じようなコメントをつけたのでしょうか?
2005/02/26 - 23:09:49 -
macskaさん、返信ありがとうございます。
悪趣味だと言われるかもしれませんが、私はここで「Devil’s advocate」的な役回りを少し演じたいと思います^^;
> 特にリーブ氏については「障害を絶対に受け入れない、克服してみせる」と公に発言する
まず、この公言についてのソース(もちろん英文のまま)を具体的に教えていただけないでしょうか。
「絶対に受け入れない」という文言から受け取れるような、障害を持った生は否定的なものである、つまり生命の質としての優劣の判断を下したと受け取れるような公言を実際に彼は行なったのでしょうか?
「克服してみせる」についてですが、苦しいリハビリテーションや様々な医学的療法に精力的にチャレンジし、それを持続させていた彼の行動に照らし合わせて考えてみた時、私にはそれはほとんど違和感のない言葉として受け取れるのですが・・・。
事故や何かで障害を負ったほとんどの人は機能の回復を目指してリハビリに励むわけですし、その過程において、機能回復を果たしてみせる—その意味で「障害を克服してみせる」という動機づけのような意思表明があるのは自然なものだと思います。特に批判されるようなものではないと私には思えるのですが。
彼のリハビリや治療への取り組みによって見られた回復(彼の負った障害のレベルからすれば僅かとしか言えなかったでしょうが)は、医学的、科学的な予想をかなり越えたものだと言われています。それはある意味で健常者側である医療側に蔓延しているともいえる早期「受容」示唆や強要の問題点を公にしたものでもあったと思います。もちろん、そのような「克服してみせる」という姿勢が、障害を受容し新たな生活への道を踏み出している人への「途中で諦めた」などという批判や後ろ指を差すものにつながってはいけないと思いますが・・・。
macskaさんのリーブ氏に関する批判点は、そのようなことを意味しているのだと解釈しましたが、いかがでしょう?
> 障害者運動が訴えるのは、インペアメントの有無に関わらず社会参加を妨げられないような社会を作ろうということであり、インペアメント=身体的差異そのものを取り除くことで社会参加を実現しようとする言説には批判的なのです。
「ディスアビリティ」を取り除こうとする努力と「インペアメント」を取り除こうとする努力は並行して行ない得るものではありませんか?たしかに難しいとは思いますが。また私はその両立を目指すことが必要であり、可能であるとも思いますが、いかがでしょう?
それから、もしかしたらmacskaさんは、「インペアメント」を取り除こうとする努力への傾注は必然的というか、原理的に「ディスアビリティ」を取り除こうとする努力を軽視しその社会的意義や価値を見失わせるベクトルとして働くとお考えなのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、論理的に、そして出来れば具体的な実例をあげてそれを説明(論証)していただけないでしょうか。
> もちろん一番問題なのは彼の発言そのものではなく、彼の発言に便乗して「インペアメントの有無に関わらず社会参加できる世の中にしよう」という訴えを無視し続ける一般社会やメディアの方です。
「便乗」と「無視し続ける」の2点について、その論拠とそれら(「便乗」と「無視」)の度合いがどの程度のものであったか、もう少し実証的な説明(論証)がほしいところです。
> リーブ氏が障害を持つ以前から障害者運動というのはあるわけですが、彼はそうした運動や研究の蓄積を知らないまま、障害者のスポークスパーソンのように祭り上げられてしまった。その責任の大部分はもちろん彼をそのように扱った一般社会やメディアにある
彼の負うべき「責任」とは具体的にどのようなものがあるのでしょうか。私なりに箇条書き的に整理してみました。
・障害者運動や研究の蓄積を知らなかった
→ それを「責任」という言葉では批判できないと思う。
・障害者のスポークスパーソンのように祭り上げられてしまった
→ 功罪で言うなら「功」(障害者福祉向上の政策や予算の訴えとその効果)を無視できないし、トータルで見て「責任」という言葉で批判はできないと思う。
・彼自身もう少しそのことに自覚的であれば良かったと思います
→ この言い方なら同意できる。
> 水原さんへ
macskaさんとのやり取りに首を突っ込むつもりはありませんが、議論の本筋とは関係のないところで気になった点があったので、ちょっと口を挟ませてください。
> 苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば?
の発言なんですが、macskaさんが何度も「映画館が苦手」だと話しており、「これはわたしの持つ障害とも関係することですが」とまで公言されているのですから、この点は想像力を働かすことはできないでしょうか。論争でヒートしてくるのは理解できるのですが・・・・
2005/02/26 - 23:13:31 -
celineさん、こんにちは
>macskaさんが何度も「映画館が苦手」だと話しており、「これはわたしの持つ障害とも関係することですが」とまで公言されているのですから、
単に「映画館が苦手」だったら「甘ったれんな」でおしまいですが、「障害」が関連してるのならやむをえないですね。というわけで、「苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば?」は、障害に関わる理由であることを知る前の話です。
2005/02/26 - 23:22:35 -
>「これはシナリオ(プロット)を元にした」ということが読み手に分かれば、別にこれといった問題はない」と書いています。
それに基づいては「ロマンティックに美化」かどうかも判断できませんし、「に登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」とも言えません。ちなみに心理描写は当然ながら、シナリオだけでは読解できませんよ。
>「映画を論じる」とは一体どういうことですか?
映画そのものを論じることに決まってますが? シナリオなどで言語化が可能なのはそのごく一部に過ぎませんが?
>「視覚障害者を排除したメディア」「それが差別であるかどうか」なんて話題は私は一切していません。そうではなく、「観られない」境遇の人でも、プロットなりシナリオなりを元にその映画について語って(論評・評価)よい、それすら認めないというのは「差別的」だと言っているのです。
だからあなたは「不便」とか「インペアビリティ」とかをなんにも理解してないで、他人を貶めるために「差別」というレッテル貼りをしてるだけなんですよ。見ていない映画を論じられるわけがないでしょう? 視覚障害者は絵画だって見ることはできませんから、絵画それ自体を論じることはできませんよ。それは当然の「不便」でありやむを得ないことなのに、見ていないものを批判していいなんて特権を視覚障害者にのみ与えるのなら、そりゃ逆差別であり、ハンディキャップを負った人を「弱者」というステレオタイプでくくってその「弱者」を自分の自己満足のためだけに利用してることにしかなりませんな。
>「現に見えない」ことは、その映画について語れる(論評・評価)自由を妨げる理由にはなりません。何様だよあんた。
物理的に見えないのになにを論じるんですか? メチャクチャですな。倒錯もいいところ。私怨だけで投稿するとこういうバカを書くことになります。
無論見えなくても、その音響構造を論じることならできますし、シナリオを文学的テクストとして論じることもできます。でもね、それだけでは「心理描写」とか「美化」とか「ロマンティシズム」とか、映画なら映画がその手段の総体で表現していることを論ずることは、不可能なわけです。
つまり「不便」ってことがまったく分かってないのに、障害者の味方のフリをしてる自己満足野郎に過ぎない、ってこと。
2005/02/26 - 23:25:24 -
>「苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば?」は、障害に関わる理由であることを知る前の話です。
追記: 知らなかったとはいえ無神経なことを言ってしまったことはあらためて謝ります。DVDが出るまでお待ちしています。
2005/02/27 - 00:08:15 -
>それに基づいては「ロマンティックに美化」かどうかも判断できませんし、「に登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」とも言えません。ちなみに心理描写は当然ながら、シナリオだけでは読解できませんよ。
ここ、「一般論」が語られていることも読解出来ないのですか?
あなたが「それじゃ映画を論じたことにはならない」と言うから、各人各様の論じ方にまで容喙出来る権利などあろう筈がないという主旨で批判しているのです。
それでは、いい加減「映画についての論評は映画を観なければ一切してはならない」という根拠でも挙げて頂くよう、ここに要求しておきましょうか? あなたの信念・信仰以外に何かあるのであればね。
大体そんなものに他人が従う理由などないんですけど。
>>「映画を論じる」とは一体どういうことですか?
>映画そのものを論じることに決まってますが? シナリオなどで言語化が可能なのはそのごく一部に過ぎませんが?
ですから「映画そのものを論じる」とはどういうことでしょうか? もっと具体的にお願いします。「専門家」でしょ?
>だからあなたは「不便」とか「インペアビリティ」とかをなんにも理解してないで、他人を貶めるために「差別」というレッテル貼りをしてるだけなんですよ。見ていない映画を論じられるわけがないでしょう?
論じられるでしょう。プロットを元にしてもシナリオを元にしても。読み手はそれがプロットやシナリオを元にしたものであることを理解(了解)して読むんだから、何の問題があるのかと私はと問うています。で、何の問題があるのですか? お答え頂いてないのですが。
>視覚障害者は絵画だって見ることはできませんから、絵画それ自体を論じることはできませんよ。それは当然の「不便」でありやむを得ないことなのに、見ていないものを批判していいなんて特権を視覚障害者にのみ与えるのなら、そりゃ逆差別であり、ハンディキャップを負った人を「弱者」というステレオタイプでくくってその「弱者」を自分の自己満足のためだけに利用してることにしかなりませんな。
自己投影ですね。
本来「健常者・障害者」の問題じゃないんですよ。例に出したのは、やむを得ず観られないという人たちもいるのに、そういった人たちの表現の自由を制限するような主旨をあなたが書いているからです。
で、観られる人だって観る前に批判したって構わないでしょう。プロットを元にしてもシナリオを元にしても。何でいけないのでしょうか?
第三者が出来るのは、その批判内容に対して反批判することであり(そりゃどんどんやればいい)、決して「観る前に批判しちゃだめ」などという幼稚な言説ではない筈です。そういうのは普通イチャモンと言うのですね。
>物理的に見えないのになにを論じるんですか? メチャクチャですな。倒錯もいいところ。私怨だけで投稿するとこういうバカを書くことになります。
何を論じたっていいでしょう? ていうか書き手が何を論じたいかによるでしょう。
プロットから論じられること、シナリオから論じられること、可能性はいくらでもあります。唯一「映像表現」に関するもの以外はね。
視覚障害者にはそんな自由さえ許されないとでも言うのでしょうか?
>無論見えなくても、その音響構造を論じることならできますし、シナリオを文学的テクストとして論じることもできます。でもね、それだけでは「心理描写」とか「美化」とか「ロマンティシズム」とか、映画なら映画がその手段の総体で表現していることを論ずることは、不可能なわけです。
ですから、どんな立場の人でも、例外なく、映画は「総体」を論じなきゃいけないなどということがあるのですか? あなたの信念・信仰以外に何かあるのであれば、ちゃんとその根拠を挙げてから言って下さい。
つまり「不便」ってことがまったく分かってないのに、障害者の味方のフリをしてる自己満足野郎に過ぎない、ってこと。
はっきり言って「障害学」、何一つ理解してないですね。
これはそのうちきっちり批判してさし上げます。(と既に言っている。)
あと、明確な質問をスルーしちゃう性癖は改められた方がよいのでは。
>例えば、観ないで「肯定的」な評価が書かれていた場合でも、水原さんは今回と同じようなコメントをつけたのでしょうか?
2005/02/27 - 00:18:29 -
>それでは、いい加減「映画についての論評は映画を観なければ一切してはならない」という根拠でも挙げて頂くよう、ここに要求しておきましょうか?
すでにしてありますが? 見ていないものをどうやって論じるのですか?
メチャクチャですな。ホント、私怨だけで投稿するからこうなる。
2005/02/27 - 00:20:05 -
>本来「健常者・障害者」の問題じゃないんですよ。例に出したのは、やむを得ず観られないという人たちもいるのに、そういった人たちの表現の自由を制限するような主旨をあなたが書いているからです。
見てもいない作品について評価を下すのは、「表現の自由」ではなく単なる傲慢であり、それが否定的なものであれば無根拠な誹謗中傷です。オシマイ。
2005/02/27 - 00:21:21 -
>例えば、観ないで「肯定的」な評価が書かれていた場合でも、水原さんは今回と同じようなコメントをつけたのでしょうか?
誹謗中傷にはなりませんが、なにか?
2005/02/27 - 00:23:04 -
>あと、明確な質問をスルーしちゃう性癖は改められた方がよいのでは。
そりゃあんたのことでしょう(爆笑)。
2005/02/27 - 00:26:46 -
>ここ、「一般論」が語られていることも読解出来ないのですか?
読解できるわけがありません。一般論ではなくこのブログで出て来た特定の言論について語ってるんですが? 論点スリカエはおやめ下さい。
私怨で他人を貶めるためだけに投稿している人って、本当にみっともないですね。
masckaさんに迷惑なので、これ以上あなたのような倒錯野郎にここでレスをつけるのはやめます。もうしわけないですが
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain
こちらへどうぞ。
あとはmasckaさんがDVDでご覧になるまでお待ちします。アホ横山なんぞ相手にして混乱させてしまってすみませんでした。
2005/02/27 - 00:48:02 -
>すでにしてありますが? 見ていないものをどうやって論じるのですか?
ですから、どんな立場の人でも、例外なく、映画は(映像を含めた)「総体」を論じなきゃいけないなどということがあるのですか? あなたの信念・信仰以外に何かあるのであれば、ちゃんとその根拠を挙げてから言って下さい。
>見てもいない作品について評価を下すのは、「表現の自由」ではなく単なる傲慢であり、それが否定的なものであれば無根拠な誹謗中傷です。オシマイ。
何を言っているのか…。
プロットなりシナリオなりで「筋」自体が分かっているのであれば、その筋自体を批判することに何の問題があろうか。これが「表現の自由」でなくて何だというのだろう?この映画評論家とやらは。
要は、自分の好きな監督の好きな作品が批判されたことに単純にキレただけの話だわ。その証拠に「肯定的」な評価なら観てなくてもいいってんだから。
まぁそんなことだろうとは思っていたが、しかしここまで簡単に誘導にのるかねぇ普通。
>>あと、明確な質問をスルーしちゃう性癖は改められた方がよいのでは。
>
>そりゃあんたのことでしょう(爆笑)。
どこですか? 挙げてごらん?
結局最後は地金が剥がれて、印象操作に腐心すると。毎度のことだが…。
で、結局今回もこちらの問い質しはことごとく無視すると。
>読解できるわけがありません。一般論ではなくこのブログで出て来た特定の言論について語ってるんですが? 論点スリカエはおやめ下さい。
これが本当に読解出来なかったんだとすると、映画評論家なんて商売は務まらんと思うが。
>私怨で他人を貶めるためだけに投稿している人って、本当にみっともないですね。
「他板」のことをさんざん持ち込んだのはあなたですよ。「私怨」がどちらかは読んでいる人が容易に判断するでしょう。
>masckaさんに迷惑なので、これ以上あなたのような倒錯野郎にここでレスをつけるのはやめます。もうしわけないですが
さんざんMacskaさんにトンチンカンなレスつけて迷惑を与え続けてきた人が、最後にこういうことを言うかねぇ(笑)。
これも自己投影の一種なんでしょう。
水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
映画評論家の中には、こと映画が絡んでくると、すさまじく教条的な、そして本当に差別的な人がいることが分かったというのが唯一の収穫ですかね。
2005/02/27 - 07:50:26 -
> 水原さん
> 単に「映画館が苦手」だったら「甘ったれんな」でおしまいですが、「障害」が関連してるのならやむをえないですね。というわけで、「苦しい言い訳を続ける余裕があったら、早く見に行けば?」は、障害に関わる理由であることを知る前の話です。
私の言いたかったことは、「障害に関わる理由」云々にまで触れる発言の前に、「映画館が苦手」という言葉からちょっと想像力を働かせたり、理由をそれなりに聞くとかがあったのでは、ということなんです。
相手と話をしていて「映画館が苦手」、「バスや地下鉄が苦手」などと聞けば、私にはピンと感じるものがあります。もちろんこういう私の感じ方は「特殊」なんだろうと自覚していますから「こんな感性を共有できませんか」なんて言うのは圧力的で失礼なことだとは理解しています。
ただ、〔「映画館が苦手」だったら「甘ったれんな」〕という言い方はちょっとどうかなと思います。映画を見ていないことの理由に「映画館に行くのがめんどうだ。」なら「甘ったれんな」でしょうが・・・。それに〔やむをえない〕なんていう言い方になると、はたから見てもなんか攻撃的な物言いに聞こえます。
水原さんの書き込みを読ませていただくと、障害や差別の問題に確固としたご自分の意見を持っていらっしゃることが分かりますし、映画というそれこそ「表現の世界」に関わるお仕事をされているようなのでなおさらそれを感じたわけです、私としては。
2005/02/27 - 08:01:28 -
補足・・・
上に書いた「私にはピンと感じるもの」というのは、よく考えたら失礼な(勝手な憶測)物言いでmacskaの感情を害するものになっているかも知れません。
もし感情を害されたなら、どうかご容赦ください m(_ _)m
2005/02/27 - 08:07:07 -
今度は訂正です・・・・(-_-;)
macskaの感情→macskaさんの感情
ごめんなさい。
2005/02/27 - 21:18:04 -
>ただ、〔「映画館が苦手」だったら「甘ったれんな」〕という言い方はちょっとどうかなと思います。映画を見ていないことの理由に「映画館に行くのがめんどうだ。」なら「甘ったれんな」でしょうが・・・。
いえ、それだったら映画についての文章など書かなければいいということであり、映画に関する文章を書くのであったら見ておくのは当然の責任ですから、「苦手」だけではそりゃ無責任でしょう。
むろん「障害」があっても無責任なことには変わりないのですけれどね。そこから先は権利とか責任の問題ではなく、配慮とか心配り、気遣いの問題です。
>水原さんの書き込みを読ませていただくと、障害や差別の問題に確固としたご自分の意見を持っていらっしゃることが分かりますし、
いえ、まったくの常識的なことを言ってるだけですよ。「障害や差別の問題に」ことさら興味があるわけでもありません。興味があるのは人間がなにを選択するのかの問題ですし。
2005/02/27 - 21:50:05 -
>水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
アホ。自分の都合の悪いところをスルーするのは相変わらずだが、
って書いてあるだろうが(苦笑)。
というわけで続きはこちらです
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?range=1&base=12770
2005/02/27 - 21:50:44 -
celineさん、横レス失礼します。
>いえ、それだったら映画についての文章など書かなければいいということであり、映画に関する文章を書くのであったら見ておくのは当然の責任ですから、「苦手」だけではそりゃ無責任でしょう。
何度同じことを繰り返せば気が済むのですか?
観ていなくても、ある種の[映画に関する文章を書く]ことは出来るし、Macskaさんに限って言えば、さんざん「映画そのもの」(あなたの言葉で言う総体)についての論評ではないと言明されています。さんざん反駁されている主張を繰り返しぶつけるのは「無限ループ」と申しまして、そういう症状が出ている人には「冷静な議論など出来ない」というあなた自身の言葉もあります。結局これも「自己投影」なんですね。
みっともないのでいい加減やめて下さい。
>むろん「障害」があっても無責任なことには変わりないのですけれどね。そこから先は権利とか責任の問題ではなく、配慮とか心配り、気遣いの問題です。
「観ていない」という断りがあれば無責任でも何でもありません。読み手はそれを了解して読む以上、誤解の生じる余地もない。
あなたの信仰・信念までを他者におしつけるのは、いい加減やめて下さい。
>いえ、まったくの常識的なことを言ってるだけですよ。「障害や差別の問題に」ことさら興味があるわけでもありません。興味があるのは人間がなにを選択するのかの問題ですし。
「常識的」でないからこそMacskaさんも反論し、私も拘って反駁しているわけです。脳内にある「常識」とやらを他人にまで押しつけるのは迷惑ですのでやめて下さい。
2005/02/27 - 21:54:26 -
>って書いてあるだろうが(苦笑)。
どうしてあなたの「俺様ルール」(爆笑)に従わなきゃならないのでしょうか?
(つか、そんなこと一投稿にまとめろよ、連投アラシ野郎が。こっちまで二投稿になっちまったじゃねえか。)
2005/02/27 - 22:12:15 -
> どうしてあなたの「俺様ルール」(爆笑)に従わなきゃならないのでしょうか?
誰も従えなんて言うとりませんが? ただここで続けても無意味だから他所に移しますよ、って明言してあることに対して、
> >水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
って返答は日本語読めてないだろーが、って話。私ゃ「書かない」なんて書いてないのに、なんで「私も」になるんだよ(爆笑)。
2005/02/27 - 22:19:07 -
「ここでのやり取り」を、議論相手の承諾も無しに勝手に移すって言うんだから、そんなもの「俺様ルール」と言われても当たり前です。
> >水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
はあくまで「ここ」での話でしょ?
日本語読めてないのはどっちなのでしょうか。
ちなみに私の方は
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_index
にて続けております。
2005/02/27 - 22:25:49 -
>> >水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
って結局終わりにしてないなぁ(爆笑)。39番っていったい何よ? 僕が「常識」と言うとるのは「差別」とか「障害」の話であって、おたくの発狂した議論とは無関係なんだが、日本語読めないの?
> はあくまで「ここ」での話でしょ?
そんなことあなたはどこにも書いておいででありませんが? それどころか移行先のURLをわざわざ削除してるのはあんたなんだが?
> 日本語読めてないのはどっちなのでしょうか。
書いてないことを読めるか、っつーの。相変わらず物理的に不可能なことが分かってない阿呆。
>ちなみに私の方は
>http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_index
> にて続けております。
ああなに? わざわざあなたにお願いしないと書き込みできない掲示板で続けるわけ? 絶望的なエゴイストやね。わたしゃあなたにわざわざ「投稿させて下さい」なんてお願いする気がしないので、どうぞご勝手に。
2005/02/27 - 22:28:26 -
>Macskaさんに限って言えば、さんざん「映画そのもの」(あなたの言葉で言う総体)についての論評ではないと言明されています。
だから自分でその気がなくても結果としてそう読解されることを書いてしまっていることも説明済み。無限ループもいい加減にして下さいな…
続きはこちらへどうぞ
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12773&range=1
あなたに「お願い」しなくちゃいけない掲示板になんて、なんで俺が書き込まなくてはならないんだ?(爆笑)。
2005/02/27 - 22:35:14 -
>あなたに「お願い」しなくちゃいけない掲示板になんて、なんで俺が書き込まなくてはならないんだ?(爆笑)。
しかも今月の初旬にアク禁にされたし。物理的に書き込めず、その権利がないと表示されたんだから、サーバーの不都合であろうがなんだろうが、説明責任は権利者・主催者のあなたにあるのも当たり前・・・っていうのも、どうもわかってないらしい。
2005/02/28 - 00:28:02 -
横レス、失礼します。
>>いえ、まったくの常識的なことを言ってるだけですよ。「障害や差別の問題に」ことさら興味があるわけでもありません。興味があるのは人間がなにを選択するのかの問題ですし。
>「常識的」でないからこそMacskaさんも反論し、私も拘って反駁しているわけです。脳内にある「常識」とやらを他人にまで押しつけるのは迷惑ですのでやめて下さい
何が「常識的」かの判定は難しいのですが、「障害や差別の問題に対する一般的な(世間的な?)考え方」というのは、実は水原さんの様なものなのかもしれない、と思えます。
例えば
(NO.3:水原文人さんより)
> 社会としては最大限、バリアフリーなどで障害者の生活が不便でなくなるように努力する責任があります。
> これは当然のことです。
> でもそこから先、
> つまり外部からの働きかけとしてできる物理的な処置の先にある、
> 個々人の内面の問題に他者が介入するのは、
> それは個々人の人格を否定する不遜な行為にしかなりません。
ご存知の方も多いと思いますが、ホームに電車が入ってくる際「危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください」とアナウンスが入りますが、あの黄色い線は、視覚不自由者誘導ブロックという材料で、材料名の通り目の見えない人の誘導をする役目をしております。(この「視覚不自由者誘導ブロック」は、新しく作る大きな交差点では、必ず設置するように決められています。そういう意味では”物理的バリアフリー”は形としては進んでいる、と言えます)
アナウンスの内容を良く聞くまでもなく、視覚不自由者誘導ブロックは危険ラインの外側にあります。実際、転落した経験のある視覚不自由者の方はおられるそうです(職場で話題に上った際の、噂話程度の知識ですので、絶対的に正確ではないかもしれませんが)。
なぜ、危険ラインの外側に誘導ブロックがあるのか考えたのですが、そこの位置にないと今度は逆に電車に乗ること、が危険になるからだと思います。
転落者が多い、が事実だとすると、”物理的バリアフリー”を進めていったとしても”不便でなくなる”場合は出現します。
では、どうすればいいのかというと、誘導ブロックを安全側に設置し、電車が入ってきた時に、誰でもが視覚不自由者の方を、驚かせることなく誘導することが出来ること、が望ましいと思います。
ですが、実際にはそうなってはいません。これは「バリアフリー」=物理的な処置→そこまでしか外部からの働きかけは出来ないという考え方が、世間一般の考え方だからなのではないでしょうか。
つまり、
> 一方障害者の存在を社会として受け入れて共生しようという社会的な意志が欠けている。
(↑macskaさん「水原さんへお返事(映画「ミリオンダラー・ベイビー」ネタバレ」から引用)
状態が、現時点での「常識」なのではないですか?
2005/02/28 - 01:14:09 -
a thousand さん、こんにちは
>では、どうすればいいのかというと、誘導ブロックを安全側に設置し、電車が入ってきた時に、誰でもが視覚不自由者の方を、驚かせることなく誘導することが出来ること、が望ましいと思います。
そこも含めて物理的・身体的なサポートの範疇だと思いますが。四肢に障害がある人に対してでも、荷物を持ってあげるとかのサポートは誰にでも出来るはずであり、どんどんやればいいことではないでしょうか? ただ他者である我々が出来るのは、基本的にはそうした身体的・物理的なサポートどまりでしょう。精神的な励ましなどについては、やはりある程度親しいとか、ある種の関係性がないとできないことだと思います。もちろん礼儀として「お大事に」とか「頑張って下さい」とかの言葉はかけられますが、尊厳死を望んでいる人がどう決断するかは、結局人それぞれだと思います。
ただ法制度としての尊厳死の保証にも、いろいろ問題はあると思います。macskaさんがアメリカの運動家の方の文章を挙げて論じておいでのことが逆に、そこに「制度」として個人の尊厳を守ることの難しさを提示しているとも考えられますね。
外形的な事実としてはその通りです。しかし「ただ死ぬ」ことで個々人の尊厳が保証されるわけではないと思います。死を選ぶときに誰にそれを頼むのか、誰の手にかかって死ぬのかは、実は相当に大きな問題でしょう。
しかし制度として安楽死や尊厳死を保証する時には、やはり医師の手でなければいろいろ問題はおきます。法的なガイドラインとしていろいろクリアする条項を設けておかないと、殺人罪が成立してしまう可能性も大きいわけですし。
つまりここにも矛盾があります。社会制度としてなにかを確立したときに必ずそこからこぼれ落ちる個別例・個人をめぐる矛盾は生まれるでしょう。これはなにも障害者の問題に限ったことではありませんね。
それはともかく
> ですが、実際にはそうなってはいません。これは「バリアフリー」=物理的な処置→そこまでしか外部からの働きかけは出来ないという考え方が、世間一般の考え方だからなのではないでしょうか。
違うと思います。単に多くの人はできれば自分が面倒なことに関わりたくないだけだと思います。手助けくらいそんなに面倒ではないんだからやってもいいとは思いますが、たとえば駅の建物を完全にバリアフリーにしようと思うだけで、けっこうバカにならない経済的投資が必要となります。資本主義社会では効率性は主に金銭だけに換算されてしまうという特性を持っていますし。
しかし今の日本の場合、多くの人が手助けをしようとしないのは、別にただ物理的に面倒(手間が増える)だけではないのではないか、とも思えます。「情けは人のためならず」ということわざが随分誤解されている傾向がありますが、身体的な障害などで困っている人をごく普通に気の毒に思って手助けする、いわゆる「憐憫」を動機とする行為がその当事者を傷つけるのではないか、という配慮が、多くの人にはたらくようになっていることがあるのではないか、と考えられます。いわばそれが今の日本社会の「常識」になってしまっていることは否定できないと思います。現に「情けは人のためならず」がここまで誤解されているのですから。
しかも「かえってよくない」みたいに思えれば手助けをしない自分に罪悪感を抱かなくて済むわけですから、この理屈は実は健常者の側にどこまでも都合良く出来た「常識」である、とも言えます。
ひとつには出自に関する差別(人種差別・民族差別)や性差・性的志向に関する差別と、障害者に対する差別には現実的に大きな位相の差異が出て来ざるを得ないのに、「差別」に対するアレルギー的な心理が強すぎてそこを無視してしまう人が多すぎるようにも思います。相手が「朝鮮人」であることに哀れみを抱くなんてのは差別意識の裏返し以外のなにものにもならないのですが、たとえば盲人には目が見えないことは客観的な「障害」、というか不便さとして厳然としてあるわけですから、そのことについて不便さを気遣い出来るサポートをするのは、当然の良心の問題でしょう。ただ目が見えないからたとえば映画が見れないというのはどうしようもない現実であるとして、では映画が見られないから「不幸」かどうかなんてのは、人それぞれでしょう。映画が大好きだった人、それこそ映画監督が後天的に視力を失えばすさまじく不幸であろうことは理屈としては想像できますが、それだって本人がどうなのかと言えば小説家として再出発しちゃったりできる人もいるので、障害・不便さと幸福であるか不幸であるかは、決してイコールで結ぶことはできない。他人に手助けされてありがたく思い、人の心の温かさを感じる幸福もあれば、そこでプライドが傷つく不幸もあるのかも知れませんし。
まあアイリッシュでカトリックでボクサーをやってると言えば、後者のようなプライドを重んずる文化のなかにはあります。そうした文化ないし社会が障害者を不幸にすることもあるのかも知れませんが(一方でカトリックですからチャリティーの精神は重要な教義でもありますけれど)、そこでそれを一概に否定できるのか−−そうしたマチズモ的文化そのものは批判の対象になりますが、民族文化の尊重という次元の問題も出て来るし。一方であらゆる文化が、制約や抑圧や矛盾をはらんでいるというのもまた現実でしょうし、あらゆる文化の持つ倫理がその文化の現実のなかで齟齬を来たし矛盾を露呈し限界をさらけ出すものでもあります。理想化でも杓子定規な「正義」のおしつけでもなく、クリティカルな視点を持つ必要がありますが、クリティカルな視点もまた暴走すればその現実のなかで齟齬を来たし矛盾を露呈し限界をさらけ出すこともあるでしょう。
2005/02/28 - 03:43:56 -
>アホ。自分の都合の悪いところをスルーするのは相変わらずだが、
議論というのはこういう「印象操作」だけではだめなのです。「どこにスルーした箇所があるのか挙げてごらん?」と、私は既に書いています。
>って結局終わりにしてないなぁ(爆笑)。39番っていったい何よ? 僕が「常識」と言うとるのは「差別」とか「障害」の話であって、おたくの発狂した議論とは無関係なんだが、日本語読めないの?
[日本語読めないの]はそちらでしょう。
「(このスレッドに)水原さんが書かない限り、(このスレッドでは)私もこれで終わりにします」【A】という主旨なのは文脈上明らか。勿論他の人からのレスがつけば応対せざるを得ないわけだから、そのことについてはとやかく言いません。当たり前だけど。
ただその(他の人への)レス内容がとんでもなければ、そりゃ横レスはします。単にそれだけの話じゃないですか。ちゃんと読めば分かるでしょ、こんなこと。
>僕が「常識」と言うとるのは「差別」とか「障害」の話であって、おたくの発狂した議論とは無関係なんだが、日本語読めないの?
そんなものは「健常者社会」側が勝手に作り上げた幻想の常識であって、それを否定する障害者当事者・支援運動のたどり着いた地平が「障害学」なのです。で、「障害学」を通して見れば、あなたの言う常識とやらが、その常識観故にいかに「差別的」であるかが証明されるという構図なのです。
それは追々ちゃんと批判してあげると、もうしつこい位に何度も言っています。いい加減「健常者社会の視点」だけをもとに、「常識、常識」などと吹聴するのはやめて下さい。(無知故なんであまり非難も出来ませんが。)
>そんなことあなたはどこにも書いておいででありませんが? それどころか移行先のURLをわざわざ削除してるのはあんたなんだが?
>書いてないことを読めるか、っつーの。相変わらず物理的に不可能なことが分かってない阿呆。
【A】の文脈が読めないって、コレ↑本気で言ってるんですか? 頭悪過ぎるんじゃないでしょうか。これは私の責任ではありませんので、八つ当たりされても困ります。
(移行先のURLはあなた自身が紹介しているのだから、再度私が貼る必要なんてないんですけど…。わざわざ削除ってアンタ、被害妄想も大概にして下さい。)
>ああなに? わざわざあなたにお願いしないと書き込みできない掲示板で続けるわけ? 絶望的なエゴイストやね。わたしゃあなたにわざわざ「投稿させて下さい」なんてお願いする気がしないので、どうぞご勝手に。
少なくとも「嘘」だけはやめて頂きたい。
「わざわざ私にお願いなどしないでも、あなたは書き込み出来た」ではありませんか。つか、それでもう既に何投稿も、現にしてきたではありませんか。エゴイストなのは、反論に詰まった途端「アク禁をかけられた」などと根も葉もない嘘をばらまいているあなた自身でしょう。
「説明責任」が管理者の私にあることはその通り。但し、それは、メールなり、「移行板」(というのが用意されているのです)なりで「投稿出来ないが?」と、その時点で問い合わせがあった場合にのみ発生する責任です。
あなたはそんな確認一つせず、一方的に方々で「アク禁をかけられた」と吹聴しまくってきたわけです。(今もそうです。)
そんな人にどうやって常識的な説明責任が発生するというのでしょうか? 自己中もいい加減にして下さい。
>だから自分でその気がなくても結果としてそう読解されることを書いてしまっていることも説明済み。無限ループもいい加減にして下さいな…
だ、か、ら、[そう読解される]筈などないことをMacskaさんは既に説明しているのです。
そして、あなた自身が[DVDが出るまでお待ちしています](26や32) と言っているのです。なのに37で、またぞろ反駁された主張を繰り返しているから批判しているのです。(だからこそ私の39の冒頭は[何度同じことを繰り返せば気が済むのですか?]と始まっているのです。)
もう少しじっくりと、前後の流れを再確認してから書いたらどうでしょう? あなたは一事が万事この調子ですから。
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_index (継続BBS/横山分のみ提示 笑)
2005/02/28 - 04:01:58 -
>議論というのはこういう「印象操作」だけではだめなのです。「どこにスルーした箇所があるのか挙げてごらん?」と、私は既に書いています。
ですからどこをスルーしてるのかは書いてますが? 35番をご覧下さい。
付け加えるならばあなたは僕がmacskaさんを批判しているのがこのページの18番に引用してある部分であることを故意に無視して、勝手に「一般論だ」と吹聴したはてに無根拠に他人を差別主義者呼ばわりしておいでですね。
>「(このスレッドに)水原さんが書かない限り、(このスレッドでは)私もこれで終わりにします」【A】という主旨なのは文脈上明らか。
どこが? わざわざ引っ越し先のURLを含む
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain
こちらへどうぞ。
を削除した上で(つまり、恣意的印象操作)
>水原さんが書かない限り、私もこれで終わりにします。
と書いたのがあなたなんですが?
>「わざわざ私にお願いなどしないでも、あなたは書き込み出来た」ではありませんか。つか、それでもう既に何投稿も、現にしてきたではありませんか。
ええ。ところがすぐに投稿できなくなりました。で、そのことを批判したところ、おたくの忠犬らしきGBG氏から事細かな投稿規定の説明がありましたが、なにか?
おたくの投稿規定には確かに「わざわざあなたにお願いしないと書き込みできない掲示板」が明記してありますよ。
>だ、か、ら、[そう読解される]筈などないことをMacskaさんは既に説明しているのです。
「私はリベラリストだから」「障害学の理論と実践をやってるから」そんなこと書くはずはない、という以上のことは説明されていませんがなにか? 自分が自分のことをどういう人間だと思い込みたいかと、実際になにをやっているかが必ずしも一致しないのは当たり前。議論はテクストそのものにまずのっとって行われることも当たり前ですけど?
またオレ様ルールか…
2005/02/28 - 04:07:39 -
>そして、あなた自身が[DVDが出るまでお待ちしています](26や32) と言っているのです。なのに37で、またぞろ反駁された主張を繰り返しているから批判しているのです。
あのぉ、37はcelineさんへの返答として立場を一般論的に説明しただけなんですけれど? なにをヒステリックになっておいでなんでしょうか?
やっぱり私怨投稿者はダメだねぇ…
>もう少しじっくりと、前後の流れを再確認してから書いたらどうでしょう? あなたは一事が万事この調子ですから。
あのぉ、このMacskaさんのブログにおける議論の流れをまったく把握してないから、Celineさんに僕がただ説明しただけのことについて噛み付いてるのはあなたなんですけど?(笑)
まあ、アホ横山流ではアホ横山と意見が対立したとたんに「前後の流れを再確認」とか言い出すのが毎度のパターンなんですけどね。
2005/02/28 - 09:02:53 -
ところでMacskaさん、
>最近話題の屋外インストレーション「The Gates」を見ることができた。
うらやましい…。クリストのおっさんも毎回ワンパターンながらよくやりますね。今まで彼のインスタレーションは写真とフィルムでしか、見たことがないのが悲しい…
ご紹介のリンク先の写真では、今回使っているオレンジ色の布の質感はなかなか素敵ですね。
ただ写真で見る限りでは、作品としては「ドイツ帝国議事堂」だとかほどの迫力は、ないですね。もっとふんだんに布を使って、セントラルパークの西側の通り道がまったくの異世界に変貌するぐらいのことをやって欲しかった。
>背景に見える先週降った雪の残りと剥き出しになった土があまりにみすぼらしいので、もう少し暖かい季節だったら良かったのにと思った
…というのでは、ちょっと当て外れっぽいような…
++++++++++++++
…という上記の雑談にも、実は問題性はあります。現物ではなく縮小した写真から判断しているだけでは、本当のところの迫力は分からないからです。「見ずに批評」とまでは言えずとも、クリストの作品を批評しているのか、それを撮った写真を批評しているのかの境界が非常に曖昧になる。
で、その写真を見て「迫力がない」と言っているだけであって、実は写真の撮り方の問題であるかも知れないわけです。
無論、クリストのようなランドアート系のインスタレーションなどの現代アートの場合、表現のプレゼンテーションのあり方自体が現物を見せることだけではないという面が、コンセプトの一部として既に存在しています。現物でなく写真などで批評されることが当初から前提にされているのだから、写真だけで批評することが一概に否定できるわけではない。メディアにとりあげられること自体がこの種のコンセプチュアル・アートの表現手段のひとつでもあるのだし、ことご紹介のサイトは、クリストの公式サイトですし。
とは言うものの、やはりオレンジの布に囲まれて、その質感を至近で感じながらセントラルパークを歩いて行ける体感はできないので、このサイトだけを見てThe Gatesを「見た」ことになるのかどうかは非常に微妙。こと「迫力」の問題で論ずるのには、相当に無理がある。「見てないじゃん、あんた」でおしまいにされてしまう危険は常にあります。
理屈として布で日常的空間を非日常空間に作り替える/見慣れた光景が変貌する、というコンセプトは分かりますが、その表現としての力は、やはり写真などの二次的情報から想像するしかなくなってしまうわけですよね。
++++++++++++++
それはともかく、一度生で見たいクリスト。う ら や ま し い。
東京タワーか国会議事堂を布でくるんでくれないかなぁ…
2005/02/28 - 09:20:27 -
サイトには…
> To experience the artwork, one immerses oneself into that environment.
と書いてある…。やっぱり現物を見ないと本当には分からない…
2005/02/28 - 12:07:24 -
> 水原さん
>> ただ、〔「映画館が苦手」だったら「甘ったれんな」〕という言い方はちょっとどうかなと思います。
> いえ、それだったら映画についての文章など書かなければいいということであり、映画に関する文章を書くのであったら見ておくのは当然の責任ですから、「苦手」だけではそりゃ無責任でしょう。
水原さんのご意見が「映画を観ないで映画について(関して)語る(評論する)のは傲慢であり、無責任である。」ということは充分承知しております。その点については横山さんのご意見とどちらが妥当であるか私にとって判断しかねるところがあるのですが、いずれにせよそれらの意見の当否とは別なところで、「甘ったれんな」が「映画館が苦手」と言明したことそのものに対する非難の物言いになっていたので「ちょっとどうかなと思います。」と書いたのです。
macskaさんの文章をちゃんと読めば、「映画館が苦手」を「映画は観る気がない」のエクスキューズにしているわけではないことは充分わかることですし、「ビデオが出たら観ようと思います」ともお書きになっているのですから、ふつうは、いきなり「甘ったれんな」と返すのではなくて「どうして映画館が苦手なの?」ぐらいの話になるんではないかということです。
今回の水原さんの初めの頃の文章から察すると、あなたは「映画館が苦手」の発言を「映画は観る気がない」もしくは「観ていないが、映画についての文章は書く」ということへのエクスキューズにしている(しようとしている)と頭から思い込まれたように私には見えます。そして議論を優勢に進めるための非難材料に仕立てることだけに目がいったようにも見えるんですね。(←これ、「邪推だ」と言われるとは思いますが^^;)
> むろん「障害」があっても無責任なことには変わりないのですけれどね。そこから先は権利とか責任の問題ではなく、配慮とか心配り、気遣いの問題です。
ですから、「観るつもりはないけど書く」というのであれば無責任だと言えるでしょうが、エクスキューズとして使ったのではない「映画館が苦手」という発言に対していきなり「甘ったれるな」や「無責任」をぶつけるのは、ちょっとどうかな、それこそ「配慮とか心配り、気遣いの問題」ではないでしょうかというのが私が最初にお話した主旨なのです。
>> 水原さんの書き込みを読ませていただくと、障害や差別の問題に確固としたご自分の意見を持っていらっしゃることが分かりますし、
> いえ、まったくの常識的なことを言ってるだけですよ。「障害や差別の問題に」ことさら興味があるわけでもありません。興味があるのは人間がなにを選択するのかの問題ですし。
なぜ文章が「いえ」で始まるのか、ちょっとピンときません。
あなたの書き込みを読んで「自分の考えに確信というか信念を持っているように感じた」という旨を書いたのであって、考えが方が「常識的」なのかどうかに触れたわけではありません。ですから、私の文章に対して否定の「いえ」から始まるご返事では「障害や差別の問題に関する意見については私は自信、信念がない」と受け取られてしまいますよ(笑)。
あっ、分かりました。これって謙遜の言い回しなんですね?
でも、そういう「応答の仕方」って無意識に出てくる癖みたいなもので、ご自身ではそれ(謙遜になっていること)にお気づきになっていない場合が多いのかも。
(心理分析的に言うと、謙遜の文を書きたいけれど、それがあからさまに見えるのはプライドが許さないから、つい「いえ」で始めてしまうっていうことかな^^;)
#3、4日ほど留守しますのでレスをいただいてもお返事は遅れるかと思いますので、よろしく。
2005/02/28 - 12:27:34 -
>ええ。ところがすぐに投稿できなくなりました。で、そのことを批判したところ、おたくの忠犬らしきGBG氏から事細かな投稿規定の説明がありましたが、なにか?
「事細かな」投稿規定の説明って、これのことですか? 全然「事細か」じゃないんですけど。きわめてシンプル。
「投稿希望の旨」を先ずお伝えください。追って「投稿可設定」に入ります。」
何でこれが「事細か」なんですか?(爆笑) たいした手間じゃないでしょう(しかも最近は水原さんだけはこの手続きを踏まずとも、それまで何回も投稿できていたわけです。あなたからみたら「忠犬」である私なんか、一度ならず二度もはねられました(笑)水原さんVIP扱い(笑)
投稿はねられたらまず、サーバーの不調の可能性を疑う。それでもダメなら、流転板の場合、移行板があるから、そこでその旨伝える。それでも改善されなければ再度訴えるなり抗議する。この手順を追わないかぎり、(仮にアク禁かけられたのが事実だとしても)「説得力がないんですよ」ってさんざん申し上げたのです。
確かにその部分=パブリックな説得力をもつような手順については「事細か」に説明しました。水原さんは「パブリック」ってことばを良く用いるので、そのあたりを中心にお話すれば話がスムーズにいくと思ったもので。だって、こんなこと、立場性とか見解の相違とかと関係ないでしょ。時系列の問題なんだから。パブリックということのひとつは、見解の相違がある相手と共生するルールで合意を形成するってことなんですから。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12416&range=1
>>現に私は2月6日夜に投稿しようとして投稿できませんした。アク禁にされたと解釈して当たり前でしょう?
>それを言うなら私もそうですよ。一度投稿しようとしてできませんでした。そういう時は移行板で、申請すればよかったんですよ。それで私はできましたよ。私以外にもここ数日で何人かいますが。それもしなかったわけでしょう?
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12439&range=1
>ちょっと面倒だけど、それくらいするのが人様の掲示板におじゃまする側のの「パブリック・マインド」なんじゃないの?
>(要するに一回投稿できなかったくらいで、、、、サーバーのトラブルとかあらゆる可能性も考慮せず早合点した、、、がもっとも好意的解釈。そうだとしても決め付けに走った時点でもうアウト。あるいは逃げる口実ができたと喜んだのかな。人にはさんざん煽って返信をセカしておいて、、自分はだんまりだもんなあ、そんな「水原公」ルールがパブリックだっていうんなら、そんなパブロフの、、じゃなかったパブリックなんざいらんわ。)
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12450&range=1
>>>(要するに一回投稿できなかったくらいで、、、、サーバーのトラブルとかあらゆる可能性も考慮せず早合点した、、、がもっとも好意的解釈。
>>
>> そうかも知れませんね。それならばそう説明すればいいだけの話なのに、掲示板主催者たるものが「あんなのは典型的な遁走の常套句」なんて感情的罵倒に走ってるんだから、
>>
>あれあれ、もしも時系列が正しくないならすり替えですよ。(仮定ね、あくまでも)
>水原さんが先にアク禁された、と言ったのではないですか?(違うなら確かに罵倒ですね。)
>つうか、早合点はあなたのせいであって、横山さんのせいじゃないでしょ。説明責任はこの場合横山さんにないでしょ。投稿する側が投稿規程を読む責任があるんですよ。これがパブリックマインド。甘ったれんじゃないよ、まったく(笑)
でこれに対する水原さんの返答が、↓
>まずアク禁にされたから、アク禁にされたと言っただけですけど?
でした。だからその証明をしてくださいって言っているのに、、、
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12462&range=1
>> そりゃ噛み合うわけないでしょう?万物流転の忠犬が必死で自分たち(ってそんなふうに自分の所属集団を想定する心理自体が、不気味なわけだが)の都合を吠え立てているだけなんですから
>>
>いやいやいや、そういうに飛躍しないように。とくに↑の( )の中、主語不明。もっと基本的な話なんですから。
>Q「されたとなぜいえる」
>A「されたからだ」
>
>こういうのは、パブリックな効力を持つ議論ではないでしょ。
>時系列的に、水原さんが「アク禁にされた」とどっかの掲示板に書き込んだのと、横山さんが「アク禁などとデマを撒き散らすな」と言ったのとどっちが先なのよ?
>挙証責任はあなたの側にあるでしょ。
>そういう手間を省いて決め付けることで「議論」になってるって思い込んじゃうほうが、自分の所属集団にしか通用しない非パブリックなメンタリティーなんですよ。
>>アク禁は僕の誤解かも知れませんが、誤解なら誤解だといえばいいのに、「あんなのは典型的な遁走の常套句。あれがROMに信じて貰えると「本気で思っている」んだとしたら、ちょっと救いようのない馬鹿。
>ってことはやっぱりあなたが先に誤解して、アク禁だって言いふらしたわけね。だったらやっぱりあなた甘ったれだわ。パブリックマインドの欠如。
http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12500&range=100
>> 時系列的に、水原さんが「アク禁にされた」とどっかの掲示板に書き込んだのと、横山さんが「アク禁などとデマを撒き散らすな」と言ったのとどっちが先なのよ?
>僕が先に決まってますが?
・・・つまり、何らかの事情で投稿がはねられて早合点して、一方的に被害妄想に走ったか、あるいは投稿そのものをせず、はねられたフリをして逃げた水原さんが、「アク禁にされた」とどっかの掲示板に書き込んだ。で、その後で、横山さんが、「アク禁などとデマを撒き散らすな」と警告した。
ただそれだけのことなんですがね。
それともうひとつ、水原さんあなたは、こともあろうに
「macskaさんが、『ビデオで見るかもしれないけど、犯罪である海賊版でいいや』というふうに事実上そう言っていると受け取られてもしょうがない発言」をしたと『吹聴』していますね。
いいかげんにしてくださいね。
http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_plain?base=2884&range=1
2005/03/01 - 03:49:00 -
>ですからどこをスルーしてるのかは書いてますが? 35番をご覧下さい。
見ましたけど…、35番のどこにあるのですか?(笑) 次回お願いします。
>付け加えるならばあなたは僕がmacskaさんを批判しているのがこのページの18番に引用してある部分であることを故意に無視して、勝手に「一般論だ」と吹聴したはてに無根拠に他人を差別主義者呼ばわりしておいでですね。
無視してませんよ。Macskaさんの文章が、「観た上」でのものであったのならいいわけでしょう? それって結局、私が一番最初に書いた、
>>見ないで映画に対する評価として受け取られることを書いておいでだからです。
>突き詰めれば、水原さんが言っているのはこれだけなんだけど、一体何故それがいけないのでしょうか?
ってことでしょう?
ちなみにMacskaさんは、[仮に観ていても文章の内容が変わっていたとは思えない]と述べていますね。
読者(私も)が混乱しますので、ここで一旦確認しておきましょう。
あくまで「未見が問題なのである」という理解でよいですか?
他にもあるのならそれも述べておいて下さい。但し「原文番号」を表示するのをお忘れなく。(あなたの場合、コロコロ言ってることが変わるという性癖がありますから、確認のために必ず原文Noを提示するように。)
>>「(このスレッドに)水原さんが書かない限り、(このスレッドでは)私もこれで終わりにします」【A】という主旨なのは文脈上明らか。
>どこが? わざわざ引っ越し先のURLを含む
>もうしわけないですが
>http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain
>こちらへどうぞ。
>を削除した上で(つまり、恣意的印象操作)
つまりこう↓書けばよかったのですか?(笑)
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>masckaさんに迷惑なので、これ以上あなたのような倒錯野郎にここでレスをつけるのはやめます。もうしわけないですが
>