障害者運動と映画「ミリオンダラー・ベイビー」(注意:ネタバレ全開)

2005年2月15日 - 9:38 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

映画評論家の町山智浩さんが日記で映画「ミリオンダラー・ベイビー」がテーマとするある社会的論争に関連して、「去年亡くなったハリウッド俳優の長年にわたる死闘」との関わりからアカデミー会員であるハリウッド業界人たちにとっては「投票しにくい」作品だろう、とコメントしている。でも、別の視点から見ると、映画が伝えるメッセージと、「去年亡くなったハリウッド俳優の長年にわたる死闘」が伝えるメッセージが正面から衝突しているというのは違うのではないかと感じたので、以下にちょっと書いてみる。なお、うちのサイトは映画紹介サイトではないのでネタバレ全開行くので、映画の筋を知りたくない人は以下は絶対に読まないように。

































…これだけスポイラーを入れとけば文句を言う人はいないかな。
わたしはまだ観ていないので町山さんの日記とCNNの記事を参考に紹介すると、この映画の主役はクリント・イーストウッドが演ずる年上のボクシングコーチと、その娘くらいの年齢ながら彼のもとでチャンピオンの座を目指すボクサー(ヒラリー・スワンク)。途中までは普通のスポーツドラマ風に話が進むのだけれど、そこで町山さんの言う「ショッキングな展開」、すなわちボクサーが首より下の全身を麻痺する重傷を受けてしまう。彼女は動けないまま生きるよりは死ぬことを希望し、悩み抜いた末コーチもそれに協力する。
町山さんは、この辺りの描写を以下のように評価している

この映画は映画としては傑作だ。
キャラクターの背景を丹念に描くことで主人公たちの選択を納得できるものにしている。
また主人公たちがカソリックであることで彼らの選択がより重いものになっている。
それにその選択を「正しかった」と断じてはいない。
主人公は「許されざる者」として十字架を背負う。
そして観客に議論の余地を残している。

映画を観ていないわたしとしては、なるほどそうなのかと思うしかないのだが、その先に町山さんが書いていることに少し引っかかるものを感じる。

これと同じ結末の映画は過去にもいくつかある。
しかし、それがなぜ、今、特に問題なのかというと、
当時と現在では科学の進歩によって状況が大きく変わったからだ。
今、なんとか耐え忍べば、何年か後には解決法が発見される可能性が出てきたのだ。
特にアカデミー賞はハリウッドの俳優や職員たちの投票による「内輪の賞」だ。
この映画は、去年亡くなったハリウッド俳優の長年にわたる死闘を無にするような主張だとも考えられるので、ハリウッドの人たちは投票しにくいだろう。

言うまでもないが、ここで町山さんの言う「去年亡くなったハリウッド俳優」とは、映画中のボクサーと同じように1995年の事故によって脊髄を損傷して身体麻痺になったクリストファー・リーブ氏のことだろう。リーブは麻痺になったあと、財団を作って麻痺に関する医学研究を強力に後押しするとともに、強靭な意志と努力で障害を克服しようとする姿勢を常に保ち続けたが、昨年10月に感染症で亡くなった。
ところで、世間では「障害者のスーパーヒーロー」的に見られがちなリーブ氏だが、障害者運動・障害学研究の当事者の中では(彼の功績も認めつつも)彼に対する批判がかなり根強い。なぜかというと、リーブ氏のように障害を絶対に受け入れずに医療技術や意志と努力で克服しようとするのも、映画のキャラクタたちが結論付けたように「障害を持って生きるくらいなら死ぬ方がマシだ」と考えるのも、「障害のある人生には価値が無い」(だから、障害は克服するか、それができなければ死ぬしかない)という点では共振しているからだ。そこには、障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方はない。
障害者運動や障害学研究が目指すのは、医学技術革新によって障害を取り除くことではない。目指すべきは、障害があろうとなかろうと、尊厳あり充実した生活をおくれるような社会を実現することである。もちろん、かれらは医療の進歩に反対するわけではないし、麻痺していた身体が自由に動かせるようになるならそれはそれで良いことだと考えている。しかし、障害者運動がより深刻な問題であると考えるのは、身体的な不自由さそのものではなく、それを「なんとか耐え忍」ばなければいけないほど障害を抱えて生きることが辛いような今の社会のあり方である。リーブ氏が「障害者に夢を与える」というのは話が逆であり、そもそもそうした「夢」にすがらざるを得ないような状況に障害者たちが置かれている現状こそが不正義なのだ。
今回、この映画の内容に抗議している集団には2つの層がある。メディアで目立つのは宗教右派勢力であり、彼らは妊娠中絶だけでなく尊厳死とか自殺というものを認めない立場だから、こうした映画にも批判的なのは分かる(それにしても、「プロ・ライフ」と言うのであれば、死刑制度や戦争にももうちょっと批判的になるべきではないか?)。そしてそれとは別にこの映画に反対しているもう1つの集団が、障害者運動の団体だ。宗教右派と障害者運動が連携することはあまり多くないのだけれど、優生学反対・医師による自殺幇助反対といった文脈では両者の主張が(表面上)一致する。
ここオレゴン州では、全米で唯一、死を希望する患者に対して医師が自殺を幇助することが法的に認められている。この法律は「Death With Dignity Act(尊厳ある死法)」と呼ばれているが、住民投票になったときには宗教右派だけでなく障害者運動による強力な反対運動が起きた。障害者運動の主張は、障害者の多くが貧困や偏見や社会的孤立や施設による虐待で苦しんでいて「尊厳ある生」を送る権利が保証されていないというのに、死を選ぶ権利だけ押し付けるとは何事かというものだ。あるいは、ある全身麻痺の人の話を聞くと、その人が最近感染症で3日ほど入院した際、複数の医者や看護士から「もしもの事があれば延命治療を求めるかどうか」と何度も繰り返し聞かれたという。
無意識的にではあるが、「重い障害を抱えての生には価値がない」という感性はかなり多くの人たちに共有されている。だからこそ、まったくの善意で「延命治療はいらないですよね」と何度も問いつめてしまうのであり、「重い障害に苦しむ人たちのために」という理由で「死を選ぶ権利」が実現したりする。わたしは、リベラリストとして元来「尊厳ある死法」に賛成する立場だったのだが、障害者運動による反対論をじっくり聞いた結果、「死を選ぶ権利」以上に「尊厳ある生を選ぶ権利」をまず充実させるべきだと気付いた。
今回の映画について、障害者運動の立場から辛辣に批判している論評は、Ragged Edge Online に載っている。 Ragged Edge というのは障害者運動の様々な視点が載った雑誌であり、論評の著者スティーヴ・ドレイク氏は「Not Dead Yet(まだ死んじゃいないよ!)」という団体のアナリストだ。彼は、この映画を以下のように評価する:

This movie is a corny, melodramatic assault on people with disabilities. It plays out killing as a romantic fantasy and gives emotional life to the “better dead than disabled” mindset lurking in the heart of the typical (read: nondisabled) audience member.
[…]
These films don’t reflect the typical disability experience, which, for most of us, is just the experience of living our lives. Books and movies about our simple struggle to live life in an oppressive society receive little notice from the public, press or critics. It’s only when a disabled person, real or fictional, says they want to die that the movie becomes a hit, the book a bestseller.

「障害のある生は価値が無い生」という考え方が心の底では広く共有されるなか、障害者たちが精一杯生きようとして日々突き当たる様々な困難をそのまま描くような映画や本はヒットしない。障害者が死を希望するようになって、はじめて障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
たかが映画とは言えない。というのも、この映画を自ら監督したクリント・イーストウッドは、2000年に障害者がかれらを差別した施設を訴える権利を大幅に制限する法律を支持する立場からテレビのトーク番組に次々出演したり、連邦下院で証言までしている「反・障害者の権利」の論客なのだ。米国では、一定以上の規模のレストランや劇場などの公に開かれた施設に対して、建物の段差を無くしたり盲導犬が入るのを認めるなどして障害者の利用を可能にするような義務が課せられている(ただし、建物が古い場合など例外もあり)が、イーストウッドは「差別的待遇を受けた障害者は、施設に対して問題を指摘してから90日間の是正期間を与えた後でなければ訴えてはいけない」という法改正を推進した。彼がこうした立場を取ったのは、イーストウッド氏自身が所有するホテルが障害者によって訴えられたことがきっかけらしいが、障害者の権利を定めた法律が成立してから当時で既に10年も経っていたのだから是正期間はそれで十分だったはずだ。
町山さんの日記によると、この映画のストーリー展開についてイーストウッドは「原作の小説に従っただけ」と言っているという。しかし、監督としてどの小説を映画化するかを選んだのはイーストウッド自身なのだから説明とはなっていない。もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない。(まぁ、ここまで書いた以上、ビデオが出たら一応観る予定です。)
この映画の問題は、町山さんが言うような「同じ状況に置かれながら戦っている人やその家族の意志を挫くことにもなりかねない」などということではない。「障害のある生は価値がない」ことを暗黙の前提とした上で、「スワンクのキャラクタのように死を選ぶか、それともリーブのように障害を克服することを信じて耐えるか」という設問を設定することで、障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ。そりゃもちろん体が麻痺しているよりは自由に動く方が便利だろうが、麻痺しているからといって尊厳ある充実した生が送れないというのは間違いであり、現実的に多くの障害者が尊厳ある充実した生を送れていないとすると、それは社会的な不公正の問題であると考えるのが、障害者運動・障害学研究の見知である。

66 Responses - “障害者運動と映画「ミリオンダラー・ベイビー」(注意:ネタバレ全開)”

  1. ryu2net Says:

    実際の映画では、「価値ある生き方もできる」と何度も説得が試みられるけれども、あくまで「尊厳ある生き方(死に方)を選ぶ」という、シークエンスがあります。そこを見る前に、「この映画の問題」と断じるのはいささか早まりすぎだと思います。

  2. Macska Says:

    コメントありがとうございます。
    なるほど、映画そのものの問題ではなく、観客の感性の方の問題なのかも。
    町山さんだけじゃなくて、いろいろな人の評論を読んでみても、
    「尊厳ある生」に触れられているものがないように思うので…
    というか、触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任。
    社会が障害者から「尊厳」を奪っているからこそ、自ら望んだ死という選択に障害者が追い込まれているわけだし。
    わたし個人的に映画館は苦手なのですが、ビデオが出たら観ようと思います。
    # そこらの路上で既に海賊版 DVD 売ってたりするけど(笑)

  3. 水原文人 Says:

    はじめまして。いきなり厳しいことを言うようで申し訳ないんですが、
    いやだからですね、実際の映画を見ずに論じること自体がえらく問題であってですね、「この映画を自ら監督したクリント・イーストウッドは、2000年に障害者がかれらを差別した施設を訴える権利を大幅に制限する法律を支持する立場からテレビのトーク番組に次々出演したり」なんてのも言いがかりの魔女狩りにしかならないんですが、それはともかく…
    >触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任。
    一般論と個人の選択を混同されておいでですよ。
    この映画のヒロインはボクサーであることに自分の人生を賭けているんですから、
    そのボクシングができなくなるのであれば、死を選ぶというのも彼女の選択でしょう。
    社会としては最大限、バリアフリーなどで障害者の生活が不便でなくなるように努力する責任があります。
    これは当然のことです。
    でもそこから先、
    つまり外部からの働きかけとしてできる物理的な処置の先にある、
    個々人の内面の問題に他者が介入するのは、
    それは個々人の人格を否定する不遜な行為にしかなりません。
    障害を抱えて生きることに意味を見いだす人も、
    その方が返って幸福であることに気づく人すら、いるでしょう。
    でも、そうでない人もまたいるのです。
    映画ってのはプロパガンダの手段では、本来ありません。
    ただありのままの人間を描くことが、
    映画というメディアの最大の投企です。
    自分の気に入ったメッセージでないからって、
    そもそもイーストウッドの映画は
    そんな単純なメッセージに関するものでなく、
    矛盾した人間の存在を見つめるものなのですが…
    『許されざる者』にしても、『ミスティック・リバー』にしても
    単純なメッセージなんてどこにもありませんよ。
    障害者に障害があること、
    つまりその点では一定の不便さがあることだけは、
    厳然たる事実です。
    でもそんなこと言ったら、一般に障害者とはみなされていない近眼だって、
    眼鏡やコンタクトがなければえらく不便だ、
    といった程度の話でしかありませんが(笑)。
    どっちにしろ人間はなんらかの不便、
    ハンディキャップをそれぞれ抱えているわけで、
    それとどう向き合って生きるのかどうかは、
    個々人の道徳観に基づく複雑でデリケートな問題であるはずです。
    そこを見るのを忘れておいでではありませんか?
    > 社会が障害者から「尊厳」を奪っているからこそ、自ら望んだ死という選択
    この場合はそうであるのかどうか、極めて微妙でしょう。
    もちろんボクシングの世界というのもひとつの「社会」ではあるわけですが、
    その社会を選択すること自体がすでに、
    彼女の個人的な内面の自由の問題でしかありません。
    …というか、ひとつの目標だけを信じて生きるという生き方と
    その挫折・幻滅がテーマである映画に対する評論としては、
    町山氏も含めてずいぶん曲解ではありますが。
    むろん曲解する自由も含めて、作品の解釈は観客の自由に任されています。
    が、それはあくまで「観客」の自由です。
    見ていない人がとやかくいうこと自体が極めて傲慢であることは、
    もちろんじゅうじゅうご承知ではあるとは思いますが、警告しておきます。

  4. macska Says:

    > いやだからですね、実際の映画を見ずに論じること自体がえらく問題であってですね
    だから、できるだけ観なくても分かる部分だけ論じているつもりです。
    既に明らかになっているプロットだとか、そういったところですね。
    観ないと絶対分からない部分については、論じていないつもりです。
    もちろん、プロットや紹介文や映画評論を読むのと、
    実際に映画を観て自分なりにプロットをつかみ取るのとでは違いますから、
    実際に観た結果、言う事が変わる可能性もありますが、
    映画そのものを観なければ何も言えないという事はないと思います。
    「この映画の問題は〜」と書いた部分については、ryu2net さんの言う通り言い過ぎたと思いますが。
    > この映画のヒロインはボクサーであることに自分の人生を賭けているんですから、
    > そのボクシングができなくなるのであれば、死を選ぶというのも彼女の選択でしょう。
    彼女の選択を否定した覚えはありませんが。
    わたしが問題にしているのは、彼女の選択ではなくて、
    そういった選択の物語を消費する社会の方です。
    > 見ていない人がとやかくいうこと自体が極めて傲慢であることは、
    > もちろんじゅうじゅうご承知ではあるとは思いますが、警告しておきます。
    上記の通り、言い過ぎた部分・傲慢な部分はありました。
    でもね、わたしの言っていることの大半は、映画についての論評ではないんだけど。

  5. 水原文人 Says:

    >既に明らかになっているプロットだとか、そういったところですね。
    > 観ないと絶対分からない部分については、論じていないつもりです。
    だからそれが傲慢なんですよ。
    そのプロットをどう描くのかの演出によって、
    そこから読み出される意味はまったく違うのですから。
    演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映画というメディアです。
    > 映画そのものを観なければ何も言えないという事はないと思います。
    それだったらそもそも映画にする意味がありません。
    >彼女の選択を否定した覚えはありませんが。
    否定されてますが? 「覚えがある」かどうかではなく、実際に書かれていることしか問題にならないのですけれど?
    > わたしが問題にしているのは、彼女の選択ではなくて、
    > そういった選択の物語を消費する社会の方です。
    あの…。そもそも原作の小説も映画もフィクションなんですが?
    >でもね、わたしの言っていることの大半は、映画についての論評ではないんだけど。
    だったら映画についての論評として書かれるべきではないでしょう? あなたの文章の題名は、どうなってますか?
    障害者運動と映画「ミリオンダラー・ベイビー」(注意:ネタバレ全開)

  6. 水原文人 Says:

    たとえばね…
    >「障害のある生は価値が無い生」という考え方が心の底では広く共有されるなか、障害者たちが精一杯生きようとして日々突き当たる様々な困難をそのまま描くような映画や本はヒットしない。障害者が死を希望するようになって、はじめて障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
    そんなこたあないでしょう(笑)。尊厳死を選ぶなんて映画は、今のアメリカの政治風土からしてもタブーですよ。
    だいたいヒロインが死を選ぶなんてオチは暗すぎて、普通お金が出ません。イーストウッドという名前があるから映画化できたようなものです。
    障害者を扱った映画の大半は、まさに「障害者たちが精一杯生きようとして」いることをロマンティックかつ楽観的に美化したものですよ。『フォレストガンプ』とか『レインマン』もしかり。
    ただしそこからは「日々突き当たる様々な困難」が通常、丹念に排除されます。イーストウッドという名声(アカデミー賞監督)があるから、まさにそ「様々な困難をそのまま描」いた映画を作れるカネが出るわけです。その結果彼女が死を選ぶというのも、それこそ商業的には普通成立しません。ハッピーエンドではないから。
    で、『ミリオンダラー・ベイビー』はその選択をそのまんま、肯定も否定もせずに描いてます。むしろ演出の主眼は、そうなってしまったことに解消出来ない矛盾を抱えて悩むイーストウッド演ずるトレーナーに置かれてるんですが。

  7. 水原文人 Says:

    つまりですね、
    そもそも『ミリオンダラー・ベイビー』はボクシングというスポーツに生きる目的を見いだした人々についての映画なわけで、その夢が極めて苦い挫折に終わる。イーストウッド演ずるトレーナーは、結果として彼女を「殺す」ことになってしまった師匠という物語構造なわけです。
    それを最後のパートだけあげつらう運動家がいるのは、それはそのままアカデミー賞監督であるイーストウッドの監督・主演、しかもハリウッド・メジャーの製作で、つまり目立つから自分たちの運動を宣伝するのに好都合なターゲットだった、って部分が相当にあると思いますよ。
    それで個々の障害者が抱えている問題がどう解決されるのかって言えば、ほとんど関係ないのではないでしょうかね?

  8. Macska Says:

    > だからそれが傲慢なんですよ。
    プロットだけを元に、映画の善し悪しを論じるのは傲慢です。
    わたしの文章にはそういう部分が一カ所だけあったので、
    ryu2net さんの指摘を受けて傲慢であったと認めました。
    でも、既に明らかにされたプロットをもとに、
    そのプロット自体について話をするのは悪くないでしょう?
    そうしたプロットをどう演出するかについては、
    町山さんの論評を紹介しつつ、わたしは実際に観ていないので、
    なるほどそうなのか程度にしか意見できない、と言っていますよ。
    決して、観ていない部分について論評しているわけではありません。
    > 否定されてますが?
    してないってば。
    政治家じゃないんだから、「記憶にございません」とか誤摩化してるわけじゃなくて、
    本当に否定していないから「否定した覚えはない」と言っているんです。
    例えば彼女は生きるべきだったとか、彼女が生を選ぶストーリーにするべきだったとか、
    そんな事をわたしは一言も言っていません。
    > あの…。そもそも原作の小説も映画もフィクションなんですが?
    分かってますって。 あなただって、フィクションだということを了解したうえで、
    あえて物語中の「彼女の選択を否定するのかどうか」という話をしているんでしょ。
    > だったら映画についての論評として書かれるべきではないでしょう?
    映画についての論評として書いてはいません。
    この文章が「映画についての論評」であると読み取った人がいると知って、驚きました。
    いくらなんでも、観ていない映画について評論しようとするほど、わたしは傲慢ではありません。
    文章のタイトルがまずくて誤解の元となっているのでしたら、ごめんなさい。
    でも、簡潔かつ内容を適切に反影したタイトルを付けるのは結構難しいのです。
    > そもそも『ミリオンダラー・ベイビー』はボクシングというスポーツに生きる
    > 目的を見いだした人々についての映画なわけで、その夢が極めて苦い挫折に終
    > わる。イーストウッド演ずるトレーナーは、結果として彼女を「殺す」ことに
    > なってしまった師匠という物語構造なわけです。
    うん、そういう物語の映画だと了解しています。
    そういう制作者の意図とは別に、障害がその小道具として使われていることについて、
    またそれが現実の政治的な議論とリンクしていることについて、
    映画評論とは別の立場から論じるというのもアリだとわたしは思うのです。
    つまりですね、
    わたしは映画評論としてこの文章を書いたわけではないのに、
    あなたは映画評論であると思い込んで、傲慢だと批判されたわけです。
    もっとも、そうした誤解を呼んだ理由が、
    わたしの付けたタイトルのまずさであるなら、その点は恐縮です。
    別のタイトルに付け替えようかと思ったのですが、
    ここまで議論が進んでしまった以上、今のまま残すことにします。

  9. 水原文人 Says:

    > そのプロット自体について話をするのは悪くないでしょう?
    だからプロットだけで映画を論じられるのでしたら、映画を作る必要がないって既に申し上げてますが?
    少しは他人の話に聞く耳を持たれてはいかがですか?
    (繰り返し)
    そのプロットをどう描くのかの演出によって、
    そこから読み出される意味はまったく違うのですから。
    演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映画というメディアです。
    (繰り返し終了)
    >映画についての論評として書いてはいません。
    あなたは監督のイーストウッドの作品とは直接関係ない言動まで引っ張り出して、「魔女狩り」に終始しておいでですが?
    > いくらなんでも、観ていない映画について評論しようとするほど、わたしは傲慢ではありません。
    現にそうなさってますが?
    「障害のある生は価値が無い生」という考え方が心の底では広く共有されるなか、障害者たちが精一杯生きようとして日々突き当たる様々な困難をそのまま描くような映画や本はヒットしない。障害者が死を希望するようになって、はじめて障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
    ↑コレはあなたの言葉ですが?
    >そういう制作者の意図とは別に、障害がその小道具として使われていることについて、
    その「障害」を特別視する視点って、なんとかなりませんか? ボクシングの世界では、俗にいう「パンチドランカー」という症状とか、当たりどころが悪くて半身不随なんてことは、かなりよくあることなんですが?
    この映画は(そして原作の小説も)ボクシングの話なんですが? ボクサーに当然起こりうることが「小道具」ですか。あきれ果てる傲慢さですね。

  10. 水原文人 Says:

    つまりですねぇ、
    >そのプロットをどう描くのかの演出によって、
    >そこから読み出される意味はまったく違うのですから。
    >
    >演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映画というメディアです。
    …であるのに、なぜ
    >障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
    …と言えるんですか? どのように演出されているのかを見ないで、なぜ「ロマンチック」と決めつけられるんですか? そもそも「障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つ」ってのは、立派に映画の論評になっているんですが?
    で、再度ここを繰り返しておきます。
    >最後のパートだけあげつらう運動家がいるのは、それはそのままアカデミー賞監督であるイーストウッドの監督・主演、しかもハリウッド・メジャーの製作で、つまり目立つから自分たちの運動を宣伝するのに好都合なターゲットだった、って部分が相当にあると思いますよ。
    >
    >それで個々の障害者が抱えている問題がどう解決されるのかって言えば、ほとんど関係ないのではないでしょうかね?
    ここは本質的な問題ですから、ぜひともご返答お願いします。

  11. Macska Says:

    > だからプロットだけで映画を論じられるのでしたら、
    プロットだけで映画を論じられません。当たり前です。
    そして、わたしは現に映画そのものについては、
    町山さんの評論を紹介するだけで、特に論じていません。
    # 一カ所、勇み足がありましたが、その点については
    # 水原さんが登場するより先に撤回しています。
    > あなたは監督のイーストウッドの作品とは直接関係ない言動まで
    > 引っ張り出して、「魔女狩り」に終始しておいでですが?
    だから、何度も言うように、
    わたしの文章は映画についての論評ではなくて、
    障害(及び、障害理論)についての文章なのです。
    ある映画の主要な道具として「障害」が使われていたとして、
    その映画を作った監督が、自分の映画監督としての名声を利用して、
    障害者の権利を制限するようなロビー活動を過去に行っていたというのは、
    障害に関する文章で取り上げても、全然おかしくありません。
    また、「魔女狩り」という言葉をここで使う理由もよく分かりません。
    もしわたしが、「過去にこんな酷い事をやった人物なんだから、
    そんな奴の作る映画なんで観るまでもなくクズだ」と言ったなら
    まだ分からないでもないですが、わたしはそんな事言っていませんし。
    > 現にそうなさってますが?
    映画の内容に言及したら、それは全て映画評論なんですか?
    あなたが「映画評論である」と誤解した原因が、
    わたしの付けたタイトルのまずさにあるのでしたら、
    その点については謝ると言っています。
    しかし、映画評論ではないとわたしが何度も明言しているのに、
    そうだと決めつけるあなたのその偏執狂的なところはどうにかなりませんか?
    > その「障害」を特別視する視点って、なんとかなりませんか?
    そんな事言っても、わたしは障害学の理論と実践をやっている人間であり、
    町山さんのような映画評論を主に行う人間ではないので、
    映画に関連した話題を取り上げても、映画そのものを評論するよりは、
    映画の中における障害について論じる傾向があるのは当たり前です。
    でも、わたしはそれだけが唯一の論じ方であるとは考えていないので、
    そういう意味では障害を特別視しているわけではありません。
    わたしはこういう論じ方をするけれど、
    他の人が違った論じ方をするのに文句を付けたりはしません。
    水原さんこそ、映画について言及するのは映画評論だけだと決めつけることで、
    ある特定の「論じ方」を特別視されているように見えます。
    > なぜ
    > >障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
    > …と言えるんですか?
    あのー、その部分はわたしの感想ではなく、
    英語で紹介したスティーヴ・ドレイクという人の文章から、
    要点をまとめた段落ですよ。
    ドレイク氏は、もちろん映画を観たうえで、
    そのような演出であったと論じています。
    水原さんは、多分英語の部分を飛ばし読みしたから、その部分が
    要約であるとは気付かなかったのでしょう。
    何度も言う通り、わたしは映画を観ていないので、
    映画そのものを評論することは、できるだけ避けています。
    その代わりに、町山さんやドレイクさんの評論を紹介しています。
    > ここは本質的な問題ですから、ぜひともご返答お願いします。
    ええと、まずわたしと抗議している団体とでは立場が違うという事を確認。
    抗議している団体は、ドレイク氏含めちゃんと映画を観た上で、抗議しています。
    わたしは映画そのものではなく抗議している人たちの話を聞いて、
    それに関して障害学の方面からごく一般的なコメントをしているだけ。
    ドレイクさんの文章を読む限り、彼はかなりの危機感を感じているように見えます。
    すなわち、こうした映画が単に「製作された」というだけでなく、
    それが多数の評者から高い評価を受けていたり、
    名誉ある賞にノミネートされているという事実に、危機感を感じているわけです。
    わたしには、それが運動を宣伝するための演技であるとは見えません。
    もちろん、わたしがコロッと騙されているだけかも知れませんが、
    何の根拠もないあなたの邪推よりはマシでしょう。

  12. 水原文人 Says:

    あのですねぇ、ご自身に対する指摘をただ無視するのだけであれば、自分の文章を公開なんてすべきではないのですけれど?
    >そして、わたしは現に映画そのものについては、
    はい繰り返し
    >演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映画というメディアです。
    …であるのに、なぜ
    >障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つのだ。
    …と言えるんですか? どのように演出されているのかを見ないで、なぜ「ロマンチック」と決めつけられるんですか? そもそも「障害がロマンティックな描写を支える小道具として意味を持つ」ってのは、立派に映画の論評になっているんですが?
    繰り返し終わり。
    あなたがそのコメントついて他者の意見であることを明示せずに要約し、ダメ押しとして「たかが映画とは言えない。」と言っている以上、あなたはそれを支持していることになります。
    > 水原さんは、多分英語の部分を飛ばし読みしたから、その部分が
    いいえ、読んでますよ。しかしあなたはその(ずいぶんあなたの主観の入った)要約であることを明示しない以上、それだけでもその意見を共有してることになりますし、それを全面支持するかたちで「たかが映画とは言えない」とダメ押しで書きつつ、その実「たかが映画」扱いした文章を書いているのです。そして映画のことを取り上げた文章であることが明示された題名で、極めて否定的な評価を下しているわけです。
    引用
    >しかし、監督としてどの小説を映画化するかを選んだのはイーストウッド自身なのだから説明とはなっていない。もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、
    で、あなたがヒロインの個人的な内面を完全に無視しているのは、ここです。
    > いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない。
    ↑これはあなたの言葉ですが? で、繰り返し聞きますが、
    >社会が障害者から「尊厳」を奪っているからこそ、自ら望んだ死という選択に障害者が追い込まれているわけだし。
    この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか?  後者であれば、その生き方をまっとうできないから死を選ぶのは、筋が通っています。
    >ドレイクさんの文章を読む限り、彼はかなりの危機感を感じているように見えます。
    はい繰り返し
    「それを最後のパートだけあげつらう運動家がいるのは、それはそのままアカデミー賞監督であるイーストウッドの監督・主演、しかもハリウッド・メジャーの製作で、つまり目立つから自分たちの運動を宣伝するのに好都合なターゲットだった、って部分が相当にあると思いますよ」
    >> その「障害」を特別視する視点って、なんとかなりませんか?
    >
    >そんな事言っても、わたしは障害学の理論と実践をやっている人間であり、
    では再びお聞きしますが、この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか? 
    「障害学の理論と実践をやっている人間」であるあなたから見れば前者でしょうが、多くの観客にとっては後者でしょう。ではその人物そのものの人物設定は?
    「障害学の理論と実践をやっている人間」の機嫌をとるためにそのキャラクターの一貫性を犠牲にするとしたら、その映画の作り方は「プロパガンダ」です。
    町村氏がやっているのは表層上そこをアカデミー賞にからめてクサすというかなりレベルの低い「予想ごっこ」であり(ま、それだけじゃないんだろうけど)、あなたがやっているのはその表層にからめとられた頭のまま、他人の作品をダシにした自分のプロパガンダであるだけです。
    >何の根拠もないあなたの邪推よりはマシでしょう。
    氏の公表した文章自体がその根拠ですが? 傍証としては、とにかくこの手の抗議は『最後の誘惑』(1988)への宗教右派の攻撃以来、アメリカ社会に置ける映画への「抗議」として実にしょっちゅう起こっていることが挙げられます。
    だからね、このような文章を書くのならまず自分自身のスタンスをちゃんと保つために映画そのものは見ておくのが当たり前の責任ある言論行動なんですよ。それを
    >わたし個人的に映画館は苦手なのですが、ビデオが出たら観ようと思います。
    ># そこらの路上で既に海賊版 DVD 売ってたりするけど(笑)
    なんて書いていたら、そりゃ無責任そのものです(苦笑)。
    >、いろいろな人の評論を読んでみても、「尊厳ある生」に触れられているものがないように思うので…
    で、「思った」だけでイーストウッドの作品に対し、「納得できない」と書けるあなたの神経は、相当なものですね。

  13. 水原文人 Says:

    で、再度ダメ押しでお聞きしますが、この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか? 
    あなたが「障害学の理論と実践をやっている人間」であるからというだけで彼女の「女ボクサー」としての生き方の選択を否定できるんですか? 「たかが映画」と言いますが、映画の世界のなかでその人物はひとりの人間として生きているわけなのですが。
    同じジレンマを抱えた人は、後天的な障害であればそれこそゴマンといるわけです。その人々が尊厳死を選んだら、あなたは「尊厳ある生」をその人が選んだことに対して「個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任」と言い放つのでしょうか? あなたがやってることはまさにそれなんですけれど?
    「障害学の理論と実践をやっている人間」にとっては障害者は障害者にしか見えないのかも知れませんが、当の本人たちにとって障害はその人格の一部でしかありませんよ。

  14. 水原文人 Says:

    まあ一応、助け舟…
    >氏の公表した文章自体がその根拠ですが? 傍証としては、とにかくこの手の抗議は『最後の誘惑』(1988)への宗教右派の攻撃以来、アメリカ社会に置ける映画への「抗議」として実にしょっちゅう起こっていることが挙げられます。
    実情は、たぶんプロライフとか言ってる宗教右派が騒ぎ始めたので、障害者運動の方でもなにも言わないわけにはいかなくなった、ってことでしょうけど。

  15. Macska Says:

    4時間後のフライトでニューヨークに向かいます。
    今回の旅行では荷物を最小限にするためにコンピュータは持って行かないので、
    このコメント以後、今週いっぱいコメントできないと思います。
    ですので、取りあえず水原さんとの話をまとめさせていただきます。
    (もちろん、水原さん次第では帰ってきてから続く可能性もないとは言いませんが。)
    > ご自身に対する指摘をただ無視するのだけであれば、
    > 自分の文章を公開なんてすべきではないのですけれど?
    無視するだけでない証拠に、コメント欄を設けて、こうやってお応えしているわけです。
    > あなたがそのコメントついて他者の意見であることを明示せずに要約し、
    > ダメ押しとして「たかが映画とは言えない。」と言っている以上、
    > あなたはそれを支持していることになります。
    支持もなにも、町山さんの発言を紹介して
    「わたしは観てないけど、なるほどそうなんだろう」と言ったのと同じように、
    ドレイクさんの話も「なるほどそうなんだろう」と思っています。
    それから、わたしは、Ragged Edge という雑誌や、
    ドレイクさんの属する Not Yet Dead という団体については少し予備知識があるので、
    全面的に信頼するかどうかはともかく、ある程度の信頼は置いています。
    今回の評価について全面的に支持できるかどうかは、映画を観ないと何とも言えませんが、
    確かにドレイクさんの発言を「そこそこ信頼できる筋の話」と受け取っています。
    > で、あなたがヒロインの個人的な内面を完全に無視しているのは、ここです。
    だから、この文章はヒロインの個人的な内面について書いた文章ではないのです。
    それは、文中で「うちのサイトは映画紹介サイトではない」とも書いている通り、
    そういう事を書くつもりがわたしにはじめからないのです。
    そもそも、映画を観てもいないのに、ヒロインの個人的な内面について書いていたら、
    その方がよっぽどおかしいのではないですか?
    それとも、この映画に言及する際は、ヒロインの個人的な内面について
    書かねばならないという決まりでもあるんでしょうか?
    > この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか?
    彼女はボクサーとして試合をしている最中、事故で障害を負ったと理解してます。
    > 「障害学の理論と実践をやっている人間」であるあなたから見れば前者でしょうが、
    > 多くの観客にとっては後者でしょう。
    前者か後者かと二者択一を迫るあなたの論理がおかしいのです。
    > 「障害学の理論と実践をやっている人間」の機嫌をとるためにそのキャラクターの
    > 一貫性を犠牲にするとしたら、その映画の作り方は「プロパガンダ」です。
    でも、わたしは「監督は彼女に生を選ばさせるべきだった」とは主張していません。
    というか、ストーリーのここを変えて欲しいという主張は、わたしは一切していませんよ。
    > だからね、このような文章を書くのならまず自分自身のスタンスをちゃんと
    > 保つために映画そのものは見ておくのが当たり前の責任ある言論行動なんですよ。
    もちろん、正式な論文として発表するつもりなら、観ておくべきでしょう。
    でも、これは個人が趣味でやってるブログなんですよ。そこまでの責任はありません。
    > 彼女の「女ボクサー」としての生き方の選択を否定できるんですか?
    だから何度も言いますが、わたしは彼女の選択を一切否定していません。
    それどころか、「否定できない」という主張に、わたしは強く賛同するものです。
    否定していると決めつけて言いがかりを付けるのは、いい加減やめてください。
    > 実情は、たぶんプロライフとか言ってる宗教右派が騒ぎ始めたので、
    > 障害者運動の方でもなにも言わないわけにはいかなくなった、ってことでしょうけど。
    どうして、宗教右派が騒ぎ出したら、
    障害者運動の方でもなにか言わないわけにはいかなくなるんでしょうか?
    例えば、同性婚の問題について宗教右派は騒いでいますが、
    障害者運動は別にそれに連動して騒いだりしてはいませんよ。
    そもそも、あなたは「運動を宣伝するために騒いでいるだけなのではないか」と言っておきながら、
    次には「宗教右派に騒がれたのでなにか言わないわけにはいかなくなったのだ」とくる。
    どっちが正しいのでしょうか?
    わたしから見ると、「映画を観た障害者たちが、『こんな映画に賞をやるのか』
    とマジで怒って抗議している」ように見えるのですが…
    あなたの邪推を支持するような要素は一切ありません。
    最後にお願いですが、同じ文章を何度も繰り返し貼付けるのは迷惑なのでやめてください。
    あなたの質問をわたしが見落として応えなかったのでもう一度、あたりまでは許容範囲ですが、
    そうでもないのに、わたしの回答を無視して同じ事を何度も貼付ける理由はないはずです。
    それから、できたら一度のコメントは1つにまとめていただけると助かります。

  16. 水原文人 Says:

    で、再読するに…
    >キャラクターの背景を丹念に描くことで主人公たちの選択を納得できるものにしている。
    >また主人公たちがカソリックであることで彼らの選択がより重いものになっている。
    >それにその選択を「正しかった」と断じてはいない。
    >主人公は「許されざる者」として十字架を背負う。
    >そして観客に議論の余地を残している。
    最初から町山氏はちゃんと書いていて、かつあなたが引用しているんですけど?
    >キャラクターの背景を丹念に描くことで主人公たちの選択を納得できるものにしている。
    つまりボクシングしか生きる道がない人々であるわけで…
    繰り返し:
    ・「障害学の理論と実践をやっている人間」にとっては障害者は障害者にしか見えないのかも知れませんが、当の本人たちにとって障害はその人格の一部でしかありませんよ。
    ・この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか?  後者であれば、その生き方をまっとうできないから死を選ぶのは、筋が通っています。
    ・その「障害」を特別視する視点って、なんとかなりませんか? ボクシングの世界では、俗にいう「パンチドランカー」という症状とか、当たりどころが悪くて半身不随なんてことは、かなりよくあることなんですが? この映画は(そして原作の小説も)ボクシングの話なんですが? ボクサーに当然起こりうることが「小道具」ですか。
    >また主人公たちがカソリックであることで彼らの選択がより重いものになっている。
    宗教的に、どのような苦境にあろうが「尊厳ある生」を選択しなければ神の罰をうける、という前提が彼らにとってあるわけですね。カトリックで自殺が厳禁なのは、どのような苦境であってもそれは神の与えた試練であって、そのなかで尊厳を持って生きることが教義であるからなのですが。
    >それにその選択を「正しかった」と断じてはいない。
    …つまりそういうこと。
    >主人公は「許されざる者」として十字架を背負う。
    彼女に自分と同じ道を選ばせなかったら、っていう苦悶も含めてん
    >そして観客に議論の余地を残している。
    で、そこを無視して、映画を見もせずに
    「たかが映画とは言えない。というのも、この映画を自ら監督したクリント・イーストウッドは〜」と“魔女狩り”をやってるのは、誰ですか?

  17. 水原文人 Says:

    >これは個人が趣味でやってるブログなんですよ。そこまでの責任はありません。
    インターネット上である以上、そこに書かれたことはすべて誰でも読めるパブリックな情報です。おしまい。

  18. Macska Says:

    > 「障害学の理論と実践をやっている人間」にとっては障害者は障害者にしか
    > 見えないのかも知れませんが、当の本人たちにとって障害はその人格の一部
    > でしかありませんよ。
    あのですね。
    障害者にとって、障害とはその人の一部でしかないというのは、
    それこそ障害学が一番に主張することです。
    あなた、わたしの書いていること、半分くらい分かってないでしょ?
    そうでなければ、どうしてこれだけ「言いがかり」としかいいようのない事ばかり並べられるのか。
    障害学については、こちらが分かりやすいので自習してください:
    http://www.akashi.co.jp/menue/rensai/cafe_00.htm
    > そこを無視して
    無視してないって。
    だいたい、もし無視してたら、どうしてわざわざその部分を引用するわけ?
    あとは繰り返しばかりなので無視。
    魔女狩りという言葉がどうして妥当なのか、今回も説明無しだし。

  19. 水原文人 Says:

    >障害者にとって、障害とはその人の一部でしかないというのは、
    >それこそ障害学が一番に主張することです。
    ところがあなたはなぜか無視して、「個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任」とか言うとるわけです。ボクサーであることが自分の存在理由であるのなら、それ以外の尊厳はその当人にとってあり得ないんですから。
    もちろんその筋の通し方が本当に正しいのかどうかは分からないわけで、だからこそ町山氏も
    >それにその選択を「正しかった」と断じてはいない。
    >主人公は「許されざる者」として十字架を背負う。
    >そして観客に議論の余地を残している。
    と書いているのですが。
    で、ぜひともお訊ねしたいんですが、あなたがおっしゃる「障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方」というのは、この具体的な例の場合どのようなことがあり得ると思ってるのでしょうか?
    >魔女狩りという言葉がどうして妥当なのか、今回も説明無しだし。
    あなたが「たかが映画とは言えない。というのも、この映画を自ら監督したクリント・イーストウッドは〜」と、作品それ自体に関係ないことを持ち出して、「もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」と書いていることですが?
    見てもいない映画について、そこでどんな登場人物が描かれているかも無視して、「いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」ってのはいったいなんなんですか? これが映画に対する(見ていないでの)評価でなくて、いったいなんなのでしょうか?
    そもそも最初からあなたが魔女狩り的な偏見だけで書いていることが明白なのは、自分のストーリー要約に「悩み抜いた末コーチも」って書いてあるのに、ryu2netさんに
    >実際の映画では、「価値ある生き方もできる」と何度も説得が試みられるけれども、あくまで「尊厳ある生き方(死に方)を選ぶ」という、シークエンスがあります。
    とやんわり指摘されていることです。なぜコーチ(イーストウッド)は悩むんでしょうか? なんについて悩むんでしょうか? 娘のように思って…というよりほとんど恋人でさえあるような関係になった弟子を、みすみす死なせたいと思うでしょうか? 一方でボクシング一筋で生きて来たマッチョ親父であるこの主人公が、あなたのように言葉だけの「障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方」なんて説得を思いつくでしょうか? 薄っぺらな言葉だけのことはどうしても口にできない程度には、十分に誠実な人物なんですけれど? (というか、頑固マッチョであるぶんすさまじく不器用に誠実なんだけど)。
    つまりですねぇ、あなたは映画という表現の存在理由を無視して(文字通り、視ること無しに)、そこで描かれた人間の苦悩をまるで顧みずに、「いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」と言ってるわけです。
    なにが納得できないんでしょうか? なぜ「個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任」なんでしょうか? ボクシングに生きることを自分の人生と決めたヒロインは、自分の努力でコーチや周囲を説得して「尊厳」を勝ちとるために死ぬんですけど、違いますか? それが「ロマンチック」かどうかは、映画を見ていないあなたには、何度も言いますけど判定できるわけがないんですが?
    結局机上の空論だけではないですか。
    あと運動の主体がこうした機会を利用して自分の主張を通すことそれ自体は、僕は別に否定はしませんよ。それも彼らが自分の運動に注目を集めるための選択でしょう。彼らにとっては自分たちの運動の方が大事なのですから。でもそれは一方で、極めてエゴイスティックな行為であり、そして人間の行いとしては歪んでいます。またそれに利用される映画にとっては、えらく迷惑な話です。
    さっきも言いましたけど、あなたがインターネットに書くことは、個人的なブログのつもりだろうが、すべてパブリックな情報です。そこで他人が精魂こめた作品についてイイカゲンなことを言うのは、まず控えられるべきでしょう。
    それからあなたがなんのために「障害学」をやっているのかは僕の知ったことではありませんが、あなたの学んでいる学問で「障害者にとって、障害とはその人の一部でしかない」と一番に主張されているのでしたら、それをまずちゃんと実践することをお薦めします。何度も繰り返しますが、この映画のヒロインにとっての自己規定、自分の人生の目標、自分の存在理由は「ボクシング」です。さてその人が首から下は全身付随になったとしたら(ちなみに、ボクシングではしょっちゅうあります)、あなたはその人にどうやって「障害を抱えつつ充実した生を追求するという考え方」を伝えるのですか?
    そもそも倫理的なジレンマを扱った、答えのない映画について、その問いかけを受け止めようともせずに決めつけに走ること自体が狂ってるんですけどね。

  20. GBG Says:

    他人の文章にイチャモンつける前に、すべきことがあるのでは?
    「パブリック」な掲示板で、あなたは10日間も【逃亡中】に見うけられますが? 
    八つ当たりですか?
    http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_index

  21. GBG Says:

    >・「障害学の理論と実践をやっている人間」にとっては障害者は障害者にしか見えないのかも知れませんが、当の本人たちにとって障害はその人格の一部でしかありませんよ。
    >・この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか?
    あなたバカですか? 1番目のあなた自身の述べた前提(【人格の一部】)を踏まえれば(てか、当たり前のことをさもご大層に)2番目の二項対立的な問いは無意味。

  22. Jose Yacopi Says:

    >スワンクのキャラクタのように死を選ぶか、それともリーブのように障害を克服することを信じて耐えるか」という設問を設定することで、障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ。
    昔、社会主義体制ができたらみんな幸せになれるという幻想を持った人がこの国にも多かったが、実際は、社会主義国家の実態が東側の崩壊とともに明らかになり、それは理想郷に過ぎないと多くの人が気づくようになった。
    仮に、衣食住に事欠かなくなり、映画やコンサート、スポーツなどの娯楽が充実したとしても、個人の生の価値や生き甲斐を担保することにはならない。
    「尊厳ある生」や「価値ある生き方」というのは、必ずしも外部の状況によって満たされるものではなく、個人の価値によって異なるために、「ある環境がある人には至福のものでも他の人にとっては最悪のものだ」、という事例はいくらでもある。
    一生贅沢ができるほどの財をなし、美しい妻や優しい子供達に恵まれていても、実際の生活には満足できず自殺を選ぶ人間だって少なくない。
    つまり、尊厳ある生を本人ではなく他者がこうだと決めつけることほど、人間の尊厳を無視した横暴なこともない。
    ボクサーであることに生の躍動を感じて自分の尊厳を賭けているものが、身体障害になり一切を失ったとき、尊厳死を選ぶというのも一つの崇高で立派な生き方かもしれない。また、四肢が付随となり、静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだし、傷害を持たなかった頃に比べてさらに幸せになる、という仏陀的な選択だって立派な生き方かもしれない。
    大切なことは、この二つの生き方はなんら対立するものではないということ。
    人間の生には「踏み込んでいい部分」と「踏み込んではいけない部分」があり、他者が踏み込んでよい部分とは、「四肢が付随となり、静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだし、傷害を持たなかった頃に比べてさらに幸せになる」という選択肢を障害者ができるような社会環境と制度を整えることでしかない。
    それを踏み越えて、他者の「尊厳ある生」はこうだ、というのは越権行為であるし、「障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ」と考え、「個人が不幸な状態なのは、社会の認識不足とか環境の不整備だ」というのは、東側に肥大な幻想を抱いていた昔の未熟な人々と何ら変わらないだろう。社会システムの不備が個人を不幸せにしている、と体制を批判していた幼い人々となんら変わらない。
    つまり、スワンクのように死を選ぶか、それともリーブのように傷害を克服しようとするか、あるいは傷害を傷害としてそのまま受け入れて充実した生を生きようとする人はそれぞれの価値観を持ち、他者が一律にこうだと、批判することが一番危険なのだ。個々人が自分の生き方を選択できることこそが人間の尊厳であるはずなのに、「社会的な要因を問いただす芽を摘んでいる」と逆に社会制度上の問題から、個人の尊厳と生き方を無視するという倒錯したロジックが結論に来ていることが、あまりにも浅はかすぎる。

  23. 水原文人 Says:

    >「パブリック」な掲示板で、あなたは10日間も【逃亡中】に見うけられますが? 
    > 八つ当たりですか?
    いえ、先日投稿できなかったので、たぶんアク禁にされたんだと思ってます…
    つーか、別にあのような低レベルの罵倒なぞ相手にしないのは私の自由ですが、なにか?
    どうせ言うべきことはすべて言ってありますし、他人の投稿を読解する能力のないタコを相手にしているほどヒマではありません。

  24. 水原文人 Says:

    >あなたバカですか? 1番目のあなた自身の述べた前提(【人格の一部】)を踏まえれば(てか、当たり前のことをさもご大層に)2番目の二項対立的な問いは無意味。
    バカはあなたですね、横山好雄様。ヒラリー・スワンク演じるヒロインは「ボクシングがすべて」、できなければ生きる意味がないというのがその「人格」なのに、障害を持った「尊厳ある生」を外部の赤の他人がそこに要求することが倒錯であるのだかが、「ボクシング」と「障害者」の二項対立の構造は、Masckaさんの文章それ自体のなかにあるだけです。もっとも、映画それ自体のドラマツルギーは、「ボクシング」と「それなしに生きる意味があるか?」という対立構造で成り立っているわけですが。
    つまり障害者の「生の尊厳」という限定さえたレベルではないもっと公汎な「生きることの意味」をめぐる倫理的葛藤をめぐる物語とも解釈でき、その意味ではボクシングはメタファーに過ぎないのですが。その意味では「正義の執行」が自身の生きる意味であるハリー・キャラハン警部の、その「正義」が揺らぐ『ダーティーハリ−4』以来のイーストウッド的主題でもあるわけですが、誰もが「生き甲斐」「生きる意味」を大なり小なり求めている近現代的な価値観をめぐる複雑な問いでもあるわけです。

  25. 水原文人 Says:

    Jose Yacopi様、こんにちは
    >それを踏み越えて、他者の「尊厳ある生」はこうだ、というのは越権行為であるし、
    私が言っているのは基本的にそういうことではあるのですが、では「ボクシングができないから彼女は死んでいいんだ」とは決して思えませんし、またイーストウッド演ずるトレーナーもそこに苦悩し、その十字架を背負いながら映画は終わるわけでもあります。
    私は基本的に尊厳死の賛成派で、職業(=「生き甲斐」「生きる意味」)がら、たとえば失明しただけでも死んだほうがいいと自分では思っています。念のため断っておきますがこれはあくまで僕個人が職業柄、目が見えなければ自分が人生を賭けてやるべきだと思っていること…というかそれしかできないんで恐らく自分の存在理由はそこにあるんだろうと思っていることができなくなるから、と言うだけであって、一般論としては目が見えなくてもできること、生きる意味はたくさんあるでしょう。ただ僕個人がその一般論には当てはまらないだけです。
    で、失明した自分が勝手に自殺するだけなら周囲は基本的に深く悲しむだけでたぶん済みますけれど、首から下が麻痺してしまえば死ぬことも自分では難しいわけですし、医師であれば人を生かすことこそその使命であり天命であるわけで、父親代わりみたいなコーチにしても、当然彼女が死ぬことは望んでなどいないわけです。そこに解決できない矛盾があり、それはおよそ「ロマンチック」などというべきものではないでしょう。

  26. 水原文人 Says:

    Mascka様、
    さしあたりのまとめとして、まずは映画『ミリオンダラー・ベイビー』をご覧になるまで、ペンディングということにしたいのですが、よろしいでしょうか? この段階でMaskcaさんがやってしまった唯一こればっかりは自己弁護の余地の皆無な過ちは、見ていない映画について、他人の評価を鵜呑みにする形で断定をしてしまっていることだけだと思います。
    それに映画をご覧になった方が、とくに15番で僕がお伝えしたく思っていたことや、Jose Yacopi様のおっしゃっていることは、言葉よりも遥かに雄弁に伝わるだろうとも思いますし。それは単に『ミリオンダラー・ベイビー』がさすがイーストウッド監督ならでは、の傑作であるというだけではなく、非常に単純な原理的な問題として、言葉による議論では「答えのない問い」を表現すること自体が極めて難しく、どうしても単純な「結論」に走りがちであるのに対し、映像はそうしたことを表現するのにとても適している、ということがあります。できの悪いステレオタイプの集積みたいな映画ではなく、登場人物をちゃんと生きた生身の人間として構築し、その人物にぴったりよりそって見せて行くことができる優れた劇映画は、とくにそうです。
    「尊厳ある生」についての議論は、そこから先でもまったく遅くはないでしょう。
    いささか言葉が過ぎたところもあったことは、お詫びします。

  27. GBG Says:

    >さしあたりのまとめとして、まずは映画『ミリオンダラー・ベイビー』をご覧になるまで、ペンディングということにしたいのですが、よろしいでしょうか?
    これが、「あらし」風情が言うせりふかね。自分でぐちゃぐちゃにしておいて、なにが「まとめ」ですか。
    >この段階でMaskcaさんがやってしまった唯一こればっかりは自己弁護の余地の皆無な過ちは、見ていない映画について、他人の評価を鵜呑みにする形で断定をしてしまっていることだけだと思います。
    そんなことは、はじめのryu2netさんのコメントとそれに続くmacskaさんのレスで提示され済みなんですよ。それを粘着的に引っ掻き回したのがあなただ。身の程をわきまえなさい。いわばここは「他人の庭」なんだよ、大ばか者。
    それから、
    >バカはあなたですね、横山好雄様。
    苦しくなると誰でもダブハンに見えてくるものなのでしょうか? 。妄想もここまで来ると憐憫を禁じ得ませんな。一事が万事、あなたの文章はこのような思い込みと決め付けに満ちている。
    どうぞご自分のウェブなりブログなりでトラックバックを貼ってあなたなりに「妄想大爆発」をやればいいんですよ。それが迷惑を最小限に抑える道です。
    【障害者運動と映画「ミリオンダラー・ベイビー】が映画批評のタイトルだと決め付けるのが誤読(あるいは基本的な日本語力の欠如)。
    英語訳をmacskaさんの意見と決め付けた(「↑コレはあなたの言葉ですが?」)のも落ち着いて読んでいない証拠。(その弁解 「要約であることを明示しない以上」も見苦しい言い訳。)
    >ヒラリー・スワンク演じるヒロインは「ボクシングがすべて」、できなければ生きる意味がないというのがその「人格」
    では、カソリックであるという面は「人格の一部」ではないのですか? 「ボクシングがすべて」なら、そもそも「人間の苦悩」などあり得ません。
    町山さんの文章(また主人公たちがカソリックであることで彼らの選択がより重いものになっている。)やそれを受けてのあなた自身のコメント(
    宗教的に、どのような苦境にあろうが「尊厳ある生」を選択しなければ神の罰をうける、という前提が彼らにとってあるわけですね。)との整合性は? 
    まあ、あなたが他人にはしつこく自分には甘い人間だということは今回の件でよく分かりました。見損ないました。
    最後に、
    >プロットだけで映画を論じられるのでしたら、映画を作る必要がない
    断じてそうではない。あなたが言うべきは、
    「プロットだけで映画を論じられるのでしたら、【映画評論などする】必要がない」でしょう。
    あなたがここまでmacskaさんに執拗にまとわりついたのは、横山さんとの議論の遁走の腹いせに加えて、そのような思い、つまり、職業映画評論家として「素人の分際でいっぱしの口たたくんじゃないよ」という憤りもあったのではないかとご推測いたします。しかし、プロットだけで映画を論じている人間などいくらでもいるわけです。映画だけではありません。小説もそうでしょう。しかし、誰がどのようなレベルでそれらを論じるかと、「創作する必要性」とは何の関係もない。
    たかが評論で「創作の必要性」がなくなるようなヘタレな芸術など、なくなってしまえばよいのです。(つうか、なくなるでしょう)

  28. GBG Says:

    Jose Yacopiさん、こんにちは。
    私なりにmacskaさんの言いたいことを解釈すると、要は前提となる「選択の幅」が不充分なままの「自己決定権」「自己選択権」は事実上の強制、義務になりうるということでしょう。そのことは、macskaさんの、
    >わたしは、リベラリストとして元来「尊厳ある死法」に賛成する立場だったのだが、障害者運動による反対論をじっくり聞いた結果、「死を選ぶ権利」以上に「尊厳ある生を選ぶ権利」をまず充実させるべきだと気付いた。
    に端的に現れています。語るに落ちるで、水原さんが、
    >社会としては最大限、バリアフリーなどで障害者の生活が不便でなくなるように努力する責任があります。
    >これは当然のことです。
    >でもそこから先、つまり外部からの働きかけとしてできる物理的な処置
    と、バリアフリーを「物理的な処置」としか捉えられない貧困さを露呈していますが、それのみならず、macskaさんが述べられた「重い障害を抱えての生には価値がない」という感性もそのバリアのひとつです。そしてその感性を派生なり助長させるもののひとつは社会福祉制度です。延命治療にかかる経費、介護の担い手の負担etc.
    これら、選択の幅を狭める社会的要因、バリアフリーを「物理的処置」として事足れりとしてしまう精神的要因をさらに助長してしまう要因となる可能性は、「消費」されるものとしての映画にもあるわけです。「幼い人々」は、あなたがたです。
    そもそもあなたの、
    >、「障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ」考える「東側に肥大な幻想を抱いていた昔の未熟な」考えと、あなた自身の言う、
    >、「四肢が付随となり、静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだし、傷害を持たなかった頃に比べてさらに幸せになる」という選択肢を障害者ができるような社会環境と制度を整えること
    とはどこが異なるのでしょうか。「尊厳ある生を本人ではなく他者がこうだと決めつけ」ている、というのであればそれは論外。ここでは誰もそんなことは言っていないのですから。

  29. 水原文人 Says:

    >と、バリアフリーを「物理的な処置」としか捉えられない貧困さを露呈していますが
    物理的処置以外になにかができるってことが、まさに傲慢なんですが? そこから先、内面の価値観の問題は、個々人の尊厳に委ねられる領域なんですから。
    あなた何読んでるんですか?
    >>、「障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ」考える「東側に肥大な幻想を抱いていた昔の未熟な」考えと、あなた自身の言う、
    >
    >>、「四肢が付随となり、静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだし、傷害を持たなかった頃に比べてさらに幸せになる」という選択肢を障害者ができるような社会環境と制度を整えること
    >
    > とはどこが異なるのでしょうか。
    基本的に同じことですが、なにか?
    ただ「静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだす」かどうかはその環境に対する個々人の選択の問題であって、そこに介入して一方的に「尊厳ある生」を押し付けて云々するのは傲慢ですが? 「静的な高次の精神世界」に向いた人間もいれば、そうでない人間もいるのは、当たり前ですけれど?
    > 「尊厳ある生を本人ではなく他者がこうだと決めつけ」ている、というのであればそれは論外。ここでは誰もそんなことは言っていないのですから。
    言ってますよ。
    せめて他人の書いたことをちゃんと読んでから反論しましょう(苦笑)。なにをヒステリックになっているのか知りませんが、問題になっているのは議論の勝ち負けではありませんし、そもそも議論の勝ち負け、あるいは結論があると考えること自体が傲慢ですよ。
    で、お聞きしますが、ボクシングがすべて、であった人にどのような「尊厳ある生」をあなたは説得するのでしょうか?
    もちろんハリケーン・カーターみたいな生き方もありますがね。

  30. GBG Says:

    あの、、、
    水原さんお呼びでないです。Jose Yacopiさんに宛てて書いたんですから。
    >ボクシングがすべて、であった人に
    それについてはあなたが答えるのが先。27に答えてください。
    つうか、そんなにからみたいなら自分でブログ立てて、トラックバックするなりコメントするなりしてくださいってば。ほんとにもううざい奴。

  31. 水原文人 Says:

    >水原さんお呼びでないです。Jose Yacopiさんに宛てて書いたんですから。
    あのぉ、それを言うなら僕はmaskcaさん相手に書いていたんですが、そこにトチ狂った横レスを入れたのは誰ですか?
    あなたがパブリックなインターネット上に書いたことは、誰が反論してもいいんですけれど?
    >>ボクシングがすべて、であった人に
    >それについてはあなたが答えるのが先。27に答えてください。
    これのことですか?
    > では、カソリックであるという面は「人格の一部」ではないのですか? 「ボクシングがすべて」なら、そもそも「人間の苦悩」などあり得ません。
    > 町山さんの文章(また主人公たちがカソリックであることで彼らの選択がより重いものになっている。)やそれを受けてのあなた自身のコメント(
    > 宗教的に、どのような苦境にあろうが「尊厳ある生」を選択しなければ神の罰をうける、という前提が彼らにとってあるわけですね。)との整合性は?
    その宗教的な禁忌を犯すことになってでも、自分にとってはボクシングをやることこそすべてなんだから、ということに決まってますが?
    まったく、ここまで人間の葛藤と言うことに理解がない人も珍しいですね。
    ついでに…
    >「プロットだけで映画を論じられるのでしたら、【映画評論などする】必要がない」でしょう。
    …なにをアホなこと言うてはるんですか? ある映画についてなにかを書き、そこに自らの評価を書き込んでしまえば、書いている人が誰であろうが評論であり、その映画に対する評価として受け取られるのは当たり前です。障害学をやっている人がその観点から書いたことが作品についてのクリティークになるのは、当たり前です。
    >あなたがここまでmacskaさんに執拗にまとわりついたのは、横山さんとの議論の遁走の腹いせに加えて、そのような思い、つまり、職業映画評論家として「素人の分際でいっぱしの口たたくんじゃないよ」という憤りもあったのではないかとご推測いたします
    くだらない邪推ですね。たぶんあなたご自身がそうした私怨や党派性でしか行動しない人なのでしょう。そもそもmasckaさんと直接言葉を交わすの自体が初めてで、彼女(女性だと推察してますが、外れていたらごめんなさい)個人に対してなんの感情もありませんが?
    >しかし、プロットだけで映画を論じている人間などいくらでもいるわけです。
    どこに? 見もしないで「納得出来ない」なんてことを言われれば、作り手としては納得できないこと甚だしいでしょうね(苦笑)。

  32. 水原文人 Says:

    >つうか、そんなにからみたいなら自分でブログ立てて、トラックバックするなりコメントするなりしてくださいってば。ほんとにもううざい奴。
    私がmaskcaさんに「映画をご覧になるまでペンディング」を提案して納まっているところに、意味不明の私怨党派性丸出しのことを書き込んでグチャグチャにしてるのは誰でしょう?

  33. Jose Yacopi Says:

    GBGさん、早速のレスありがとうございます。
    まず、誤字がありました。
    四肢が付随となり<<四肢が不随となり
    大変失礼しました。
    >、「障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ」考える「東側に肥大な幻想を抱いていた昔の未熟な」考えと、あなた自身の言う、
    >、「四肢が付随となり、静的な高次の精神世界の中に生き甲斐を見いだし、傷害を持たなかった頃に比べてさらに幸せになる」という選択肢を障害者ができるような社会環境と制度を整えること
    >とはどこが異なるのでしょうか。(GBGさんの文章)
    GBGさん、ちゃんと文意を汲んでから批判してください!
    ここでは、前段と後段のブロックのロジックは等価だという前提の下で、「では、人間の尊厳ある生・死とは一体何なのか」と論理展開をしているのです。
    だから、私の文章で
    「という選択肢を障害者ができるような社会環境と制度を整えることでしかない。」
    と、あえて「しかない」という言葉で結んでいるのです。
    つまり「しかない」とは、「東側に肥大な幻想を抱いていた昔の未熟な」考えにすぎない、という「すぎない」につながるのです。
    ここを問題提起として、本当にこのような社会整備という「物理的な外的要因」だけで人間の尊厳ある生・死を語れるの? 形而上学的な問題と、その可能性とは一体なんなのか、という素朴な疑問から文章が出発しているのです。
    その前提を逆に読んで、おまえは「物理的な外的要因」だけで捉えるのか?と相手を批判すれば頭がおかしくなります。
    文章の論理構造をよーく考えて批判してください。
    こちらは、「右のリンゴは赤い、左のリンゴも赤い」といっているのに、「何でおまえは左のリンゴは青いと考えるのか」と批判されているみたいです。
    >尊厳ある生を本人ではなく他者がこうだと決めつけ」ている、というのであればそれは論外。ここでは誰もそんなことは言っていないのですから。
    うんうん。あなたと私のロジックが水と油なのは、そもそも私の文章の初めの問題提起のところで互いの立場が異なっているからです。そして、その部分を全く理解しないで、部分的に”気にくわない”文章を抜粋して批判を展開したから頭がごちゃごちゃになってしまっているような気がします。私の立脚点は、「尊厳ある生を本人ではなく他者がこうだと決めつけている」と考えている(と私が判断した)macskaに対する批判として出発しているのです。だからこそ、以下の結論部分のmacskaさんの文章を引用して、これをテキストにして論が展開します。
    ムという設問を設定することで、障害を持って生きることをそれほどまでに厳しい「戦い」にしている社会的な要因を問いただす芽を摘んでいるのが問題なのだ。
    (macskaさんの文章)
    ここでは、「スワンクのキャラクタのように死を選ぶか、それともリーブのように障害を克服することを信じて耐えるか」という設問の設定が、現場で日々、尊厳ある生を営もうとしている障害者にとって大きなバリアになっているーとmacskaさんは考える訳です。
    しかし、それが何故、私は「尊厳ある生・死を本人ではなく他者がこうだと決めつけている」と感じ、横暴だという印象を持ったかというと、こういうことなのです。
    macskaさんは、障害者とそれを取り巻く社会の問題にあまりにも無知な映画製作者に対しての批判として書かれているのだろうと思いますが、私には、障害と対峙したとき、スワンクやリーブの生き方まで、否定しているような印象をmacskaさんの文章から受けてしまうのです。おそらくmacskaさんには、そういう意図は全くないし、実際に身の回りで、スワンクやリーブのような選択肢を取った障害者がいたからといって、感情的になりその選択が間違いだった、と否定するようなパーソナリティーの人間だとは文章全体から思えません。
    しかしながら、障害者問題に対して、私のような凡人など比較にならないくらいの知識と問題意識を持っているが故に、時として、この問題を扱った文学、映画に触れたとき、実際には、文学や映画の主要なテーマは別のところにあるのにもかかわらず、我田引水で、自分自身の問題意識を全てのテキストにして、まるで二項対立のように、断罪してしまう傾向が多分にあります(といっても、そもそもそういう趣旨のHPですし、そこに入って、その視点は間違いだ、と批判している私も私なのですが:だから、他人の家に土足で入り勝手に言いたい放題している奴、というどなたかの批判も、こういうところから発しているのでしょう)。
    私は、「ちょっと待ってよ、ここで扱っている問題は、そんな紋切り型のどうでもいいことではない。障害者の尊厳ある生・死の問題だけではなく、人間全般の尊厳ある生・死の問題を扱っているんだよ」と言いたいだけなのです。そして、様々な人間の、そしてつまらないと一見他者が思ってしまうようなことこそが、実は個々人の人間の価値や尊厳ある生・死にとっては大切なことであるという文学的な視点が欠落していることに相当な違和感を感じるのです。
    「障害のある生は価値がない」ことを暗黙の前提とした上で、「スワンクのキャラクタのように死を選ぶか、それともリーブのように障害を克服することを信じて耐えるか」という設問を設定している、と批判していますが、ここで「障害」という言葉を填め込まず、たとえば、自己実現のために努力してきた人が、「突然無実の罪で終身刑になった」という設定に交換してみましょう。主人公はそのような状態を続けることよりも死を選ぶということだってあるわけです。そこで、終身刑になり、全く自己実現のできない状態よりは、尊厳ある死を選んだとしても、あなたは映画製作者を、「終身刑は生きる価値がないと捉えている」と批判するでしょうか?
    これは明らかに的はずれでしょう。
    映画は、「障害」をそんな視点から捉えているわけではないのですよ!
    障害者と健常者という対立の構図では一括りにくくれない、そこからはみ出したところに、より重要な部分があるという視点です。
    つまり、個々人のこのようなディテイルの部分があって、初めて文学や映画は成り立つのですが、macskaさんは自分の立脚点からこの映画に光を投げかけたとき、どうしても、障害者問題にほとんどconcentrateしてしまう。その結果、主要なテーマから離れて社会と障害者の問題からのみ批判してしまうことになる。
    それが、スワンクやリーブの生き方まで否定しているような印象を相手に与えてしまうのです。もちろんmacskaさんは、「制作者に対する批判をしただけで、別に障害を持った人間の生き方と判断まで否定したつもりは全くない」と当然切り返すでしょう。しかし、本人は意図していないにもかかわらず、私にはそこに倒錯したロジックが見つけられるのです。つまりスワンクやリーブの選択は、「様々な人間の、そしてつまらないと一見他者が思ってしまうような」個人の価値観から判断したものですが、この”小さな決定と意志”が、macskaさんの立脚点からは、ほとんど無視されているのです。しかし、映画はむしろそこにあるディテイルの部分を描きたいのです。だから障害者の尊厳死が主要テーマでもなんでもないのですよ。
    だから、私の文章の最後のブロックでこのように結論づけたのです。
    「個々人が自分の生き方を選択できることこそが人間の尊厳であるはずなのに、『社会的な要因を問いただす芽を摘んでいる』と逆に社会制度上の問題から、個人の尊厳と生き方を無視するという倒錯したロジックであるように私には捉えられるのです。
    しかし、それに対して、「とんでもない、自分たちは障害者が尊厳ある生を営む上で、問題提起しているのだ、初めに社会変革ありきで、人間の尊厳がその下に来るわけではない」、と当然批判するでしょう。

    要は前提となる「選択の幅」が不充分なままの「自己決定権」「自己選択権」は事実上の強制、義務になりうる。

    従って、障害者の尊厳ある生を充実させるために、自分たちは問題提起している。
    というロジックになります。
    しかし、この部分が間違っていると批判したりしているわけではないのです。
    この限定された議論の空間の中では、私も同意できることなのですが、このコンテクストを、この映画に填め込んで批判することは100%間違っていると主張しているのです。そこがそもそも議論がかみ合っていない最大の原因なのです。
    だからこそ、こんな不毛な議論はペンディングして、まあ、映画を見て
    「様々な人間の、そしてつまらないと一見他者が思ってしまうような」ディテイルの部分を見てからにしてほしい、と水原さんが言いたいのであれば私にもわかります。

  34. 水原文人 Says:

    Jose Yacopi様
    > だからこそ、こんな不毛な議論はペンディングして、まあ、映画を見て「様々な人間の、そしてつまらないと一見他者が思ってしまうような」ディテイルの部分を見てからにしてほしい、と水原さんが言いたいのであれば私にもわかります。
    まさにそういうことです。mascka様はアメリカ在住で、まだ公開中のはずですから、まずはご覧になればいいのではないかと思います。
    ちなみに
    >ここで「障害」という言葉を填め込まず、たとえば、自己実現のために努力してきた人が、「突然無実の罪で終身刑になった」という設定に交換してみましょう。
    という例がまさに”ハリケーン”ことルーベン・カーターの例でしょう。
    ちなみに僕自身はスポーツが大嫌いで、ボクシングなんてなにが面白いんだ、という立場ではありますが(笑)。なにしろマーティン・スコセッシ監督に「なのになぜ「レイジング・ブル』なんて作ったんだ?」と聞いてしまったくらいです。スコセッシは爆笑して「その通りだ。私もボクシングなんてなにがおもしろいのかさっぱり分からない」って言ってましたが、しかし『レイジング・ブル』は傑作でしょう。まさに「様々な人間の、そしてつまらないと一見他者が思ってしまうような」、というよりもこの場合、完全に狂ってるとしか思えない生き方を、徹底してその主人公に寄り添って描いているからです。映画というメディアはとりわけそういうことが得意です。
    「障害者」の話に立ち戻れば、masckaさんにはぜひ、原一男の『さようならCP』もお薦めしたく思います。生身で人間が動いているのが映像になっているだけでも、ディテールの部分でそれまで想像もつかなかったことが見えて来ます。それから障害者、というよりもこの場合は公害病の被害者でもあるのですが、土本典昭の『水俣 患者さんとその世界』の胎児性患者の人々の姿も、ぜひご覧頂ければ、とは思います。上記2本はドキュメンタリーですから、まさに生身です。
    ちなみに、今私が編集中の次回作にも、胎児性患者の方は登場しますが。

  35. 水原文人 Says:

    補足:
    > macskaさんは、障害者とそれを取り巻く社会の問題にあまりにも無知な映画製作者に対しての批判として書かれているのだろうと思いますが、私には、障害と対峙したとき、スワンクやリーブの生き方まで、否定しているような印象をmacskaさんの文章から受けてしまうのです。
    こと『ミリオンダラー・ベイビー』のヒロインについて言えば、そのような印象を受けてしまわざるを得ないのが、Masckaさんが映画を作った側を批判しているつもりが、具体的な批判内容がその登場人物の選択を(映画を見ずに、つまりそこで描かれているはずの苦悩を見ずに)否定することでイーストウッドを批判しようとしてしまっているところです。
    エンゲルスのフローベール論を持ち出すまでもなく、作品というのはその作り手(芸術家)個人を超えて存在するものです。こと物語芸術、つまり登場人物の生き方を描く場合、実際にその制作過程で起こるのは、登場人物の方が作品をコントロールするということです。作り手の側はそれを真摯に追い、描写するしかなくなる。またそうでなければ、優れた物語芸術作品にはなりません。
    またmaskcaさんが2のコメントで書いている「なるほど、映画そのものの問題ではなく、観客の感性の方の問題なのかも」もまた、作品が作り手の意図を超えて存在することの一つの局面です。
    だからこそ、作品それ自体を見て自分が個人としてなにを感じたのかを無視して、プロットだけで批判することがまず誤っているわけです。映画作家としての表現行為はその映画のなかにしかないのですから。
    イーストウッドの政治的スタンスを批判するのなら、それはそれで独立してやればよかったのです。無論、映画を見た上でそこに政治的スタンスを結びつけて論じるのなら、そのこと自体になんの問題はないわけで、そこで初めて議論の土台が成立するわけなのですが。

  36. 水原文人 Says:

    こちらだけをご覧の皆様、
    この続きは
    http://macska.org/index.php?p=77
    にありますので、どうぞ。あるいはこのページ上のカレンダーの「25」日をクリックして下さい。

  37. ryu2net Says:

    議論からはずれてしまうかもしれないのですが、赤狩りとかの歴史からも、「プロットのみからイデオロギーが判断されてしまう」というシチュエーションが、映画にとってけっこうな「記憶」というか「悪夢」をよみがえらせるという背景もあるかもしれません。独裁に反対しながらプロパガンダ映画を撮らされ、プロット上は独裁を支持しながら、しかし映画では裏切るなんて複雑なことも行われるメディアですし。(これはメタファーを利用する文学でもいっしょですが。)そしてそれは本人の意思とも反するケースがある。友人から聞いた話ですが「華氏911で作者の意図に反してブッシュを擁護してしまっている」とゴダールがいったとか。(ちなみに、彼はこの時点で、映画そのものは見ずに言ってたりするらしいのですが(^^; )
    最近読んだ本では、内田樹「女は何を欲望するのか」で映画「エイリアン」の分析をしていました。単純に要約すると、フェミニズムを支持するようなプロットではあるけれども、映像上では見事にそれを裏切って反フェミニズムに読める映画である、ということ。こうして表層がプロットを裏切っていくケースって多いんですよね。そこが映画の魅力であり「魔力」であると思っているので、このコメント欄でついつい指摘してしまいました。
    ちなみに「ミリオンダラーベイベー」の撮影監督は照明出身。「ブラッドワーク」「ミスティックリバー」とイーストウッドとタッグを組んできましたが、照明出身らしい光と影のだいたんな対比が魅力です。言葉にすると陳腐ですが、無垢にさえみえるような輝かしい光が、じつは深い闇を作り出している。DVD版がでるのはすこし先になりそうですが、ぜひ感想をお聞かせください。

  38. Jose Yacopi Says:

    >言葉にすると陳腐ですが、無垢にさえみえるような輝かしい光が、じつは深い闇を作り出している。
    うんうん、とてもよくわかります(^^)  
    アカデミー賞の映画評論家の町山さんの予想ははずしまくりでしたね。競馬評論家であれば、信用をなくしているところです。
    見てきたような嘘をいう映画評論家・浜村淳さんがここで25分かけて、「ミリオンダラー・ベイビー」を解説しています。今日だけ聞けます。映画未見の人は是非聞いてみてください。
    http://mbs1179.com/arigato/
    >ブロット上は独裁を支持しながら、しかし映画では裏切るなんて複雑なことも行われるメディアですし。
    その通りですね。ブロットだけで映画がなりたつならば、撮影や演出などに関わる人々がよい映画を撮り評価を受ける理由がなくなってしまいます。
    Macskaさんの文章で問題なのは、ブロットだけで批判しているならばまだわかりますが、スティーヴ・ドレイクの映画評を主に下敷きにしていることでしょう。
    おそらくドレイクの障害者問題に関する社会批評などにMacskaさんは多くの点で日頃から共感していたのでしょう。その結果、ドレイクの意見の上に完全に乗ってクリントイーストウッドを批判している。
    少なくともドレイクは、自分の目で映画を見てバイアスがありながらも自分の立場からこの映画の影響を批判している。しかし、そのドレイクの滅茶苦茶バイアスのかかった批判とCNNの記事だけで、映画を見ずに暴走したことが多くの乱反射を読者に招いた原因でしょう。
    Macskaさんはあくまでも、この映画の批評をしたわけではない、という。
    この映画が招いた周辺への影響に関して批評を加えた、というお立場なのでしょうが、しかし、Macskaさんの文章を読む限り、中心にある映画とその周辺の「Not Dead Yet」という団体のアナリストの意見を、第三者として距離を置いて書いている文章とはとても思えない。
    ー連邦下院で証言までしている「反・障害者の権利」の論客とクリントイーストウッドを描き、明らかな差別主義者として印象操作としか思えないようなブロックを最後に置いているが、このブロックを読んだ人は、このようないざこざから、クリントイーストウッドは私怨で障害者を叩きのめすために、この映画を制作したと誤解する可能性大でしょう。これは実はRagged Edgeの記事を抜粋したものなのですが、ここも引用がないので、この団体がクリントイーストウッドを批判するために書いた記事と一言書けば問題なかったのに、”事実”として書いてしまっているので、これを読んだ人は完全にミスリードされます。
    一体どこまでが自分の意見で、どこまでが第三者として距離を置いて事実を描いたものかMacskaさんの文章では判然としない。整理がされていない、このことが多くの人を混乱に招いた原因でしょう。
    「ミリオンダラー・ベイビー」という映画があって、クライマックスの描き方で障害者団体から猛烈な抗議が来ている。クリントイーストウッドは実は自分の経営するホテルの問題で障害者から訴えられたことがあった。クリントイーストウッドが障害者に対して差別的な意識が前からあり、そのためにこのように障害者を描いた、という批判記事がRagged Edgeで掲載されている、くらいにとどめておけば、たぶんだーれも、あっそうなのか、そういうことが今アメリカでは争点になっているのか、なるほど、ということで終わっていたはずです。
    ただ、私はMacskaさんを叩きのめすために批判をしているわけでは毛頭なく、Macskaさんがこの文章を書いたときに、まさかこのようなアスペクトから批判が殺到するとは予想していなかっただけでしょう。

  39. 水原文人 Says:

    ryu2netさん、
    > 友人から聞いた話ですが「華氏911で作者の意図に反してブッシュを擁護してしまっている」とゴダールがいったとか。(ちなみに、彼はこの時点で、映画そのものは見ずに言ってたりするらしいのですが(^^; )
    ゴダール尊師は『華氏911』の社会的インパクトについてそう論評しただけではあるのですけどね。ちなみに最近ひどく停滞していて「『ゴダールの決別』じゃなくて「ゴダールと決別」だなんて揶揄されていた尊師は、新作『Notre Musique』で驚異の大復活を遂げられました。必見であります。
    >最近読んだ本では、内田樹「女は何を欲望するのか」で映画「エイリアン」の分析をしていました。単純に要約すると、フェミニズムを支持するようなプロットではあるけれども、映像上では見事にそれを裏切って反フェミニズムに読める映画である、ということ。
    うむ。実は同じような分析を、公開間もないころにロビン・ウッドがその記念碑的とされるホラー映画論でやってます。一応翻訳は、フィルムアート社刊「新・映画理論集成」の第1巻に収録されていますので、よろしければご参考に…(実は私が学生の頃に訳させられたんですが)。
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845998742/qid=1109782571/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-9264411-5605862
    私見では、この第1作で完全に刷り込まれてしまったミソジニー性をみごとにパロディとしてひっくり返したのが『エイリアン4』でした。あれはメタ・ジャンル映画として大変な傑作であります。
    >ちなみに「ミリオンダラーベイベー」の撮影監督は照明出身。「ブラッドワーク」「ミスティックリバー」とイーストウッドとタッグを組んできましたが、照明出身らしい光と影のだいたんな対比が魅力です。
    …というか、トム・スターンは先代のイーストウッド組DPジャック・グリーンのギャファーで、ジャック・グリーンはその先代のイーストウッド組DPブルース・サーティースのオペレーターで、この陰影の美学は実は三代の師弟関係に受け継がれたものなのでもありました。アメリカのDP、ディレクター・オブ・フォトグラフィというのは、いちばん大きな仕事が照明でもあります。ギャファーというのは、そのDPの指示で実際の照明器具の配置などをする人です。なおトム・スターンはジャック・グリーンだけでなく、まさに「陰影の巨匠」、孤高の天才撮影監督コンラッド・ホール(通称コニー、一応私の師匠でもありました・自慢)のギャファーでもあったわけで。
    本編をまだ見られてない(試写がまだ始まらない!)のですが、予告で見ると、今までのイーストウッド映画とはちょっと違う、ものすごくコニーっぽい照明設計にもなっていますね。
    Jose Yacopiさん、
    >ただ、私はMacskaさんを叩きのめすために批判をしているわけでは毛頭なく
    私もそうなんでして、ただ議論があまりにも乱暴な決めつけなのが気になっただけなのですけれど、どうもそう思ってない人がたくさんいるんでしょうね。

  40. 水原文人 Says:

    > 「プロットのみからイデオロギーが判断されてしまう」というシチュエーションが、映画にとってけっこうな「記憶」というか「悪夢」をよみがえらせるという背景もあるかもしれません。独裁に反対しながらプロパガンダ映画を撮らされ、プロット上は独裁を支持しながら、しかし映画では裏切るなんて複雑なことも行われるメディアですし。
    50年代のアメリカ映画では、とくに赤狩りを裏切りやらお目こぼしやら匿名やらなにやらで逃れた監督や脚本家(いちばん有名どころでは、『ローマの休日』の脚本は実は赤狩りブラックリストのダルトン・トランボが参加している)、それに第2次大戦でヨーロッパから亡命してそのまま住み着いてしまった監督たちを中心に、そういう表面的なプロットなどを映画そのものが裏切っている作品を、保守的なはずのスタジオシステムの枠内でずいぶんと作ってますね。
    マーティン・スコセッシはそうした作家を「スマグラー」と呼んで、彼のアメリカ映画史ドキュメンタリー『A Personal Journey with Martin Scorsese Through the American Movies』でずいぶんと詳細に論じています。ご本人も似たようなもんじゃないかと思ったら、先生は「今は違うね。ハリウッドにももうバレてしまったから」って笑ってました。
    イーストウッドもその世代の監督であるドン・シーゲルと組んで、ずいぶんそうした多面性を持った映画に出演してまして、どうも彼の監督としての根本的な素養のひとつであるようです。こと『ペイルライダー』あたりから、「大人の映画」性が露骨になって来ているような。『ミスティック・リバー』のあのエンディングには、同僚で頭を抱えていた人もけっこういました。「あなたは町の王なのよ」って…

  41. ryu2net Says:

    水原さん、ありがとうございます。
    >ゴダール尊師は『華氏911』の社会的インパクトについてそう論評しただけではあるのですけどね。
    今回も、もしかしたら同じように「社会的インパクト」という話はありかも、と感じました。(だとしたら映画を見なくても論評は可能。)もちろん、映画そのものの評価とは別にしないといけませんし、映画史を踏まえると、その手つきにはけっこう気を遣うところですね。このあたり、Jose Yacopiさんの指摘に納得でした。(それにしても、ゴダールの新作はすごい評判ですね! 早く見たい・・・。)

  42. 水原文人 Says:

    >今回も、もしかしたら同じように「社会的インパクト」という話はありかも、と感じました。(だとしたら映画を見なくても論評は可能。)
    まあねぇ。その方向性でクールにやってればいいのに、ドレイク評に全面賛同しちゃってイーストウッド個人批判に終始した挙げ句「というか、触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任」なんて書くから、こうやって異論が出て来ざるを得なくなるんですよね。25日の方に「社会批評」をやりたかったんだったらこんな論点はあったんですよ、っていうのを、59番あたりでやってますのでご参考まで…。
    > それにしても、ゴダールの新作はすごい評判ですね! 早く見たい・・・。
    日本公開は初夏の予定であります。配給会社はこちら
    http://www.prenomh.com/
    まだ情報出てないけど…。
    私は特別先行上映で見たんで、詳しい論評はこちら…
    http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000116642
    …の連載でやっております。
    って、ryu2netさんて『ミリオンダラー・ベイビー』見てるってことからして、アメリカですか? 一部都市限定で一応やったみたいですよ。アメリカのサイトで出てる評を、蓮実先生@日本映画批評界のカリスマ(笑)が「いったい何処を見ていたのか?」とボロクソにけなしておいででした。

  43. 水原文人 Says:

    失礼、リンクはこちらでした
    http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200502011200000000116642001
    さっきのリンクだと、かんなり凄まじくペシミスティックな日本映画の現状論が出て来てしまう…

  44. 水原文人 Says:

    また違った!
    正確にはこちらです(汗)
    http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200502011200000000116642000

  45. 水原文人 Says:

    > 「プロットのみからイデオロギーが判断されてしまう」というシチュエーションが、映画にとってけっこうな「記憶」というか「悪夢」をよみがえらせるという背景もあるかもしれません。
    …というよりですねぇ、そんなことで判断されてしまえば、じゃあワシらが一生懸命心血注いで映画作ってることはどうしてくれるねん? ってことになってしまうわけですね。もう至極単純にそういう話でしかない。
    極端な話、ビデオで見ただけだったら「それではオマエは俺の映画を見たことにはならない」ってインタビュー拒否するタル・ベーラというハンガリーの狂人もいるし、あのロバート・アルトマン大先生は
    「私は常に自分の映画に、一回見ただけではすべては気がつかないような要素を入れようとしている。もし私の映画が本当に好きならば、最低でも2回は見なければならない。できれば3回でもね。映画の隅っこの部分まで、すべてに内容を詰め込んでいるんだ。」
    と豪語しておいでです。
    http://www2.neweb.ne.jp/wd/quad/sub2/fujiwara/sub2-b6.htm

  46. ryu2net Says:

    水原さんのおっしゃるとおりですね・・・。
    たとえば極端な例として、ディズニーが『パールハーバー』という映画を撮って、その「社会的なインパクト」を語ろうとしたときに、やっぱり、それがディズニーの『パールハーバー』であったとしても(失礼・・・)、映画を見ない限りは断定したり、批評したりできないですよね。言えることはすごく限られる。イーストウッドが「硫黄島」を題材にスピルバーグと組む、ということも、見ていない時点(というかできてもいない時点ですが・・・)でできる批評の余地って、なかなかない。(見ていない以上「予想」しかできない。ただ、後者は見る前から心おちつかない・・・。)結局、テーマそのものよりも、語り口をみないかぎりは、批判できない。表層こそが問題になる、とか、形式こそが問題になる、ということなのかもしれません。ポストモダン以降は。。。
    映画を作る際には、人は自己言及的にならざるを得ない。その自己言及性、メタ性をどう処理するかという問題なんですよね。<これ、蓮実先生の受け売りですが(^^;(http://book.asahi.com/topics/index.php?c_id=168)

  47. 水原文人 Says:

    > たとえば極端な例として、ディズニーが『パールハーバー』という映画を撮って、その「社会的なインパクト」を語ろうとしたときに、やっぱり、それがディズニーの『パールハーバー』であったとしても(失礼・・・)、映画を見ない限りは断定したり、批評したりできないですよね。
    また社会的インパクトがただ先入観に囚われただけの誤解だけで成立しているケースも多々あるわけなんですよね。一言でいえば、映画館に座っていてもなにも見てないという。
    溝口健二の『元禄忠臣蔵』という、真珠湾攻撃の当日に第1部が公開された映画があるんですけど、当時の「情報省推薦」だかなんかで、松竹が膨大な予算をつぎ込んで歌舞伎のスターや他社からの俳優出演もあったりで(コアになってるのは元・共産主義歌舞伎の前進座)、要するに国策狙いの超大作。しかも忠臣蔵といえば男の世界で「女の情念の作家」溝口には似合わないネタ、と身内(当時)の新藤兼人(この映画の建築監督)まで言っていたりで、戦後評価は最悪であり続けて来てるわけなんですな。当時はまったく不入りでもあったらしいし。
    …で、僕も学生の頃にはそうした「先行批評」を鵜呑みにしてつまんないと思って見てしまっていたし、「カメラワークはすごいね」とか生意気言ってたわけですね。ところが最近たまたま、アメリカ製DVDで見直してみたのだけど、実はとんでもない傑作、溝口のなかでももっともシャープな作品のひとつであったりするわけでして。松の廊下実物大セットを初めとする史実考証の厳密さのなかで、その建築空間から衣装に至る、人物たちをとりかこむ環境のあらゆる要素が、彼らをがんじがらめにしている武士社会という制度のメタファーとして、文字通り彼らを閉じ込めている。そのなかで人物たちも、その制度の枠内でしか動けない人間たちとして、演出としては意図的に硬質な、ほとんど動かなかったり、形式に乗っ取った動きしかできない。極端な話、人物の顔よりも背中を写すことの方が多いくらい(→どっちにしろ家紋で誰だかが分かるわけで)。
    その厳格さの端々で、押し殺されたような生身の感情がほんの一瞬一瞬だけ垣間見えることの壮絶さ。溝口とは決して女の情念だけの作家ではなく、抑圧された人間の情念の作家だったことにほとんど初めて気がつきました。
    ところでこの忠臣蔵は、真山青果の原作戯曲の特徴のひとつが大石を勤王主義者として解釈してることなんだけど、その点でもっとも重要なシーンというのは、一見当時の忠君愛国天皇主義への目配せに見えて、その実天皇制というシステムそのものの本質すら鋭くうがってしまっていることにも、初めて気づいた。なんと天皇が内匠頭に同情しているという噂が京都にあると聞いただけで、「これで帝のご意志に反する不忠にならずに済む」と感謝感激して宮城遥拝しちゃう大石なのですから。
    …という、自分の未熟さの告白はさておき、昨年はこんな体験もしたわけで、スクリーンの前に2時間座っていてもなにも見ていないひとつの例として…
    http://www.melma.com/mag/39/m00098339/a00000026.html
    よろしければ、御読み下さいませ。

  48. tert Says:

    水原さん、こんにちは、はじめまして。(といっても、本当は例の香味庵でほんの少しだけお話させていただいたことがあり、ただそのときも名前をお名乗りすることもできなかったと思うのですが、、、)以上の議論、非常に興味深く拝読させていただいておりました。(というより、「勉強になりました」という方が正確です、、)唐突に、文脈と全く関係のない質問をしてすみません。私は現在パリ在住で、ポンピドゥーセンターでは13日までCINEMA DU REEL(http://www.bpi.fr)という年に1度のドキュメンタリー映画再が開催されています。何しろ審査員がジャ・ジャンクー、ロス・マッケルヴィーとあり、コンペティション受賞作品は見に行こうと思っているのですが、その他のプログラムについては皆目見当もつかず、もし何かご存知の作品がございましたら、教えていただけませんでしょうか?スペイン特集には、フランコ軍事政権下では反政府戦闘的ドキュメンタリーと撮り、その後は映像メディアの虚偽性自体をテーマに捉えているというBasilio Martin Patinoは未見ながらそのキャリアから非常に気にはなっているのですが、、、。もしよろしければ、どうか宜しくお願いします。もしこの場が不適切であれば、メールでも、、、。管理人様、失礼致します。

  49. ryu2net Says:

    http://macska.org/index.php?p=74
    も拝見しましたが、こわくてコメントできません・・・(^^;
    いくつか思いついたことを書いてみます。
    映画を「題材」や「プロット」のみで判断するのは、たとえば、障害者をその「障害」や「おかれている状況」だけで判断することに似ているかもしれない。そこで行われる「批評」や「判断」は、いずれの場合も暴力的です。仮に、善意に基づいていたとしても。これがまず大前提の話のような気がしました。映画制作者からすれば、映画は複雑な側面を多数持っている人格のようなもの、だったりします。(切れば血が出るような。)
    もうひとつ、うらにあるのは、歴史の問題かもしれないと感じます。障害者は、映画でもドラマでも、無視されてきたか、注目を集めるために利用されたか、感動のために利用されてきた。そういうふうに考えると、イーストウッドが障害者をヒロインに映画を撮ったといわれたとき、とっさに批判的になる、とかありうるかもしれない。(Macskaさんがそうした、という意味ではなく、一般論としてです。)逆に、映画側としても「プロット」「題材」で判断された悪夢があるので、映画の表層を見ずに判断をくだされると、よけいに顔をしかめてしまう。今でも、映画はイデオロギーに抑圧されている。お互いが、過去の歴史において「被害」を被っており、その記憶が議論に影響していないだろうか。
    あとは、被写体と撮る側という政治の問題(うえの歴史の話もかぶるけど)。撮られる側としての「障害者」と撮る側の政治的な力関係が、議論をややこしくするということはないだろうか、という話。ドキュメンタリー映画にはかならずついて回る問題ですね。「障害者」の描かれ方に、障害者側から異議申し立ては当然あり得る。イーストウッドは、そうした政治性の発露に意識的なので、僕は気にならなかったけど、身障者のかたからみるとどうなのかは分からない・・・。
    あと、原作を読んでいないので何とも言えないですが、イーストウッドの「意図」を探るには、「この小説を選んだ」ということを議論するよりも、小説から取捨選択されたエピソード(きっと、いくつかのエピソードは省略されているでしょうから)を議論したほうが有意義かもしれません。

  50. tert Says:

    うる覚えの知識をもとにお話してすみません。先のryu2netさんの3段落目を受けての話なのですが、例えばモニュメント・バレーでのジョン・フォードは、それこそ「プロット」的にはアメリカ先住民たちを悪役として登場させているわけですが、一方で、撮影現場でのフォードは、彼ら先住民との間に、そのような映画を作ることを前提にしての(そして当時彼らが置かされていた状況を考えた上での)、友好関係と信頼関係を築いていたと言います。で、ゴダールか誰かの「すべての映画はドキュメンタリーである」といった類の言を待つまでもなく、「プロット」を追うのではなく「画面」と「音響」に対峙する観客は、誰が悪だとかよりもその関係性に目を耳を傾けているはずだと思うのです。じっと画面を見ていれば、誰もフォードの西部劇で先住民がひどい扱いを受けているとは思いません。言うなれば、(もしかしたらどなたかの発言の繰り返しになってしまうのかもしれませんが)「悪役」や「障害者」などの一般定義は、「画面・音響」を元にした個人の責任ある体験からではなく、あくまでそこから目を伏せた「プロット」その他のみを追った場所からしか生まれないのではないでしょうか。そう考えれば、実は「プロット」などというものは、いくらでも書き換えを行うことが可能です。だからまずは、その「プロット」を誰が作ったのか、といったことも考えることは重要でしょう、、、と思うのですが。
    調査に基づいておりませんので、曲解があるかもしれませんが、ご容赦ください。
    ちなみに、僕はまだ「ミリオン・ダラーズ・ベイビー」は見ていません。すみません。フランスは今月末!!
    楽しみで楽しみで死にそうですが、よく気にして見るつもりです。

  51. 水原文人 Says:

    tertさん、ども。
    Cinema du Reelのプログラムについては、わたしゃさっぱり知りません(苦笑)。お役に立てず、ごめんなさい…
    >ちなみに、僕はまだ「ミリオン・ダラーズ・ベイビー」は見ていません。すみません。フランスは今月末!!
    Cahiers du Cinemaの最新号の表紙になってますね〜。編集代表も絶賛してたけど。
    >例えばモニュメント・バレーでのジョン・フォードは、それこそ「プロット」的にはアメリカ先住民たちを悪役として登場させているわけですが、一方で、撮影現場でのフォードは、彼ら先住民との間に、そのような映画を作ることを前提にしての(そして当時彼らが置かされていた状況を考えた上での)、友好関係と信頼関係を築いていたと言います。
    あそこで飢饉とか不作とかがあると映画が一本作られるという…。フォードの映画が地元を支える巨大公共事業みたいなもので(笑)、かつ観光PRにもなったっていうことらしい。で、物語構造上は「敵」である場合が多いとしても、撮り方それ自体はある種の畏怖すら感じさせるものになっているというのは、しばしば指摘されることです。『捜索者』や『馬上の二人』でどうしても悪役が必要になると、白人俳優がその役はやる、という。『アパッチ砦』に至っては、単純なプロット理解では「悪役」のようでいて、物語の構造上アパッチ族はまったく悪役ではなく、ただ歴史の大枠のなかで敵対関係にあっただけ(で、実は)というふうになっていたり。
    > 「悪役」や「障害者」などの一般定義は、「画面・音響」を元にした個人の責任ある体験からではなく、あくまでそこから目を伏せた「プロット」その他のみを追った場所からしか生まれないのではないでしょうか。
    大雑把に言ってそういうことだと思いますし、現代映画ではそのプロットによる枠組みがどんどん壊れています。それをある種古典性を背負った「ハリウッド映画」の構造のなかでも過激にやっちゃってるのがイーストウッドであって、彼の映画のなかである人物がなにかをするからと言って「それが肯定されているんだ」とか思い込むのは、まさに「映画館に二時間座っていてもなにも見ていない」の典型になってしまうわけですな。
    我々は別に「裁く」ためにキャメラ廻して編集機の前であーでもないこーでもないと悩むわけじゃないんで(というか、最初から「裁いて」いたら、たぶん悩めない)。

  52. tert Says:

    水原さん、ありがとうございます。うろ覚えの知識にご返答、さらに解説いただけまして、ありがとうございます。CINEA DU REELは自分で開拓してきたいと思います(笑)ありがとうございました。カイエには珍しくインタビューが掲載されていますね(もしかしたら、次号のポジティフの方が充実してるかも、、、と予想していたりするのですが(笑)。ともかく見たくて見たくでたまりません。オスカー万歳!!!
    「巨大公共事業」ですか(笑)私のあやふやな知識をフォローしてくださいまして、本当にありがとうございます。をしかし、「ある種の畏怖すら感じさせるものになっている」ためには、やはり相応のプロセスが必要とされるのですよね。例えば、土本典昭監督の作品でも、クルーが水俣の人々と行動と生活と対話をともにしていて、画面を見ていれば、自ずとその厚みが感動をして浮かび上がる。水原さんが指摘されていた「水俣一揆」での「被告側であるチッソの島田社長の側にキャメラがある」というのも、島田社長の顔が水俣訴訟にとっての「悪役」だなどという紋切り型を超えて、事件の責任者としてともに土本監督と映画を作っているという意識があり、それが彼の顔を被写体として輝かせているからなのでしょうか。(土本作品のフランス公開はないのでしょうか?去年は日本におらず、死ぬほど悔しい思いをしました、、、泣)
    逆に、完成までいたるプロセスの中に信頼・友好が育めなかったケースもあると思うのですが、もしかしたら、それが作品の相対的な良し悪しを決定する基準になりうるかもしれないと思います。例えば、フランスでは異様に評価を勝ち取ってしまったアルノー・デプレシャンの『王たちと王妃』では、主演女優とのモデルとな ってしまった、デプレシャンと私生活を共にしたことのある女優が、このモデルは盗用であるとして、彼らの生活をつづり彼に異をを唱えるという小説を書いています(未読ですみません、、、)。もしかしたら、ここには「差別」という言葉が生まれる契機があるのではないかと思えるのですが、いかがでしょうか、、、?
    では、イースウッドの場合はどうなんだろう、、、?ry2netさんの言うように「イーストウッドは、そうした政治性の発露に意識的」だとして、それがどんなものが、本当に本当に楽しみで仕方がありません!
    >我々は別に「裁く」ためにキャメラ廻して編集機の前であーでもないこーでもないと悩むわけじゃない
    >んで(というか、最初から「裁いて」いたら、たぶん悩めない)。
    本当に水原さんのそのとおりですよね。心から共感します。
    拙論、申し訳ありませんでした。

  53. 水原文人 Says:

    >例えば、土本典昭監督の作品でも、クルーが水俣の人々と行動と生活と対話をともにしていて、画面を見ていれば、自ずとその厚みが感動をして浮かび上がる。
    その辺りは、たぶん秋に完成予定(もう2年も取り組んでいるんで、完成させないと、ヤバい…)の私の新作『映画は生きものの仕事である〜土本典昭の軌跡』(仮)で、いろいろと意外な裏話的なことナドも含めて出て来ることになります…のはずです…のだと思う(汗)。
    >逆に、完成までいたるプロセスの中に信頼・友好が育めなかったケースもあると思うのですが、もしかしたら、それが作品の相対的な良し悪しを決定する基準になりうるかもしれないと思います。
    いやあ、映画にはしょせん映像と音しかないんですから、善し悪しの基準はやっぱり映画そのものの中にしかないんでしょう。それだと意識化・言語化しにくいんで、「専門家」になればなるほど周辺情報をめぐる知識量に依拠し始めて、結果として「映画館に座ってるのにみていない」結果になるんでしょうけど。
    『王と王妃たち』は当分日本では見られそうにありませんが、傑作であるらしいですよ。マリアンヌ・ドゥニクールとのスキャンダルも噂になってますが、「どっちが正しいか」なんて問題ではないような…。人間にはいろんな面があるわけなのだし、映画もそうだし。
    >では、イースウッドの場合はどうなんだろう、、、?
    ソンドラ・ロックとの泥沼離婚訴訟はまだまだ記憶に生々しいですけどね(笑)。確かソンドラが女復讐鬼を演ずる『ダーティーハリ−4』って、その騒ぎに発展する前段階じゃなかったっけ? なお『許されざる者』の娼婦のリーダーを演じたフランセス・フィッシャーとも、当時は“関係があった”はず。ありゃ凄い女優だと思ったけど、その後なんだか消えちゃったような…

  54. 水原文人 Says:

    ryu2netさん、カメですが…
    >あと、原作を読んでいないので何とも言えないですが、イーストウッドの「意図」を探るには、「この小説を選んだ」ということを議論するよりも、小説から取捨選択されたエピソード(きっと、いくつかのエピソードは省略されているでしょうから)を議論したほうが有意義かもしれません。
    どうも原作は短編集らしいですよ(stories by とある)。つまり「取捨選択されたエピソード」だけでなく、どの話とどの話を持って来てどう構成してるのか、の問題になりそうな…と思ったら、どうもまず脚本があって、イーストウッドはそれを読んでやることを決めたらしい。

  55. tert Says:

    水原さん、再度ご返事ありがとうございます!正直、水原さんにご指南いただけて、心から光栄です。
    >>逆に、完成までいたるプロセスの中に信頼・友好が育めなかったケースもあると思うのですが、もしかしたら、それが作品の相対的な良し悪しを決定する基準になりうるかもしれないと思います。
    >いやあ、映画にはしょせん映像と音しかないんですから、善し悪しの基準はやっぱり映画そのものの中にしかないんでしょう。それだと意識化・言語化しにくいんで、「専門家」になればなるほど周辺情報をめぐる知識量に依拠し始めて、結果として「映画館に座ってるのにみていない」結果になるんでしょうけど。
    本当に水原さんのおっしゃるとおりですね。ただ、少し補足させてください。僕は「王たちと王妃」は見たのですが、異論反論は当然あるでしょうが、僕にはあまりよい作品とは思えませんでした。(言語の聞き取りに相当な不安があったとはいえ、、、、、なのですが、、、)いろいろありますが、僕には、マリアンヌ・ドゥニクールがモデルになったと言われるエマニュエル・デヴォの主人公のキャラクターが、彼女は劇中多くの悲劇を被ることになりますがそれはともかくとして、充分に愛もしくは尊厳(こういうと陳腐ですが、、、)を持って作家に描かれている、もしくは画面に存在させられているとは思えなかったのです。一方、デプレシャンが自身を投影していると思われるもう一人の主人公マチュー・アマルリックは、デュヴォの悲劇に対して充分なシンパシーを示すことなく、責任は回避しつつ何となくなだめて物語を収めていく役割を与えられる。(なぜこんな2人のキャラクターを設定して、物語をつくろうとしたのだろう、という疑問も個人的にはあったのですが)ryu2netさんが引いてらした蓮實重彦さんの論を持ち出すならば、現実と虚構の対応関係があまりに単調すぎるように思えたのです。それで、マリアンヌ・ドゥニクールのスキャンダルについては後に知りまして、非常に作品の構造をも指摘する象徴的な出来事であるように思えたんです。(僕はずっと、映画を見ている間、「エマニュエル・デュヴォ、つらいよ、かわいそうだよ、別にこんな役引き受けなくてもいいのに、、、」とか思ってたもので、、、)というように、例え裏事情を知らなくても、「プロット」上の役柄以上に、製作プロセスでの関係性、もしくはその亀裂が画面から感じられるということがあるのではないかしら、、、と思うんです。もちろんそれだけでデプレシャンを弾劾する必要はありませんし、水原さんのおっしゃるとおり、「正しい」「悪い」の問題ではない。ただ、確かにデプレシャンの映画から「見えた」「聞こえた」ものが何であったかを、理解する手助けにはなるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
    イーストウッドの泥沼離婚訴訟は、殆ど知りませんでした。(確か史上高額の慰謝料でしたっけ?)
    『ダーティ・ハリー4』は確かに優れた作品ではなかったし、ソンドラ・ロックも微妙だった、、、
    大好きな『ガントレット』のときは恥ずかしいくらいラヴラヴ感が溢れていましたのにね(笑)
    フランセス・フィッシャーもそうだったとは、、、、
    どうもお手を煩わせてすみませんが、ご教示お願いします。
    『ダーティ・ハリー4』はちょっと不調の作品でしたね(笑)

  56. tert Says:

    すみません、最後の1行は消し忘れです。同語反復になってしまいました。

  57. tert Says:

    すみません、さらに補足させてください。「王たちと王妃」でのデプレシャンは、それが現実と虚構との対応関係にあまりに無自覚であるために、あらかじめスキャンダラスなどを引き起こす可能性を画面のテクスト内部に孕んでいる。そして、実際にスキャンダラスが起きようが起きまいが、観客はその自律した画面のテクストとしての亀裂を感じ取ることができるのではないか、、、。もしも「ミリオン・ダラーズ・ベイビー」を巡って、実際作品を見た人の間から非難が生じるとすれば、それは作品のテクストの構造そのものの欠陥に端を発していることはありえないか。だからこそ、当の作品を見ずに論ずることはほとんど不毛なのだとはいえないか。
    、、、というのが僕の所見ですが、どうか、宜しくお願い致します。

  58. tert Says:

    、、、ええ、すみません、さらに補足というか完結させてください。上の「現実・虚構」の対応関係の処理のうちに、
    例えば水俣の人々、先住民の人々とのあいだの映画制作を目的とした友好・信頼関係(もしくは共犯関係)が生まれるのではないか、という考えです。
    どうか、ご批判、ご指摘、お願いします。
    余談で申し訳ありませんが、水原さんのも含め、土本監督作品のパリでの上映予定はありませんでしょうか?僕は絶対世界最大の作家だと思いますので、是非実現して欲しい!と思うのですが、、、もしそのときは、通訳は難しそうですが、、、、何かお手伝いしたくてたまらないと思ってます。

  59. 水原文人 Says:

    >余談で申し訳ありませんが、水原さんのも含め、土本監督作品のパリでの上映予定はありませんでしょうか?
    僕のはまだ出来てないんで知りませんが、土本作品については、カイエ編集代表が『路上』と『水俣』を昨年北京で見たので、そのうちフランスでも話題になるのでは? アメリカでは一昨年から徐々にブームになりつつあるようだし。
    >例え裏事情を知らなくても、「プロット」上の役柄以上に、製作プロセスでの関係性、もしくはその亀裂が画面から感じられるということがあるのではないかしら、、、と思うんです。
    うーん、それだけ聞いているとなんだかアニミズムのように思えて来てしまいます。テクストは映画そのもののみであって、製作プロセスの関係性はすでに付随情報に過ぎないのでは…? 亀井文夫・三木茂の「ルーペ論争」とかもあるし。
    >すみません、さらに補足させてください。「王たちと王妃」でのデプレシャンは、それが現実と虚構との対応関係にあまりに無自覚であるために、あらかじめスキャンダラスなどを引き起こす可能性を画面のテクスト内部に孕んでいる。そして、実際にスキャンダラスが起きようが起きまいが、観客はその自律した画面のテクストとしての亀裂を感じ取ることができるのではないか、、、。
    それはもう、まったく知らない観客に見せてどう反応するかを実験するしかなさそうな…。一方でスキャンダルがあると結果として映画の興行成績には貢献しますが。やはり泥沼離婚闘争(って、結婚してなかったけど)のウディ・アレン&ミア・ファーローの最後のコンビ作『夫たち、妻たち』がそれまでのアレン作品の興行成績を塗り替えたとか…。

  60. 水原文人 Says:

    そうそう、
    >もしそのときは、通訳は難しそうですが、、、、何かお手伝いしたくてたまらないと思ってます。
    巨匠夫妻が渡仏すれば、まず案内役はとっても重要になると思います。あと口コミで噂を広めるというのも、とても大事なのでは…。

  61. tert Says:

    >巨匠夫妻が渡仏すれば、
    あ!!やりますよ!!惜しみなく、こんな場で宣言するとうそ臭いですが、できることをやります!僕は実は土本さんにはお手紙を差し上げたり電話で少しのやりとりをさせていただいたこともあり、当時ニュープリントだった「路上」と「海とお月様たち」(僕の人生の最愛のフィルムです!)を佐藤真さんのプログラムということで上映させていただいたことがあります。その際は、(誤解もあったのですが、、)僕のコーディネートのわかってなさから土本さんには激怒され、上映環境も不満足だったりで、その後土本さんとは相互理解をすることができたと思うのですが、非常に悔いが残っております。だからというわけではありませんが、暮らしていた場所の問題で見れていないフィルムも多いのですが、本当に大好きな、思い入れの強い作家です。そのときは是非!!宜しくお願いします!フランスにはビラまきの習慣がなくて残念ですが、それに類した草の根運動を思い切りやらせていただきます!!!(実は今日、パリ日本文化会館の受付のお姉ちゃんに、土本さんはやらないの?とか偶然聞いたりしていまし た(笑)。「土本さんはジャン・ルーシュよりも偉いじゃないか?」と乱暴な質問をしましたら、フランス人のお姉ちゃんも「確かにそうだ」と答えてくれました。今秋の特集は、正式の決定ではないですが、五所平の介になるそうです。)
    と、ここまで興奮して書き綴ってしまいましたが(本気ですので、宜しくお願いします!)、またもご返答、ありがとうございます。さらに述べたいこと、詳しくお聞きしたいことがあるのですが、とりあえずまた後ほど、書き込みいたします。

  62. tert Says:

    しかし、亀井文夫・三木茂の「ルーペ論争」!!こんなに映画の奥行きを捉えるエピソードはありませんよねえ泣)!(ちなみに僕は瀬川順一の「ルーペ」は悔しいかな未見です)この葛藤がないから、デプレシャンは駄目なんだ!と叫びたくなってしまうのですが、、、暴言すみません。

  63. macska Says:

    すみませんが、この議論の続きは以下でお願いします:
    http://macska.org/index.php?p=79

  64. tert Says:

    macskaさま、気がおまわらず誠に申し訳ありませんでした、、、。ご配慮、心から感謝いたします。私個人に限っては、非常に勉強になり、有意義な体験をさせていただいております。重ねて、感謝申し上げます。ありがとうございます。恐縮の限りですが、どうぞ宜しくお願い致します。 tert

  65. 雑色駅の夜はふけて・・・・・・・・・。 Says:

    映画というものは・・~ミリオンダラーベイベー編~
    TSUTAYAで借りていたミリオンダラーベイベー見ました。 し・し・し・・・・・・・・・渋い クリントイーストウッドといいモーガンフリーマンといいヒラリースワンクといいたまらない作品でした。 個人的にクリントイーストウッドのボソォっとつぶやく言い回…

  66. 白い月の鏡 Says:

     水原文人氏、macska氏、両者は「全然違う枠組み」でものを言っている。 そしてmacska氏は、この事に気付いていて「私の意見を(その枠組みである私の枠組みとは)違う枠組みで再解釈し直しての反論(つまり歪曲、曲解による反論)はしないで欲しい。迷惑だ」と言っている。 これに対して水原文人氏は、この事に半ば気付いているのかいないのか(いや多分気付いている。でないと以下のような論理展開は出来っこないから)、「お前の枠組みの設定はおかしい!」といちゃもんを付けているだけ。
     誰でも自分なりの枠組みで語る自由は当然あるが、他人の「違う枠組み」を尊重はしないと駄目だろう。 しかも、macska氏は、ちゃんとご自分の枠組みを明示的に納得できるかたちで説明しているのだから。これをしていないのならまだ「お前にとっては自明かも知れないことを前提にしてものを言うな」とクレームを付けるのなら納得できる。(仮定に基づいた「まだ、納得できる」以上ではない。 但し、この場合であっても、個人のブログなので「説明する義務」は無い)
     ま、それ以前に、水原文人氏は「映画の内容」と「引用している情報(町山氏の評論、ドレイクさんの発言など)」と「macska氏の意見」と「macskaの評価」と「一般論」と、、、その他諸々をキチンと区別できずに混同した上で、その自分の混同から曲解は発生し、この曲解に基づいて批判(というより最早感情的非難だが)をしているのですから、「論理的思考能力の劣った人」だと言わざるを得ないのですけど。

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