「正義の暴力」がもたらす認知の歪み、そして社会がゲームを非難できない理由

1/7/2005 - 9:50 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

けっこう話題になってるみたいだけど、読売新聞の記事「ヒーローものゲーム、子供の攻撃性増加の可能性」を読む。お茶の水女子大の社会心理学者・坂元章教授らの研究によれば、ただ単に暴力的な描写の激しいゲームで遊んでいる子どもより、魅力的な主人公が正義のために暴力をふるうゲームで遊んでいる子どもの方が「攻撃性」が増加する傾向があるという内容。非常に興味深い研究成果だと思う。

米国ではコロンバイン高校で起きた生徒による銃乱射事件以来、暴力的なゲームの影響で子どもが攻撃的になっているという世論が高まった。というのも、かの事件の犯人のうちの1人の自宅のパソコンから当時人気のあったゲーム「DOOM」が見つかったのだけど、それが実は普通のバージョンではなくて、武器は最強・弾丸は無限・敵の攻撃は一切無しといったチート改造を施した「ゴッド・モード」であったらしい。大量の銃器や弾丸で武装して無防備な他の生徒たちを追い回った犯行の状況にあまりに似ているため、ゲームによる影響が叫ばれるのも無理はなかった。

ところで、それから各地でコンピュータゲームを年齢によって規制する条例ができたし、そうした施策を正当化するような研究もたくさん発表されてきたのだけれど、わたしはそういった規制は胡散臭いと感じていた。日本などもっと暴力的なゲームがいくらでもあるのに米国ほど暴力的でない国がたくさんあるというのもその理由の一つだけれど、そもそも「暴力的なゲームは子どもを攻撃的にする」という論理は単純すぎるように思っていたのね。この種の研究につきものの問題だけれど、「もともと攻撃的な傾向のある子どもが暴力的なゲームを選好するのか、それとも暴力的なゲームをした結果攻撃的になるのか」という点を区別していない研究も多いし。

それに対して、暴力描写のコンテクストに注視して、攻撃性と関連があるのは「暴力」一般ではなく「かっこいい正義の味方が行う、正当化された暴力」であると指摘したのは、スバラシイ発見。もちろん、この研究にも「攻撃的な傾向はそうしたゲームを選んだ原因なのか、それとも結果なのか」という問題は論理的には残るけれど、攻撃性の強い子どもがその他の子どもよりことさら好んで「正義の味方モノ」を選ぶ理由はないように思えるので、わたしの予想としては多分「正義の味方モノで遊ぶと、より攻撃的になる傾向がある」という因果関係が正しいんだと感じる。この発見が興味深いというのは、ゲームと現実との関係が、ゲームの中で悪いことをすると現実でも悪いことをするようになるという程単純ではないという事をはっきり示してくれるからだ。

最近のミーガン法を巡る議論において、同じようにロリコンメディアや暴力的なポルノを消費しつつも犯罪をおかす人とおかさない人がいる理由は、現実感覚の有無(認知の歪みの度合い)ではないかと論じた。そして、小児性愛やサディスティックな性愛の持ち主が社会に一定数存在する以上、そうした指向・嗜好を地下に潜らせて閉じた空間でしかコミュニケーションできないようにするのは、現実感覚を鈍らせるのでかえって危険であるとも主張した。わたしには、このテレビゲームの問題も、画面の中の暴力描写をどれだけ見るか(プレイするか)よりも、そうした暴力を頭の中でどう捉えるか、すなわち認知の問題ではないかと思う。

これは単純に、ゲームの中で正義の味方を演じて悪者をやっつけるのがいけないという事ではない。自らが演じているゲーム内の、現実世界なら有り得ないような単純化された「正義」や、それによってカタルシスを得ている「自分」の「ヤバさ」に客観的に気付くだけの余裕があるのであれば、おそらく安全。しかし子どもにそんな事を要求しても仕方がないので、大人が一緒にゲームと現実の違いについて話をするなどして、単純な「正義」にマインドコントロールされないような受容姿勢を整えるということで過度の危険は防げるはず。

それよりよっぽど深刻な問題なのは、「正当化された暴力」がゲームやハリウッド映画といった単なるエンターテインメントにとどまらず、社会のどこを見ても「正義」を標榜する暴力が溢れていることの方ではないか。そういえば、コロンバイン高校の事件を取り上げた映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、あの事件が起きた当日、米軍がそれまでで最大の爆撃作戦をコソヴォで行っていたことを指摘していたが、そうした政治の最高レベルからはじまり、学校でも家庭でも会社でも、暴力そのものや暴力的な権力関係が、正しさの名のもとに受け入れられている。そうした環境の中に育ちつつ、普段世の中であまり権力を持たない子どもたちにゲームの中で「正義の味方」となって「正当化された暴力」を奮う機会を与えれば、暴力や正義といったことがらにまつわる認知的フレームを歪めて攻撃的な性向を強めるのは当たり前だ。

そうはいっても、わたしは何も「全ての暴力は絶対悪だ」と言いたいわけじゃない。むしろその逆だ。というのは、絶対正義の有り得なさ、あるいは正義の中の暴力性といったことに、社会がもっと敏感になる必要があるとわたしは思う。だいたい、世の大人たちだって、奈良の小学生誘拐殺害事件の報道に煽られてミーガン法みたいな極めて暴力的な施策を要求してしまったり、わが同胞を殺したテロリストに復讐せよとばかりに9/11事件とは全然関係ないイラクへの侵略を支持しちゃっているのに、子どもたちがゲームの中の「カッコいい正義の味方」にアイデンティファイして攻撃的になったところで驚くことはない。いまや、現実と空想が交錯しているのはゲームの中だけではないんだから。

ところで、この坂元教授らの論文、手に入らないかな。もっと具体的な調査手法とか知りたいし。ちょっと調べてみたところこうした発表は以前にも何度かやっているみたいで、今回たまたま報道されたということだろうけれども、出版されてはいない様子。お茶の水女子大に問い合わせてみようかなぁ…

6 Responses - “「正義の暴力」がもたらす認知の歪み、そして社会がゲームを非難できない理由”

  1. hotsumaのURLメモ。 Says:

    [Psychiatry] 認知療法の源泉は精神分析。
    >> 認知心理学的手法  かつて効かないと言われていた俗流精神分析療法やカウンセリングなどに代わって近年注目を集めているのは、受刑者の持つ認知の歪みを修正し、他者を脅か…

  2. rna Says:

    些細なことですが、事件のあった1999年の時点ではDOOMはかなり古いゲームで「当時人気のあった」というのは微妙です。DOOMが93年、DOOM2が94年。当時ヒットしたFPSと言うとQuake2(97年)、Half-Life(98年)。

  3. Macska Says:

    確かに「当時」というにはちょっと古かったですね。ま、あれだけの大ヒットですし、最初のリリース以降、何年も後まで様々なゲーム機に移植されたりもしたので(知らなかったのですが、GBA 版まで出てるんですね)、全体として見れば当時 DOOM やっていた人はかなりいたんじゃないかと。

    でも、もしかして犯人が DOOM をやっていたというのはわたしの記憶違いかな、と思ってちょっと調べてみたのですが、やっぱり事件の3ヶ月前にエリック・ハリスが学校の宿題で DOOM についての作文を提出していたりと、やはり犯人は DOOM に熱中していたようです。とはいえ、あそこまで卑怯なチートを使ってどこが楽しいんだかわたしにはわかりませんが… id はのちに事件の被害者に訴えられたりと災難でした。

  4. wouldbe Says:

    たぶん以下の論文だと思います。
    Shibuya, A., & Sakamoto, A. (2004) The quantity and context of video game violence in Japan:
    Toward creating an ethical standard. In R. Shiratori, K. Arai, & F. Kato (Eds.),
    Gaming, simulation and society: Research scope and perspective. Springer-Verlag. Pp. 111-120.

  5. rna Says:

    う、Half-Life2 一度クリアした後はチートでイントロの憲兵みたいな奴らとか演説中の独裁者とか一方的に殺しまくって遊んでた僕… そういやHL2も一応「ヒーローが悪を倒す系」だなぁ。微妙に違うけど。

  6. Macska Says:

    おお、ありがとうございます> wouldbe さん
    さっそく大学の図書館に注文してみます。

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