北米社会哲学学会報告1/性的指向、ホモフォビアと、ディスオリエンテーションの可能性

2008年7月28日 - 10:52 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

先週わたしは、ポートランド大学(わたしが以前講師をやっていたポートランド州立大学ではなく、カトリック系の私立大学)で開催された North American Society for Social Philosophy(北米社会哲学学会)の年次総会に参加した…というか、潜り込んで勝手に発表を聞いた。基調講演にも50人程度しか来ないような小さな学会であり、ほとんどの参加者はお互い何らかの面識のある同士でもおかしくないわけで、ネームタグも付けずに参加した部外者のわたしの存在は怪しまれていたかもしれない。でもせっかく参加したのだし、たまたま今年のテーマが「ジェンダー、平等、社会的公正」ありわたしが関心を持つ話題が多かったので、何回かに分けてそこで聞いた発表をいろいろ紹介したい。
最初に行ったのは性的指向とホモフォビアについてのパネルで、最初の発表者はカナダ・ダルハウシー大学の Ami Harbin。彼女は、Sara Ahmed のクィア現象学 (“Orientations: toward a queer phenomenology.” GLQ: A Journal of Lesbian and Gay Studies. 12(4):543-574.) を参照しつつ、強制異性愛主義社会においてクィアな性的指向 sexual orientation を生きるうえで人々が直面する「性的な失見当識 sexual disorientation」をキーワードとして、強制異性愛主義を解体するための哲学的な戦略を探る。
日本でも「オリエンテーション」という言葉は、新入生や新入社員が新しい環境にうまく溶け込めるようにするための教育的行事、程度の意味で使われていることから分かるように、周囲のある一定の約束事(なにが正しくてなにが正しくないか)や作法(どう行動すべきか)を受け入れ、それに馴染むことを意味する。「失見当識」(ディスオリエンテーション)とは、時間や空間といった状況を正しく認識(オリエンテーション)できなくなった状態を指す。
性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)という言葉も、自分は異性愛者だとか同性愛者だという一定の自己認識を指す言葉であり、そうした自己認識は歴史的・文化的に普遍的に存在するものではない。同性間の性的な欲望や接触はどの時代にもあっただろうが、「人には誰でも異性愛・同性愛・両性愛といった性的なオリエンテーション(一定の決まった指向性)がある」という考え方は、近代に特有の思想だとされる。
強制異性愛主義社会においては、幼い子どものうちから異性愛者であることを自明の前提として扱われるため、クィアなセクシュアル・オリエンテーションを抱える人は、生まれながらに与えられたコースから一度脱線しなければ、自分の生きたいようには生きられない。その脱線は、本人だけでなく家族や周囲の人も巻き込んでディスオリエンテーションを起こす。ディスオリエンテーションは基本的に不快で辛い状態だが、しかしそうしたディスオリエンテーションにこそ、強制異性愛主義を揺るがす新たな可能性も孕んでいると Harbin は指摘する。
そのことをよく表している例として Harbin が挙げるのが、モイセス・カウフマンの戯曲「ララミー・プロジェクト」と、それを原作としたドキュメンタリ風の映画だ。ララミーはワイオミング州にある小さな街で、ゲイである一人の大学生がヘイトクライム(憎悪犯罪)によって柵に縛り付けられた状態で暴行を受け殺害された事件で一躍有名になった。突然起こった痛々しい犯罪と、集中豪雨のようなマスコミの注目を受け、ララミーというコミュニティ全体が一種のセクシュアル・ディスオリエンテーションに陥いる。その中で、この街の多くの住民たちは、おそらくはじめてクィアたちの存在とかれらが置かれている状況と向き合ったのだ。
多くのゲイ&レズビアンの活動家たちは、異性愛者が何の疑問も葛藤も抱かずに異性愛者としてのオリエンテーションを獲得できるように、ゲイやレズビアンの人たちも同性愛者としてのオリエンテーションに安住できる状態を求めがちだ。しかし Ahmed によれば、ディスオリエンテーションを隠避する考え方は同性愛者(や性同一性障害者)としての一貫した自己認識を理想化する一方で、固定的な性的なあるいはジェンダーのカテゴリに同一化することを望まない−−必ずしもオリエンテーションの獲得を求めない−−クィアたちを疎外する。
Harbin が推奨するのは、ディスオリエンテーションをただ単に隠避するのではなく、ディスオリエンテーションがもたらすクィアなオリエンテーション、ディスオリエンテーションとリオリエンテーション(再オリエンテーション化)に開いた、固定的でないセクシュアル・オリエンテーションのあり方だ。それは自分自身が誰を性的対象として選ぶかという問題ではなく、マイノリティにディスオリエンテーションされた状況で孤立させない、コミュニティ全体でディスオリエンテーションに巻き込まれつつ、新たな可能性を探る、という倫理を必要とする。
Harbin の次に発表したのは、地元ポートランド大学の社会学者 Martin Monto。自分は哲学者ではないので場違いかもしれないが、哲学の視点から自分の研究について意見を出して欲しい、とのことだったが、発表を聞くとどうも心理学っぽい研究内容で、そもそも自分の学部で既に場違いの可能性がありそうだ。その研究とは、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の度合いを計るための有効な質問票を作るというもの。さまざまな方向から質問票の妥当性は検証されており、心理学的指標の研究手法としてはオーソドックス。
ホモフォビアという用語はまだ同性愛が精神疾患とみなされていた時代に生まれ、同性愛者への嫌悪や差別意識という意味で使われている。その度合いを計る質問票は既にいくつも作成されているが、Monto によればこれらの質問票の多くは、実際にはホモフォビアより広い概念であるホモネガティヴィティを計測している。ホモネガティヴィティとは同性愛者や同性愛に対する否定的な態度のことであり、同性愛者に対する嫌悪や差別意識といった「感情」と、同性愛者の社会的な扱いや権利をどうするかという「政治的意見」を区別していない。
しかし、ある人が同性愛者に対する嫌悪や差別意識を持っているからといって、差別しても良いと考えているとは限らない。むしろ逆に、自分の中にも差別的な意識や感情があるのを認めつつ、それでも社会的な差別は撤廃していくべきだと考えている人だって−−性的指向差別に限らず、人種差別や性差別においても−−世の中には大勢いる。ところが、感情と政治的意見を区別して計らない既存の質問票は、同性愛者の権利に肯定的な人はそれだけで「ホモフォビアのない人」と判定してしまうため、政治的にリベラルな人たちが抱える同性愛者への嫌悪感情や差別意識をアイデンティファイすることに失敗している。
Monto が生み出したのは、あくまで「感情や意識におけるホモフォビア」を計るための質問票だ。この質問票というのは、たとえば「あなたの同僚の同性愛者が、自宅でかれのパートナーを含めた三人で映画を観ないかと誘ってきました」のような現実にありそうなシナリオが多数与えられ、その状況でどの程度不安や不快感を感じるか応えさせる形式。これは、Monto 自身が若い頃小さな街のガソリンスタンドでアルバイトをしていた頃、客の男性から「この街ではどこに行けば(セックス相手の)男と出会えますか?」と聞かれてひどく不快に感じた経験をヒントにしている。かれは当時から同性愛者の権利には肯定的で、自分はホモフォビアとは無縁なリベラルだと自認していたけれども、もしあの客が「この街ではどこに行けば女と出会えますか?」と聞いていればそれほどの衝撃を受けることはなかったことに気付いたという。
これらのシナリオについて「不安や嫌悪を感じる」と応えたからといって、もちろんそれは必ずしも「相手が同性愛者だから」不安や嫌悪を感じているということにはならない。たとえば、映画に誘ってくれた人が同性愛者であろうとなかろうと、カップルの家に一人で行くのは気まずいと感じる人は多いだろう。でも対照実験を行い、対照群には登場人物を「異性愛者」に置き換えた以外はまったく同じシナリオを与えて応えさせたところ、同性愛者が出て来るシナリオにおける被験者の不安度の方がかなり高いことが分かる。あ、もちろん被験者は全員異性愛者だけで、同性愛者の「内面化されたホモフォビア」についてはまだ調べていないらしい(おそらく別の指標が必要)。シナリオに出てくるのがゲイ男性の場合とレズビアンの場合で違いはあるか(おそらくある)、あるいは被験者の性別と登場人物の性別がどう関係するかなども、今後の課題。
例として配られたシナリオの部分リストを見ると、どうも同性「カップル」をめぐるシナリオばかりが目立つ。しかし全ての同性愛者が「恋愛感情とセックスを介在した、長期的かつ排他的な一対一の関係」を持っているわけではないことを考えれば、カップルが出てくるシナリオで不快感の有無を計ったところで、それ以外の生き方をする同性愛者たちに対する嫌悪や不快感の有無は分からないままだ。
もちろん、これはある意味仕方がない面もある。人種や性別と違って性的指向は個人をいくら見ても判断がつかないので(人種や性別についても厳密には判断できるとは限らないけれども、とりあえず「判断できる」かのようにふるまっても社会的規範を逸脱しない)、カップルを登場させなければ何に不安を抱くか調べようもないのだろう。また、カップル以外の生き方をする同性愛者、たとえば Monto がバイトしていたガソリンスタンドに現れた男性を登場させてしまうと、報告された「不快感」が性的指向に基づくものなのか、それ以外の要素によるものなのか判断しづらくなる。
たとえば、もしガソリンスタンドのシナリオが質問票に含まれていたとしたら、そのシナリオにある人が感じた「不快感」がホモフォビアに基づくものか、性的指向に関わらずカジュアル・セックス一般に対するものなのか、あるいは性的な話題を赤の他人が振ってきたことが不快なのか、判断は難しい。対照実験をしたとしても、では異性愛者の「女性」が「セックス相手の男性」を探しているシナリオと、レズビアンが「セックス相手の女性」を探しているシナリオを比べた結果は、どのように解釈されればいいのか。どこまでが強制異性愛主義に基づくもので、どこからが女性性のジェンダー規範によるものなのか、区別できるとは思えないし、区別されるべきだとも思わない。
Monto の研究は、過去の「ホモフォビア指標」がホモフォビックな感情的反応と政治的意見という二つの水準を混同して一つの指標にまとめてしまったという問題を解決するために、単一次元的な指標を作ろうとするものだった。しかし現実のホモフォビアは、単一な次元ではなく多数の要素が複雑に絡み合った文脈において起きている。その中からあえて他の要素が絡まない「純粋なホモフォビア」だけを取り出そうとしても、それは「ゲイであることを除けば、それ以外はあらゆる面で社会の主流たるマジョリティの側に立つ」人たちが抱く関心だけを特権化することにしかならない。ほかの要素が絡まない「純粋なホモフォビア」とは、すなわち白人/男性/中流階層/健常者/etc. という属性を持つゲイたちが経験するホモフォビアであり、それ以外の同性愛者やクィアたちが向き合わされているホモフォビアとは文脈も影響も違う。
こうした社会的文脈への無関心というか無頓着さこそ、もともと心理学専攻だったわたしが心理学を嫌いになった理由の一つなのだけれど、哲学のコンファレンスに来て社会学の助教授からこんな発表を聞くとは予想外だった。とはいえ、心理学の研究として見ればインダストリー・スタンダードは十分に満たしているし、Monto 自身が若い頃ガソリンスタンドで自分自身の抱えるホモフォビアを自覚して衝撃を受けたように、被験者にあのような質問票を突きつけること自体が良い意味での「セクシュアル・ディスオリエンテーション」として機能しているのは事実なので、今後の研究に期待したい。
現時点でメモ35枚のうち5枚目まで消費したところ。以下つづく。

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