宗教者によるいいかげんな教典解釈と、自己保身的なご都合主義

7/26/2008 - 8:33 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

デルタGのサイト(いつも読んでます頑張ってください)において、レズビアン&ゲイのイスラム教徒の姿を映したドキュメンタリ映画『愛のジハード』の評論を読んでいて、気になった部分があった。向こうのコメント欄ではじめた議論だけど、長くなってしまったのでこちらに書いてトラックバックすることにする。まず、以下はその評論の最後の部分から引用。

同性愛を弾圧するヘテロ男教徒の宗教解釈は、ほんとうにいいかげんだ。
  ・同性愛者は罪人だ。
  ・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。
  ・だから、同性愛者は皆、死刑に処すべきだ。
ふたつの前提の是非はともかく、この論法にはとりあえず矛盾はない。
しかし、同じ聖典において、そもそも人間は、罪を犯したために楽園を追われ、原罪を抱えた存在だったはずだ。
そうであるならば
  ・人間は罪人だ。
  ・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。
  ・だから、人間は皆、死刑に処すべきだ。
何故こうはならないのだろう。
イスラム教で、同性愛者が皆死刑なら、人間は皆死刑のはず。
ご都合主義の自己保身は、たいがいにしてほしいものだ。
http://www.delta-g.org/news/2008/07/post-177.html

宗教の教典解釈がご都合主義だというのはその通りだと思うのだけれど、「そもそも人間は、罪を犯したために楽園を追われ、原罪を抱えた存在だった」という部分はキリスト教に特有の教義で、同じ創世神話を持つユダヤ教にもイスラム教にも当てはまらない。ある教典(コーラン)の解釈(同性愛者は死に値する罪人)が他の宗教の教義と衝突するからといって「ご都合主義の自己保身」「ほんとうにいいかげん」とまで言うのはおかしいと思い、コメント欄にそう書いたのだけれど、それに評論を書いたいぬさんが返答してくださった。

macskaさん
コメント有り難うございます。
確かに、原罪という概念は、キリスト教が該当箇所をピックアップしたことで有名になったのでしょうが、楽園追放のオリジナルの記述は、コーランにあります。
イスラム教徒が何を信仰しているか。それは、イスラム教徒の現在のマジョリティがコーランから何を読み取っているか、ということ。現在の流行の解釈にすぎません。
神の言葉から、同性愛否定を読み取るのなら、原罪も読み取ってもいいでしょう。
同性愛否定は読み取り、原罪は読み取らないのなら、それは、その時代の権威、神の権威ではなく現世の人の権威を参照して解釈を決めているのでしょう。
絶対的な権力は神のみにあるというのに、神の言葉を取捨選択をする権力は社会規範という偶像に与えられている。
教義(たかが時代の流行)も、信仰(たかが時代の流行)も偶像であって、ただ、神の言葉が重要なのではないでしょうか。
http://www.delta-g.org/news/2008/07/post-177.html#comment-2353

たしかに「楽園追放の記述」はコーランにもあるだろうけど、そこから原罪という教義を紡ぎ出したのはキリスト教の特色であって、その記述から直接導き出せる解釈ではない。そもそも「原罪」という概念は、「人間の本性とは何か?」という、宗教にとって根本的な問いに関わってくる教義。それほど重要な問題において、キリスト教に特有の教典解釈をイスラム教徒に押しつけて論難するような真似は良くないと思う。

教義なんて「その時代の権威、神の権威ではなく現世の人の権威を参照して解釈を決めているのでしょう」というのは、わたしも信仰者でないから(神の権威なんてないと思うから)その通りだと思う。でもそれは同性愛否定派の側だけでなく、同性愛者の権利を主張する側も同じことをしている。評論から再び引用する。

イスラム教での同性愛否定の根拠として真っ先に挙げられるのは、ソドムとゴモラでの、男が男をレイプした罪にアラーが怒り罰を与えた記述。
ゲイの聖職者のかたは、該当部分について、罪であるのは男と男の性行為という点ではなくレイプである点だと言う。
全くもってその通りだと思う。
更に、ヘテロ男聖職者が男と男の性行為の部分を罪と強調するのは、同性愛弾圧のためだけではなく、男の女へのレイプを不問にするためではないかと勘繰ってしまう。
http://www.delta-g.org/news/2008/07/post-177.html

コーランの該当箇所(第11章78節)を読むと、「男が男をレイプ」しようとしたとき、それは罪になるから代わりに「女をレイプ」せよ、という話が書かれている。これを一体どう読めば「罪であるのはレイプ」と解釈できるというのだろうか。もし本当に「同性愛弾圧のためでなく、男の女へのレイプを不問に」しようとしているのであれば、この記述を大々的に宣伝して「ほらみろ、コーランは男の女へのレイプを認めているぞ」と主張できるほどなのに。

念のために言っておくと、わたしは信仰者ではないからコーランも聖書も「神の言葉」ではなくどこかの人間の言葉だと思っているし、ご都合主義的な解釈もまったく否定しない。というよりむしろ、どう読んでもレイプを肯定しているとしか思えない、過去の人間社会の価値観を反映した文章から、「レイプは罪である」という現代の価値観に摺り合わせた解釈を捻り出すことができるのであれば大歓迎。いいかげんな解釈万歳、ご都合主義万歳だ。

そうした解釈はもちろん通常の文章読解方法ではまったく不可能で、「あくまでコーランには正しいことが書かれている」という原理主義的信仰に従って教典の文意を「読み違える」努力が必要。キリスト教における原理主義研究が明らかにした通り、原理主義とは「教典に書かれていることは全て文字通り正しい」という信仰ではなく、「教典に書かれていることが全て正しくなるように」文字通りの解釈とそうでない解釈を自在に行き来する作法を指す。

いぬさんの意見を読むに、どこか「神の言葉を記した教典というのは、本質的に、なにか素晴らしいことや世の中を正しい方向に導くことを教えるものである」という前提があるのではないかと思う。もしそうした「宗教性善説」をとるなら、教典解釈を厳格にして俗世のご都合主義や保身を排すれば−−「ただ、神の言葉が重要」と受け入れれば−−社会は良くなる(たとえば、同性愛者や女性への抑圧がなくなる)ことになる。でも実際には、宗教というのは世俗社会(や他の信仰共同体)の価値観やあり方と対立することが歴史的にも世界各地でも多々あるわけで、世俗社会の側から言えば「教典を厳格に解釈し、ご都合主義や自己保身を排した」宗教の方がよっぽどおそろしい。

ようするに、いぬさんは「ヘテロ男教徒」を批判して「宗教解釈のいいかげんさ」や「ご都合主義の自己保身」を「たいがいにしてほしい」と言ったけれども、いいかげんな解釈やご都合主義や自己保身は全然問題じゃないの。むしろ、世間の流行に合わせていくらでも教義解釈を変え、世間の常識をわきまえてご都合主義や自己保身をはかる宗教の方がはるかに助かる。「ソドムとゴモラの話は、同性愛ではなくレイプを禁止したもの」という解釈は、わたしから見ると不誠実な信仰に思えるけど、素直に解釈して「同性愛は罪であり、異性間のレイプはOK」と考える人が増えるよりは不誠実な方がずっと良い。さまざまな宗教において同性愛者や女性の権利が認められてきたことだって「たかが時代の流行」なんだから、流行も捨てたものじゃないと思う。

いぬさん自身も「ゲイの聖職者」による、明らかにご都合主義的かつ自己保身的な「教典の読み替え」(罪は同性愛ではなくレイプ)を肯定してしまっているように、問題なのは「宗教解釈のいいかげんさ」でも「ご都合主義の自己保身」でもなく、男性中心主義と異性愛中心主義でしょう。そして、それはあとから来た「ヘテロ男聖職者」が勝手に教典を読み替えて作り出したわけではなく、「神の言葉」を聞いたと称し、教典を書き記した初代「ヘテロ男聖職者」たちが住んでいた社会に、はじめから存在していたものだと思う。

One Response - “宗教者によるいいかげんな教典解釈と、自己保身的なご都合主義”

  1. macska Says:

    コーラン第11章78節について、pyridoxinさんから異論が来ているのでお応えします。

    調べてみた

    アル=クルアーン
    > 11-78.人びと(ルートの民)は急いでかれの許に来た。
    > これまでかれらは、汚らわしい行い(男色行為)をして
    > いたので、かれは言った。「わたしの人びとよ、ここに
    > わたしの娘たちがいる。あなたがたにとっては(娘たち
    > と結婚することが)最も清浄である。アッラーを畏れな
    > さい。わたしの賓客に関して、わたしに恥をかかせない
    > でくれ。あなたがたの中に、正しい心の者が一人もいな
    > いのか。」
    > http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran011-2.htm

    なんか違う…

    この部分ですが、まず単に「汚らわしい行い」をしていただけでなく、そうした人々が来客の男性(天使ですが)をレイプさせろと押し寄せていた、という解釈については、この記述は同性愛を罪と見なす根拠であると主張する人たちも、いやそうではないと反論している記事中の「ゲイの聖職者」も了解していることなので、詳しく説明はしません。前後の文脈からそうなるとみんな思っています、ということで勘弁してください。

    そのうえで「娘たちとの結婚を勧めているのであって、レイプを容認しているわけではない」という可能性について答えますが、わたしの理解するところだと(わたしには読めないので伝聞になりますが)原文には括弧内の「娘たちと結婚することが」という説明が含まれていません。レイプさせよと押し寄せている群衆に向かって「男性には手を出すな、娘たちがいるからそっちにしろ」と呼びかけているわけで、レイプ容認と読むのが普通でしょう。結婚を勧めているという括弧内の説明は後世の翻訳者による付け足しです。(さらに言えば、その付け足し自体が、レイプはいけないけれども「結婚すればレイプではない」という、現代ではだんだん通用しなくなりつつある過去の価値観を反映していますね。)

    結婚推奨ではないという解釈には、外部的な根拠があります。まず、同じ物語がコーラン第15章71節でも再び語られていますが、そこでは結婚の勧めはなく「もしあなたがたが行おうとするなら、ここにわたしの娘たちがいます」と書かれています。「行なおう」としている行為がレイプである以上、娘たちに対するレイプが容認されていると解釈するのが自然でしょう。また、同じ物語を伝える旧約聖書の創世記第19章にも結婚の勧めはありません。

    さらに、ソドムとゴモラの教訓がレイプの戒めではなく同性愛の戒めであったことは、第26章165-166節、第27章54-55節、第29章28-29節、とこれでもかと繰り返し説明されています。それらを読み比べれば、「罪は同性愛ではなくレイプである」という解釈がいかに無謀なものであるかわかると思います。もちろんわたしは、そうした「無謀な読み違い」を支持しますが。

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