女性運動の歴史の否定の上に成り立つ「ジェンダーフリー」概念の「豊かさ」

2006年12月12日 - 3:03 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

とりあえず今年の仕事は大方片付き時間ができたので、かなり前に取り上げ続編を予告しておきながらしばらく放置していた若桑みどり他編著『「ジェンダー」の危機を越える!』の話題に戻りたい。今回は第3部「バックラッシュに抗うまなざし」から伊田広行氏による文章「フェミニストの一部がどうしてジェンダーフリー概念を避けるのか」を取り上げる。「ジェンダーフリー」なんてもはやいまさらどうでもいいような気もしないではないけど、まぁ暇な人は読んでください。
一読しての感想を一言にまとめると、この文章は相当嫌らしい。タイトルの通りフェミニストの中に「ジェンダーフリー」という概念を避けたり批判したりする人が少なからず存在することに対して、かれは誰の具体名も挙げず、具体的な主張や批判を引用・検証しないまま、あるいは批判をかなり矮小化したかたちで紹介したうえで、ジェンダーフリーとはこういう素晴らしい概念なのだからそれを避ける人はどこかおかしいのだと決めつけている。例を挙げよう。

ジェンダーを豊かに理解すれば、中立的分析道具だけではないので、ジェンダーの価値性、さらにジェンダーフリーという使い方に拒否感は出ないはずである。(中略) 概念を専門的研究者の特権的所有物とみる人や、外国の権威の一部、つまり外国の有名なフェミニストの文言は使うが、自分が住んでいる日本のなかの運動現場で使われていることには鈍感な人が、ジェンダーフリーに違和感を持つのである。

ここで伊田氏は、ジェンダーフリーという言葉に違和感を持つ人たちは「ジェンダーを豊かに理解しておらず」「外国の有名なフェミニストの文言ばかりありがたがっている」「鈍感な人」なのだと決めつけている。しかしかれの理解がより「豊か」であるというのはかれ自身が勝手にそう言っているだけであり、要するに「自分よりも外国の有名なフェミニストの考え方に賛同するのは許せん」と言っているだけに過ぎない。しかしいったい、いつから「自分(たち)が住んでいる日本のなかの運動現場」が伊田氏の特権的所有物になったのだろうか。運動現場には何があっても「ジェンダーフリー」を全面擁護する伊田氏のような立場の人もいれば、そうでない立場の人だっているはず。自分と意見が違う人は権威主義的で鈍感だと決めつけるのは、それ自体権威主義的で鈍感ではないのだろうか。
続いて、伊田氏はジェンダーフリーに反対するフェミニストたちは、ジェンダーフリーとは「男女区別がなくなり、皆が同じようになり、均一的で退屈な社会」を目指しているという、「よくあるフェミニズムへの無理解と類似した思考・感覚を無意識のうちにもってしまっているとも考えられる」と言う。かれに言わせれば、それは「平等」と「多様性」を対立させて考えるという「ジェンダー平等の理解の浅さ」が背景にあるという。しかし伊田氏はそうした「無意識」的な思考・感覚が垣間みられるような発言や主張を一切紹介していない。わたし自身、保守の反ジェンダーフリー論者が「ジェンダーフリーは男女の画一化だ」的な批判をしているのを見た事はあっても、「ジェンダーフリーを避けるフェミニスト」がそのような発言をしているのを見たことがない。全く根拠のない推測で物を言っているとしか思えない。
さらに伊田氏は、「敵を見誤っている」フェミニストの例として、次のような二つの関連した「ジェンダーフリー」への批判を紹介している。一つは、「ジェンダーフリーは『行政と学者の密着関係・一体化を示す概念』であり、『この概念を使ってきた学者のメンツで使用存続にこだわっている』というものであり、もう一つが「ジェンダーフリーを『個人の心のもちように還元させる、行政が上から民間に押し付けた、保守的なもの』『意識啓発に限定するもの』ととらえる」視点だ。そのうえで、伊田氏は前者について「言いがかり」であると切り捨て、後者については「行政などが使うジェンダーフリーのなかにはそうした場合もあるが、それにとどまらない豊かな意味で使われて」おり「一面的すぎる批判である」と反論する。
こうした細かい論点を論じるのであれば、どこの誰がそうした批判をしているのかはっきり明記し、かれらの文章を引用するなどして論証すれば良いと思うのだが、そうはしていない。しかしこれはどう読んでもこれは山口智美氏の一連の議論、とくに『バックラッシュ!』(双風舎)に掲載された「『ジェンダーフリー』論争とフェミニズム運動の失われた10年」に対する当てつけに見える。そこで長くなるが、山口氏の当該論文から対応する部分を読んでみよう。

「ジェンダー・フリー」という言葉が最初に登場したのは、3名の学者(深谷和子、田中統治、田村毅)が担当した、若い教師や教員をめざす学生を対象とした東京女性財団ハンドブック『Gender Free:若い世代の教師のために』(1995) である。(…)
このプロジェクトを担当した3名の学者のうち、深谷は心理学者、田中は教育学者、田村は精神医学を専門とする学者で、医師でもある。 (…) この学者たちはウーマンリブやフェミニズムと関わったことはなかった。ハンドブックの「ジェンダー問題の歴史」の項目における解説から、この学者たちの女性運動史観が見えてくる。ここでは、1960年代末から1970年以降は「形ではなく、人々の意識のあり方が掘り起こされるように」なった時期であるとされている。そして、以下のような解説が続く。

いわゆるウーマン・リブの波は社会の隅々まで広がり、活動の担い手は、ふつうの女性たちの間に広がって行きました。日本ではその運動が、あまり受け入れられませんでしたが、それでも最近では日本の大学で、「女性学」の講義を置くことが一般的になってきているなど、世の中も少しずつ変わろうとしています。

意識のみならず、個人、そして社会全体の根本からの変革を目的としたのがリブのはずなのだが、意識偏重の評価がなされている。そして、日本のリブ運動はあまり受け入れられずに終ってしまったとし、唯一挙げられている成果が大学に女性学の講座が置かれるようになったことなのだ。 (…) 何と学者に好都合で、かつ「男女共同参画」という行政の作った言葉にぴったりとあてはまった歴史観なのだろうか。
ハンドブック作成プロジェクトの報告書『ジェンダー・フリーな教育のために』(1995) の中で、「ジェンダー・フリーって何?」という章を担当しているのが、心理学者の深谷和子だ。深谷は、「ジェンダー・フリー」導入のいきさつについて、以下のように述べている。

形の上での男女平等は次第に整ってきている。しかし、「職場や家庭内に目を転じれば、そこには性別に限らず、さまざまな地位に伴う役割上の不公平が、文化や慣習の形で十分に残っている。 (…) 従来用いられてきた「男女平等」は主として制度的側面に用いられる用語であるが、予備調査によれば、「ジェンダー・フリー」は、男女平等をもたらすような、人々の意識や態度的側面を指す語として、若い人々にも受け入れられそうである。とくに学校のように、おおむね男女平等な扱いが行き渡っている集団でも、今後は、さらに教師や子どもの意識に踏み込んで、「ジェンダー・フリーな教育」の場であることを目指すべきだろう。

 深谷は制度面での男女平等はほぼ達成されたという立場にたち、学校はとくに「おおむね男女平等な扱いが行き渡っている集団」と考えている。だが、不平等を支える文化や慣習の問題が残っており、今後は「人の心」の問題に迫ることが課題だという立場にたつ。そして「男女平等をもたらすような、人々の意識や態度的側面を指す語」として、若い人々にも受けいられそうであるというのが「ジェンダー・フリー」導入の一因だったというのだ。心理学者である深谷が、「人々の意識」を変えることを目的に考案した言葉だったということが見えてくる。
(…) このように、「ジェンダー・フリー」という概念は、大元はラディカルとはかけ離れたものだった。意識にのみ焦点を宛てるという、後ろ向きの概念、それが「ジェンダー・フリー」だったのだ。市民個人個人の意識が遅れているということに責任をかぶせることができるこのスタンスは、行政にとって実に都合がよいといえるだろう。 (…)

ここで山口氏は、ジェンダーフリーという用語がもともと民間の女性運動の中から生まれてきたものではなく行政によって生み出されたものであること、むしろ民間の女性運動の成果を否定するものであること、社会の仕組みを変えるのではなく人々の内心を変えることを目指したものであったことを指摘しているが、かといってその後民間のさまざまな取り組みの中でこれとは違った用法が生み出され広まったことを否定しているわけではない。問題なのは、行政による「上からのジェンダーフリー=意識啓発のみに偏重した保守的な取り組み」にせよ、伊田氏が評価する「制度変革を含む豊かなジェンダーフリー」にせよ、それが女性運動の過去の歴史を極力無視し、あるいは矮小化することでジェンダーフリーの「豊かさ」を際立たせようとしている点で共通しているという事実だ。例えば、東京女性財団に比べよりラディカルにジェンダーフリーという概念を使っているように見える井上輝子氏の言説について、山口氏はこう指摘する。

井上輝子は、「ジェンダーから自由な(ジェンダー・フリー)社会とは、性差別のない社会であると同時に、ジェンダーの2分法にとらわれない社会」であり、それはきわめて革新的であると述べる(『女性学教育・学習ハンドブック』)。ここで新たに「性差別のない社会」という新しい「ジェンダー・フリー」解釈が登場しており、これは、伊藤の「意識」中心の解釈とは若干異なっている。だがそのための教育論の内容としては、1)性別役割分業の見直し、2)男女像と家庭像の見直し、3)セクシュアリティ神話の打破という3点が挙げられており、これらは70年代から、女性運動がずっと取り組んできた課題に他ならず、「性差別のない社会」という解釈とともに、何が「革新的」なのかよくわからない。

さらに、「ジェンダーフリー」という用語が必要だとする論者が頻繁に主張するのが、「男女平等」や「性差別反対」では、「男女特性論が越えられない」とする主張だ。男女特性論とは、男性と女性は本質的に違うのだから、固定的な性役割分担や非対称な関係を温存することは男女平等に反しないという考え方のこと。例えば、今年の7月に大阪で開かれたシンポジウムで150名の参加者によって採択された「今こそいるねん『ジェンダー平等』宣言」には、以下のような文句が書かれている。

私たちは、いわゆる女性の問題を取り上げるとき、憲法で保障された人権の概念を「男女平等」という言葉を使って語り合ってきました。 (…) その闘いの結果、憲法で「男女平等」が宣言されてからの年月のあいだに、私たちは幾つもの平等を勝ち取ってきました。
しかしその一方で、「男女平等」という言葉を口にしたとたん、必ずと言っていいほど持ち出されたのは「男らしさ」「女らしさ」の尊重でした。今度は、人々を男女二分法で切り分け「らしさ」を尊重させたうえでの平等、つまり「条件付きの」平等を強いる声と闘わねばならなくなったのです。

また、伊田氏自身も執筆者として名を連ねる『男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング バックラッシュへの徹底反論』(明石書店)という本の「ジェンダーフリー教育はどのような意義があったのですか? これまでの男女平等教育とどこが違うのですか?」という項目にも、同様のことが書かれている。

(…) もっとも一般的である「男女平等教育」という言葉は、様々な文脈で用いられてきたことから、場合によっては、男女特性論・性別役割分業を前提とした上での男女の平等を主張する立場を意味することもありました。

こうした議論を受けて、山口氏は以下のように反論する。

この議論の中で、男女平等では特性論が超えられないので、「ジェンダー・フリー」が必要だったという観点がある女性学者から提示された。その後気をつけてみていると、この考え方は、どうやら女性学や、教員組合などでも主流になっているようだ。だが、女性差別撤廃条約の批准、「性別役割分担」などの概念、そして具体的には、家庭科共修をめぐる運動などにおいて、女性運動はすでに特性論は超えていたはずだ。また、混合名簿運動など、教育における運動も、もともとはジェンダー・フリー運動ではなく、「男女平等教育」や「教育における性差別撤廃」という目的で広がってきたものだったはずだ。

すなわちジェンダーフリー論は、行政による「上からのジェンダーフリー」であれ民間の「革新的ジェンダーフリー」であれ、それまでの女性運動やウーマンリブにおける「男女平等論」「男女平等教育」を不当に矮小化・歪曲して否定したうえで、その欠点を解消したものとして提示されている。しかしその現実を見てみると、ジェンダーフリー教育の成果として挙げられているものの大半は、過去の女性運動・ウーマンリブの段階で既にはじまっていたものの延長でしかないのだ。
もちろん、ジェンダーフリーという概念には「男女平等」よりさらに先の領域に進む可能性もあったとは思う。それは男女二元制にとどまらない多様なジェンダーとセクシュアリティのあり方や性的マイノリティの権利への関心といった方向だ。だから、それらを理由に「ジェンダーフリー」概念を支持するというのであればそれは理解できるのだけれど、「男女平等は特性論を越えられないから駄目だった」「ウーマンリブは無力だった」なんて理由でジェンダーフリーの旗を振られても納得できない人がいるのは当然だ。
しかし伊田氏に言わせれば、ジェンダーフリーという言葉を批判するフェミニストや、その使用に躊躇するフェミニストは、単純に「鈍感」で「理解が浅い」のだという。そして、バックラッシュ派がジェンダーフリーという概念に「むちゃくちゃなイメージをつけて攻撃している」現在、それを積極的に擁護しないことは「男女共同参画の流れを後退させる」ことだ、とまで言う。かれによれば、

(…) ジェンダーフリー概念を批判する人(その使用に躊躇する人)は、いまの政治的文脈を見誤っている。現場を知らずに、仮想の「へんなジェンダーフリー(論者)」にとらわれ、ジェンダーフリーを言わないことがまるで正しいフェミニストであるかのように思っているところに問題があるのだ。

この結びの部分は、そのまま伊田氏本人に跳ね返ってくるのではないだろうか。具体的な名前も挙げず引用もせず、相手の論旨を捩じ曲げて「へんなジェンダーフリー批判派フェミニスト」を作り上げてそれを叩いているのは、どう見ても伊田氏のほうだもの。この段落だけ見ても、「ジェンダーフリー概念に疑問を持っているフェミニスト」はいても「ジェンダーフリーを言わないことが正しいフェミニストであると思っている人」なんておそらくどこにもいないだろう。仮想敵にとらわれているのはどちらかと言いたい。

くそっ、またしょーもない話書いてしまったぞ。
しょーもない話ついでに以下はおまけ。『「ジェンダー」の危機を越える!』のアマゾンのページに出ているカスタマーレビューに変なのがちらほら見える。例えば、こんなの。

「ジェンダー」を「『社会的文化的性差』と翻訳するのは誤訳」と主張しているのは、シカゴ大学の山口智美氏ですが(『バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(281p)』)、ただ一人の主張であり、そのいわゆる「誤訳」が使われているからといって、本全体の信頼が揺らぐことはないです。

あのー、つまり「誤訳」だという事実は認めているわけですね。そのうえで、指摘しているのは一人だから対して問題ないだろうと。いやぁ、一般の読者としてはそれで良いのかもしれないけど、学者としてはこんな擁護のされ方しちゃったらオシマイですよね。
あと、どこから始まったのか知らないけれどよく見るデマで、「gender」という言葉はもともと生物学的な男女の性別のことを指す言葉だったという主張。

「社会的文化的性別の意味のgenderが普及して、近年では生物学的性にも使われるようになった」という主旨の「間違った事実認識による記載」があるが、事実は完全に逆であり、もともとgenderは生物学的な男女性のことである。

ジーニアス英和辞典にはgenderの第2義として、『<<略式・古>>(生物学的)性(sex).』とも書いてありますので、genderは古くから生物学的性の意味でも使われていたようです。

って、ジーニアス英和辞典で調べないでよ!(笑)
みなさん、これらはデマなので信じないように。この点については、Webster や OED で調べた starman というレビュアーの書いてあることが正しいです。
ちなみに、一部の人はお気づきでしょうが、アマゾンのインスタントストアというのを利用して、新たな書籍紹介サイトをはじめています。準備が完了したら、当サイトの「お勧め文献 @ macska dot org」からそちらに移行する予定です。英語文献がほとんどですが、独自のコメントで紹介しているので是非一度ご覧ください。

One Response - “女性運動の歴史の否定の上に成り立つ「ジェンダーフリー」概念の「豊かさ」”

  1. ふぇみにすとの論考 Says:

    [男性学][フェミニズム]伊藤公雄氏のいう相互批判の「作法」…
    伊田広行氏が具体的な批判対象を曖昧にしたまま、批判を展開し議論していることの問題を前回のエントリーで書いた。そして、12/12付のmacska.orgエントリーにて、 (more…)

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