コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑

8/10/2006 - 5:11 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

最近このブログ及び別ブログにおいて行ってきた一連の「弱者男性論」関連の議論でわたしが Masao さんという人に向けて書いた「あなたに戦略上のアドバイスをもらうほどフェミニズムは落ちぶれていないでしょう」という言葉がいろいろ解釈されて別のところで反発とともに(脱文脈的に)言及されたり、また一定の理解を示しつつも難点を挙げられたりしているので、ちょっとだけ解説してみたい。

まずはわたしのコメントについて言った側の論理と言われる側の論理を丁寧に見ている cyclolith さん(でよろしいのでしょうか?)のコメントを引用する

一通り眺めての印象は、「ああ、Masaoさんがgarçons接客に遭ってる」だった。Garçons接客と云うのは、ファッションに疎そうな格好でcomme des garçonsと云うブランドの店に行った所、店員に嘲笑され(追い返され)たと云う話から考えた言葉である。金を落としてくれるお客なら一応の対応を採るのが一般的だが、ダメな客に買われてブランドイメージを崩されたくない、そんな連中が来なくったって自分は困らない、そんな場合は門前払いも合理的な選択と言える。もしアレがgarçons接客に類する物なら、Masao氏の反論に対して「アンタにアドバイス受ける程堕ちちゃいない」のような表現がなされたのも理解可能に思える。

とはいえ、された方は納得行かないだろう。実際、今回の”接客”に対してもMasao氏自身やutsutsu氏がそういった方向での感想を表明していたようだ。 そこに書かれている事もまたわかる気がした。新参者への障壁をこんな態度で狭めてるんじゃないかなーとも思った。(中略)

でも、その一方で、あの”接客”にもちょっと納得する所もある。(中略) 例えばあなたが何かの事柄について打ち込み、それなりの矜持を抱ける程度に知っているとする。そのあなたの前に半知りの人間がやってきて「それはありえないよ」な事を語ってきたら? ありえなさ度合いにもよるけど、形はどうあれ厭味や嘲笑の一つもぶつけたくなり真面目な回答をしてやる気が失せるのではないか。その程度のありえなさ——科学方面に言い換えると「進化論も仮説だからID仮説も生物の授業で教えてもいいんじゃ?」レベルの主張——だったのかもなぁと。

ここでちょっとだけ注意をしておくと、「あなたの戦略的アドバイスを受けるほどフェミニズムは落ちぶれていない」というわたしの返答は、嫌味でも嘲笑でもなく真面目な回答だ。そしてそれは Masao さんの主張が「ありえない」から発したのではなく、かれがフェミニズムに何らコミットしていないのにフェミニズムにとって何が戦略的に良いのかを決めるような発言をしていたから。具体的には、Masao さんが「フェミニズムが『女性のための運動』であるなら、『ジェンダーフリー』を掲げるのは、信用の面からいって戦略的にもまずいと思います」と書いた事への返答としてそれは書かれたのであって、かれの主張全般についてそのように扱ってはいない。

これが例えば、あまり知識はないけれどフェミニズムに参加している人が、知識がない故に「ありえない」発言をしているだけなら、どうしてそれが「ありえない」のかを丁寧に説明することが「真面目な回答」になっていたけれど、今回のやり取りはそうではなかった。あるいは Masao さんのようにフェミニズムの外にいる人の発言であっても、「『女性のための運動』であるにも関わらず『ジェンダーフリー』を掲げるのであればフェミニズムは信用できない」と言っていたのであれば、あのような返事はしなかった。ストレートな批判である限り、それが的外れであるならそう反論すれば良いわけだからね。

しかし Masao さんは、「『ジェンダーフリー』を掲げるのはフェミニズム自身にとってまずいんだよ」という態度に出ていた。ところがかれはフェミニズムにコミットしているわけではなく、フェミニズムが信用を失って失敗に終わっても何とも思わないはず。そのような立場の人が我田引水的に「自分の言うことを聞けばあなたのためになりますよ」と擦り寄ってくるとき、そうした提言に懐疑的になるのは当然のこと。なぜなら、Masao さんがフェミニズムのための戦略のアドバイスという形式を取りながら、実際にはフェミニズムに自分のアジェンダを押し付けようとしている可能性がすごく大きいもの。

いや、フェミニズムが成功しようが失敗しようが何とも思わないだけならまだしも、「フェミニズムへの助言」がフェミニズムに何らコミットしていない男性によって発されるとき、それがどこまでフェミニズム本来の目的ーー例えば女性差別の撤廃ーーを達成するための助言であり、どこからが女性差別の存在によって男性が受けている既得権益を温存したいという隠れた、時には意識すらされていない動機と目的に基づくものであるのか、当人を含めて誰も判断できない。中立な傍観者どころか、フェミニズムによって既得権益を脅かされるかもしれないーーそのため、フェミニズムを脱線させられることなら脱線させたいという動機を持つかもしれないーー立場の人の助言を素直に受け取れという方がおかしい。

この点について、cyclolith さんは加藤秀一氏の意見を孫引用している(つまり以下はひ孫引用):

瀬地山氏は、自分を「フェミニズムの内側にいる人間」であるとし、それにも関わらず「男性であるということでフェミニズムの中ではマージナルな位置に置かれがち」であることへの違和感を述べるが、しかしフェミニズムにおける男性のマージナリティはむしろフェミニズムの条件であり、それを隠蔽しようとすることこそが「ひそかな領有の欲望をもってフェミニズムに接近」(山崎カヲル)するということの意味なのである。フェミニズムに「共感」し「思想を共有」すると言いつつ、しかしその「共有」が実は一方的な「領有」でしかありえないのではないかという吟味を忘却するような態度が、結果的にであれ、男がフェミニズムを簒奪することにつながってしまうことに、どれほど警戒してもしすぎることはない。(以下略)(加藤秀一『性現象論』)

加藤氏の論旨がこの引用の通りであれば(その通りだろうけれど、ひ孫引用までしてしまうと少し心配になる)、そうした警戒の必要性については強く同意したい。けれども、「男性のマージナリティはむしろフェミニズムの条件」というのは順序が逆ではないかと思う。フェミニズムの大前提には「わたしたちの住む社会においては男性と女性が対等に扱われていない、男性が中心化されている」という現状認識があるわけで、逆に言うと「既に社会において男性と女性が完全に平等に扱われている」と認識している人がフェミニストになる理由は一切ない。当たり前のことだけれど、これが分からないと話にならない。

フェミニズムの運動は社会における男女の平等を主張しつつ、現実の政治的行動において必ずしも女性の問題と男性の問題を対等に扱うということはしない。それは運動内において「男性のマージナリティ(周縁性)」が「フェミニズムの条件」(フェミニズムにおいて男性は周縁化されるべき)だからなのではなく、社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから。わたしはフェミニズムが女性だけのものだとも、女性だけを救済するものだとも思わないけれども、男性と女性とでは同じようにフェミニズムに関わることはできないと思う。男性と女性ではフェミニズムが問題とするジェンダーの権力構造における立ち位置が違うのだから、男性がフェミニズムのあり方についてあれこれ意見を言うのであれば加藤氏が言うような自己観察的な「警戒」が決定的に必要になる。それは男性を周縁化しているわけではなくて、男性が中心に居座っている(あるいは否応もなく居座わらされている)ことへの倫理的な態度を求めているのね。

上野千鶴子氏や kmizusawa さんの言う「フェミニズムには男性を救済する義理はない」という発言を、ただ単に「女性問題は女性が、男性問題は男性がやるべきだ」という自己責任・自己救済論として解釈するのは間違い。かれらの発言にはその大前提として「社会における男性のセントラリティ」という現状認識があるから、周縁化された集団の地位向上を目指す運動であるフェミニズムは、中心にいる集団への配慮を求められるいわれはないと言っているわけ。つまり、フェミニズムに「男性を救済する」義理がないのは、フェミニズムが「女性」のことだけを優先する運動だからなのではなく、「男性」という集団が中心化されているからだ。

この点はきちんと言っておかないと、フェミニズムの立場から「少数民族やクィアの問題はかれら自身がやるべきでフェミニズムとは関係ない」という主張を容認してしまうことになる。わたしは決してフェミニズムが「女性」の利害だけを最優先する運動だとは思っておらず、より普遍的に社会的公正を追求するものだと思っている。さらに言えば、フェミニズムは「弱者男性」に配慮しろという議論をわたしは認めないけれども、パートタイム労働者・派遣労働者・日雇い労働者・家庭内労働者など不安定かつ低収入で働いている人たちーーその多くは女性ーーやその他の社会的弱者に配慮し、かれらを積極的に支援する義務なら、あると思っている。そうした立場から、わたしは一貫して「『弱者』一般の支援をことごとく否定し、『弱者男性』の救済だけをことさら主張する一部論者」を批判してきた。

それでも、まだ「弱者男性」を救済せよと主張する人はマシな方だ。「そんなこと知るか」と反論すればそれで済むもの。より問題なのは、聞かれてもいないのにフェミニズムに「助言」したがる男性。フェミニズムにコミットしている男性論者にすら「ひそかな領有への欲望」の影が見え隠れするくらいなのに、フェミニズムにコミットすらしていないーー従って、フェミニズムが失敗して潰れようがなんとも思わないーー男性が生半可以下の知識を元に「助言」を寄せてきても、懐疑の目で見られるのは当たり前だ。しかもその「助言」の内容が、男性の側に利益誘導するようなものであった場合、もはやマトモに取り合ってもらえるはずがない。

マトモに取り合う価値のない発言をマトモな発言であるかのように扱うことは、相手を増長させるし、それ自体フェミニズムにとって後退。だからこそ、わたしはわざと Masao 氏の「助言」を「あなたに助言されるいわれはない」と撥ね除けたのだ。そうすることで、フェミニズムにコミットすらしていない男性が好き勝手にフェミニズムの戦略をあれこれ指図しても良いのだという傲慢さに楔を打ち込むのがわたしの狙い。そうしたパフォーマンスの有効性について議論の余地はあるけれど、そう反応すること自体がいけないことだとはわたしは思わない。

14 Responses - “コミットメントを欠く「フェミニズムへの助言」への懐疑”

  1. Bar Says:

    あんまり関係ないかもしれないけど、ほかに愚痴こぼす場所がないのでココでごめんなさいね。

    このエントリとかでmacskaさんの気持ちや言わんとしてることは理解できるんだけど、一種「些末なもめ事」的なことは放置しておいたほうがいいような気がしないでもないのですよ。あまり本筋でない“論敵”や内輪の異論(そんなのない…かな)にかかずらわっていると、本来的に“戦う”べき相手から遠ざかってしまう。周りの「無党派層」にも、注目してほしい論点がブレて見えてしまう。

    これだけバックラッシュ的な動きが強まっている中では、効果的に本丸を叩く必要があるわけじゃない? blogだとどうしても細かい論点に追われがちだけど、もう少し俯瞰したり、大同小異でもっとも重要なことを論じたり考察を深めていく必要がある気がする。

    もちろん、macskaさんにそんなことを強制する権利はないし、ものを考えるというのは自由に行ってこそ価値のあることだとは思う。でもね、個人的にいまの社会の動きにものすごく不安を感じている者にとっては、希有なエネルギーは有益なことに使って欲しいと思います。それがなんなのかは…具体的になかなか言えませんが。

    ちょいとした妄想にうなされている人間の言うことなので、気に障ったら無視してね。とはいえ、今後も脳に刺激をくれるエントリの執筆を楽しみにしています。

  2. Bar Says:

    あ、うーん。
    http://d.hatena.ne.jp/macska/20060801/p1
    かぁ。もったいない。

    # 話がズレますが、このサーバ、タイムゾーン合ってます?

  3. makiko Says:

    > 社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提だから。

    再度書きますが、これってそんなに自明なんですか?

  4. macska Says:

    > これってそんなに自明なんですか?

    「これ」が何を指すのかいくつか可能な解釈があってよく分からないのですが、「社会において男性が中心化されている」という現状認識についてであれば、学問的には常識じゃないでしょうか。常識を疑うのは構わないですが、いきなり「なかったこと」にしてしまうのはどうかと。

  5. 純粋なココロ 2.0 Says:

    「フェミニズムはみんなのもの」だって、騙された俺がバカだったよ

    【「『男性のセントラリティ(中心性)』という現状認識がフェミニズムの大前提」です

  6. makiko Says:

    > 学問的には常識じゃないでしょうか。

    というか、セントラルドグマですね。

    > いきなり「なかったこと」にしてしまうのはどうかと。

    なかったことにするつもりは全くありません。
    ただ、このドグマ自体は相対化して見るべきではありませんか?
    ここではこれくらいにしておきます。

  7. 草日記 Says:

    「男」が「フェミニズム」に「助言」するときは、「メタ言語の不在」を心に留めておいたほうがいいのかも

    Slavoj Zizek ”From Joyce-the-Symptom to the Symptom of Power” 翻訳:転叫院さんhttp://tenkyoin2.hp&#46infoseek.co.jp/ach0212.html#12223 現在の「ポストモダンな」人種差別において、同様の「ありえない」語り位置に出会うこととなる。ウェストサイドストーリー�…

  8. HAKASE Says:

    ども。本文の趣旨については同意できるんですけど、私も下記の点については、ちょっとひっかかりのようなものを感じました(同性愛者ですけど男性ですからこのへんにはちょっと敏感なのかも(^^;)。
    『社会における「男性のセントラリティ(中心性)」という現状認識がフェミニズムの大前提』
    『「社会において男性が中心化されている」という現状認識についてであれば、学問的には常識』

    ちょっと脱文脈的な話になってしまいますが、この指摘って、丁寧に書くなら下記のような趣旨だと思ってよいでしょうか?
    『問題によって何(誰)が中心的かは異なるけれども、巨視的な視点でみた限りでは、まだまだ現状では「社会において男性が中心化されている」という側面が存在している(A)』ということが、比較的多くのフェミニズムの関係者間では共通の認識となっている。

    この趣旨なら全然異論はないんですが、たとえばこれを間違えて『「社会『の全ての面』において男性が中心化されている」(B)』と考えたり解釈したりしてしまうと、macskaさんが懸念されているようなことも起きるような気がしますし、後者(B)の趣旨であれば、私は批判したいと思います。

    後者(B)のようなこと書くはずないじゃんと言われれば確かにそうですし、女性学関係者と直接あって話をした私の数少ない経験からも、女性学の大半が後者(B)の立場をとっているというのは全然想像ができません(ドグマというのともちょっと違う気がする)。なので、おそらく前者(A)の趣旨でmacskaさんは書いてるだろうと思いますし、フェミニズムも基本的には前者だと私は思ってるのですが、たくさんの女性学関係者にあった経験があるわけではないので、実際のところを教えていただけると個人的には安心できてありがたいなぁと思います(逆に心配になるかもしれませんけど)。
    本文の趣旨からは完全に外れる話だと思いますんで、もし余裕があればでいいのでレスいただければと思います。
    p.s. メールの返事、もう少しまってください。m(_ _)m

  9. Josef Says:

    「社会における男性のセントラリティ(中心性)」という認識は概ね正しいんじゃないですか。これを「女性差別」や「女性抑圧」と捉えたとき、フェミニズムになるのでしょう。
    また、これを「非効率」と捉えたとき、日本経済新聞的あるいは行政フェミ的ジェンダーフリーになるでしょう。
    さらにこれを「良きもの」ないしは「そうあるしかないもの」と捉えたとき、ある種の保守になるでしょう。

    すなわち、「社会における男性のセントラリティ」がフェミニズムの「セントラルドグマ」なのではありません。これに「解体すべきもの」という価値評価を加え、この価値評価を絶対視したとき「ドグマ」となるのだと思われます。

  10. 一読者 Says:

    「社会における男性のセントラリティ(中心性)」という常識自体が根本から間違っている。
    過去の日本、あるいは現在の他国の状況は詳しく知らないが、少なくとも、現在の日本社会ではそのような認識は著しい誤りである。
    そういう誤った現状認識を元に論理展開しているから、「男性=強者/女性=弱者」という図式的な2分法に基づいた価値判断をして、「弱者男性は助ける必要は無い」などという、暴言を吐くことになるんだろう。
    むしろ、現在の日本では「女性のセントラリティと男性のマージナリティ」という構図で捉えるべきだろう。
    それから、「弱者男性を助けろ」と発言すると、何故「弱者男性「だけ」を助けろ」という意味に返還されるのだろうか?

  11. 一読者さんへ、通りすがりより Says:

    >それから、「弱者男性を助けろ」と発言すると、何故「弱者男性「だけ」を助けろ」という意味に返還されるのだろうか?

    その人のそれまでの行動から、そう解釈されているだけのことだと思います。
    つまり、「弱者男性」と自己規定して「弱者男性を助けろ」と声をあげている人たちが、これまで何をやってきたか、が良く見えない。とりわけ、他の誰かや自分、または社会のため、それらをよくするために今まで何をしてきた、というところがまったく語られていない(なされているのであれば、ぜひとも知りたいです)。
    語られるのは、弱者男性の苦しみが深いんだ、みたいなことばっか。
    だいたい、「弱者男性」という言葉自体が新語ですよね。まだ定義もはっきりしていないし(はっきりさせる必要があるのか?という気も……)、概念的にもかなり新しい。

    自分がこれまで何をやってきたか、あるいはこれから何が出来る、やろうと思っているか、という話……たとえば性暴力を減らすことに関して自分は男としてこうやって参画してこういう取組みをしてきたが、それやてtも弱者男性は救われなかった、みたいな話……というような話も抜きに、いきなり自分の関心のあること(弱者男性の救済)は優先順位が高い、とやっちゃってますからねー。
    普通の交渉術としてみても、あまり賢くないやり方に思えます。

  12. 一読者 Says:

    まったく意味が分からない。
    交渉術とかの問題じゃないでしょう?
    「性暴力を減らすことに参画したかどうか」で「弱者男性を助けろ」と発言すると、
    「弱者男性「だけ」助けろ」っていう意味に解釈されるのか?
    大体、「弱者男性」という概念は素直に字面通り解釈すれば良いだけで、
    「新しい概念」も糞も無いと思うんだが・・・

  13. Josef Says:

    >「社会における男性のセントラリティ(中心性)」という常識自体が根本から間違っている。(一読者さん)

    単純に、社会の指導的立場にいるのが主として男性であるという観察から抽出される社会構造と捉えておけばいいでしょう。

    もちろん「男性の中心性」があるからといって、個々の男性が「中心」に位置しているというわけではありません。「男性」という記号が「中心」を志向する(させられる)ことによって、少なからぬ個々の男性はそこからはじき出されます。「中心」のパイは限られていますから。
    では、はじき出された男性たちは「周縁」に位置することになるのかというと、そうではありません。「中心と周縁」という構造の埒外に、いわば追放されるのです。ここは、犯罪、病、自殺、(日本的には)引きこもりなどの温床になると思われます。

  14. makiko Says:

    補足です。
    私の認識としては、男性のセントラリティという認識は、大局的には正しいだろうけども、それをあまり教条的に解すると、それから外れた現象を看過することになるだろう、ということです。
    もしメンズリブがフェミニズムと利益相反の関係にあるのであれば、そのことを正面から言えばいいだけで、現状認識の段階から曲げるのは、よろしくないだろうということです。

    >「中心と周縁」という構造の埒外に、いわば追放されるのです

    あ、ワタシのことだ(笑)。

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