瑠璃子さんへのお返事:マネー引用の責任について

2005年6月16日 - 9:59 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

先日書いた「ジョン・マネーの正体、実は『アンチ・ジェンダーフリー』派」において瑠璃子さんという方のエントリに反論したところ、幸いお返事をいただいたので、今回はそれに答えることにします。ただしこれまでの繰り返しが多いのであんまり内容なかったり…
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こんにちはです。
ご返答ありがとうございました。
まず最初に、名前の漢字を間違えた事については謝罪します。すみませんでした。原則的に過去の記事を後から校正するという事は、議論が混乱するので(議論となっている記述が何だったのかはっきりしなくなるので)しないつもりですが、この点だけ修正させていただきます。
早速、以下において瑠璃子さんの指摘されたわたしの「反論記事中にある問題点」に答えていきます。

・マネーの学説は直接的にはフェミニズムとは無関係と言っても、その「ジェンダー」という用語をうまく拡大利用して社会構築的立場を宣伝してきたので はないか?

マネーは新語マニアと言ってもいいほどで、どの著作でも新しい用語を大量に提案しています。その中で一番のヒットが「ジェンダー」ですが、「ジェンダー」という言葉を考案した当時、彼はその言葉を単独では使っていません。「ジェンダー・アイデンティティ」(性自認)という言葉を使うことで、性同一性障害の人たちを、「生物学的にある性であっても、アイデンティティがそれと異なる人たちである」と医学的に定義したのでした。
フェミニストたちが使う「ジェンダー」は、アイデンティティの事ではありません。むしろ、ロバート・ストーラーによる「ジェンダー・ロール」(性役割)という言葉(のちにマネーもストーラーの説に賛同しました)の方が「ジェンダー」という言葉がフェミニズムに流用される起源であると言った方が正しいと思います。すなわち、フェミニストや社会構築主義者たちが本当に言いたかった事は、性自認が後天的であるという事ではなく、性役割というのが社会的に決められたものであるという論理であり、そうした論理はこれまで説明した通りフェミニズムがマネー以前から持っていたものです。
そういった思想を宣伝する上で、ストーラー経由でマネーから流用された「ジェンダー」という言葉が役に立ったのではないかといえば、その通りだと思います。「ジェンダー」という言葉を使ったことについてフェミニズムがマネーの貢献を受け入れたというなら、その通りでしょうし、そうわたしも書いています。しかし、「ジェンダー」という概念を生んだ事自体は(双子の症例を闇とすると)マネーの功績の中でも最も明るい光の部分であって、現在でも(ジェンダーという言葉の定義や理論の詳しい内容は変わっていても)有用かつ有効であり、そうした言葉を使っていることを何ら責められるいわれはありませんし、「ジェンダー」という言葉を使ったからといってその論者が「双子の症例」に依存しているわけでもなければ、それに何らかの責任を持たなければいけないというわけでもありません。したがって、「うまく利用して宣伝してきたのではないか?」と言われても、「だったら、どうなんですか?それが双子の症例とどう関係あるんですか?」と答えるしかありません。
また、マネーが「双子の症例」を発表した当時は、ダイアモンドら少数の懐疑論者を除いてマネーほどの大物がそんなウソだらけの報告をしているとは思いもしなかったので、騙されてそのまま引用してしまった人がたくさんいました。著作でそうした引用をした人たちは、真実が明らかになった後、その部分を修正するなり注意書きを付けるなりするべきだと思いますが、双子の症例という1つの引用例が崩れたくらいでフェミニストたちの理論全体が崩れるわけはありませんし、また騙されて引用した事自体には何の倫理的問題もありません。
上野千鶴子氏の問題はそれとは全く別個のものです。なぜなら、とっくに真実が明らかになったあとに出版された本において双子の症例を引用していたんでしょ。その責任は、真実が明らかになる前に引用した人や、双子の症例とは関係なくジェンダーという言葉を使っているだけの人に比べて、圧倒的に重いというか、質的に違うわけですよ。それを一緒くたにしないで欲しいとわたしは思っているのです。
瑠璃子さんは、その上野さんの責任だけを追求していたのだと今回書いているけれど、元の文章を読むと「上野千鶴子は自らの理論補強に双子の症例を引用している」という部分を「マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない、そもそもマネーはフェミニズム嫌いだった、と書いている人がいた」への反例として書いています。それは、上野さんという一人のフェミニストの「どうにも言い訳できないような間違い」(とっくに虚偽が分かっている研究を引用してしまったこと)をもとに、マネーの功績のうちの問題ない部分(ジェンダーという言葉)を援用した人や、真実が明らかになる前に双子の症例を引用した人までみんな同じくらいの間違いをおかしているかのように見せかけるトリック的な記述だと感じたので、上野氏の責任を他のフェミニストにまで及ばせるのはおかしいと反論したのです。
もし、それはわたしの誤読であって、「マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない、そもそもマネーはフェミニズム嫌いだった、と書いている人がいた」という記述に批判的な意図はなかった(上野氏への言及はわたしへの反論でも何でもなく、ただ単に感想として書いただけであった)と言うなら、それでも良いです。わたしにはそのようには読めないですが。
【06/16/2005 加筆:この記事にコメントをいただいた mana さんの情報提供によると、上野氏は「差異の政治学」において確かにマネーの「性の署名」を紹介したが「双子の症例」について直接言及してはおらず、またマネーと並んで多数の論者のジェンダー論・ジェンダー概念を紹介する一環としてマネーに関する記述が位置づけられていたとのことです。その通りだとすると、「上野氏が2002年に出版された本において双子の症例を引用している」という瑠璃子さんや少なくない論者の指摘は間違いであるということになり、かれらのウソだらけの言説を疑いもせずそのまま前提として議論を進めたわたしの立場も間違っていました。上野氏ならびに読者のみなさまに謝罪します。】

コラピントについて、ジャーナリストとフリーランスライターをここで区別することにどのような意味があるのか。コラピントが信用するに足る人物ではないということか?

ジャーナリストというのは、できるだけ中立の立場から報道に携わる職業のことを言うのであって、たまにコラムやインタビューで自分自身の意見を言うことがあっても、またいくら本人が中立のつもりでもバイアスは常にあるだろうけれども、基本的には真実を出来る限りありのままに伝えようという職業意識を持つ人たちのことだと考えています。それに対し、ライターというのはより広い概念であり、モノを書いて収入を得てさえいればライターと呼んで差し支えないでしょう。コラピント自身が信用に足る人物かどうかというのは別として、彼が職業ジャーナリストではないというのは事実であり、ことさら彼を「ジャーナリスト」と宣伝する連中の方が(もし単なる無知でなく、わざと言い換えているなら)よっぽど「フリーランスライター」に対する偏見を持っているのではないかと思います。

「つい最近発売されたばかりの最新版にしか載っていないような事を当たり前のようにして『本書を読めば分かるのだが』と言わないで欲しい」とあるが、こちらではこの最新版が発売されたばかりで容易に手に入る。それ以前の版は絶版なのだからすぐには手に入らない(もちろん図書館等にいけばあるだろ うが)。今、入手できる最新版には上野教授が双子の症例を引用していることが明記されているのだから、「本書を読めば」と注意書きすることは問題ないのではないか?ここで本書と言っているのはまさしく発売されたばかりの最新版のことなのだから。

あのですね、普通「本書を読めば分かるのだが」と言う場合、それは本の本文に書かれていることを指して言う言葉ではないですか? 今、あなたが入手できる版だけが「本書」ではないのですからそういう記述は不親切ですし、また読みようによってはコラピント自身が書いた本文で上野さんが批判されているかのような印象を与える文面なので、そんなに当たり前に「本書を読めば分かる」と書かないで欲しいとわたしは言ったのです。せめて、「本書に掲載された〜氏の解説を読めば」といった具合に説明があれば良かったと思います。
まぁ仮に瑠璃子さんが言う通り「現在日本の東京で入手可能なのは扶桑社版なのだから、何も言わずともそれの事に決まっている」と認めたとしても、「どちらかというと」どの版なのか、あるいは本文なのか解説者の文なのかあたりを明記した方が良かったとは思いませんか?
瑠璃子さんの文章には他にも問いかけの部分があって、それにも答えようかとおもったのだけれど今時間がないしあんまり議論を広げすぎるのも困るので「問題点」の部分だけにしておきます。もしほかに「この点だけは是非答えて欲しい」ということがあれば、また別にコメント欄なり何なりでお願いします。

12 Responses - “瑠璃子さんへのお返事:マネー引用の責任について”

  1. mana Says:

    はじめまして。上野さんが2002年に出した本とは『差異の政治学』だと思うのですが、(今手元に無いので)1章の初出だったと記憶している『岩波講座ジェンダーの社会学』を見てみましたが、『性の署名』について3ページにわたって紹介されているものの、双子の症例については出てきません(『差異の政治学』では書き直されているかもしれませんし、他の章で言及しているかもしれないので確認してみないと何ともいえませんが、解説を書いた八木氏が別の本で引用している部分を見る感じでは、この部分でたぶん間違いないかな?)。
    それから上野さんのこの文章は、セックスおよびジェンダーという概念がフェミニズムにおいてどのように理論化され、練り上げられてきたかを歴史的に概観したもので、他にも沢山(シュルロ、ギリガン、デルフィ、スコット、バトラーなど)のジェンダー概念が取り上げられており、マネーの理論だけに依拠して何かを語ろうとしたものではありません。
    従って、「上野千鶴子は自らの理論補強に双子の症例を引用している。」という瑠璃子さんの一文はミスリードであると思います(そう読み誤ってしまうような解説だったのかもしれませんが)。
    ところで10日のエントリのxanthippeさんのコメントにもありましたが、世界日報のインタビューのダイアモンドの発言「個々人は、すべてが同じになるよう強制されるのを望むとは思わない。人々は、個人に応じた扱いを欲している。カテゴリー的に女性または男性として、というのは意味がない。なぜなら、ある女性は他の女性とは違うし、ある男性も他の男性とは違うからだ。」
    これなんかは「男らしく、女らしくより自分らしく」というジェンダーフリー的スローガンと非常に重なると思うんですけど、そのあたりダイアモンド氏の研究をもってジェンダーフリーを批判しようとしている方々はどうおもっているのでしょうね。

  2. macska Says:

    情報ありがとうございます。
    そうでしたか。上野さんの件については、わたしまでアンチ・ジェンフリ派のウソだらけの言説に騙されていたのかもしれません。わたしは「差異の政治学」を簡単に取り寄せられるような環境にはいませんので(ネット上で日本から買えないわけでもないけれど、送料がかかりすぎる…)、どなたか手元に「差異の政治学」がある方に本全体をチェックしていただけたらいいなぁと思っているんですが、そんな都合の良いことをやってくれる方はいませんでしょうか?
    実はわたしが唯一読んだ事のある上野氏の著書は「発情装置」なんですが、その印象があまりに悪かったため、上野さんがこんなミスをやらかしているという話を聞いた際「まさか」と疑う気持ちが足りませんでした。原典を調べずに「上野氏が2002年になっても双子の症例を使っている」という言説を信じ込んでしまってそのまま書いたことについて、上野千鶴子氏ほか迷惑をかけたみなさまに謝罪します。

  3. xanthippe Says:

    みなさん こんにちは
    「差異の政治学」は、実は先々月、借りて読んだのですが(^^;、瑠璃子さんやサンケイの記者が指摘されたような内容があったような記憶がありません。しかし今、確認しようにも手元にはありませんので、お急ぎでなければまた借りてきて読み直し、チェックしてもよいです。お急ぎでなければ、ですが。
    「発情装置」というのは読んでいません。題名からしておふざけっぽいですが、どうなんですかね? メディア批判的なものなんでしょうか?

  4. Macska Says:

    ふふふふ、ダイアモンド氏とアポイントメント取りました。2時間後に電話で詳しくお話する予定ですが、簡単に事情を説明したところ、アンチ・ジェンフリ勢力に彼の(誘導質問で得られた)発言が政治的に利用されていることについて憤慨している様子。上野さんとダイアモンドさんで共同声明なんかできたらスゴいと思うんですけど、誰か上野さんにそういう話を持ち込める立場の人いませんか?

  5. xanthippe Says:

    こんばんは 
    上野さんの研究室のTELなら分かります。秘書の速水さんが今でもいらっしゃればお話は持っていけますが・・・。97年に研究室にお邪魔して、後、数年前に講演においでいただいた時にお話しただけですので・・・。

  6. 名無し Says:

    瑠璃子さん気づいてないようですよ。
    先方からは反応がないようですね。大変残念ですけれど。
    by 瑠璃子 (2005-06-19 01:32)
    どうして教えてあげないんですか?コメント書き込めるみたいですけど…

  7. Macska Says:

    ああそうだ、あそこのサイト、何故かトラックバック送ってもうまくいかないんだった。
    忘れて、てっきりトラックバック送ったから気付くものだと思ってました。
    さっそくコメント付けときます。

  8. eyes Says:

    >ふふふふ、ダイアモンド氏とアポイントメント取りました。
    おー。どうなるか聞いてみたい。
    僕は彼に師事していた東先生にお世話になってるんですが、
    世界日報の記事についてダイアモンド氏は原稿チェックしてないらしく
    「誘導尋問」っぽい。
    何らかのアクションがあるみたいですね。

  9. macska Says:

    反撃第一弾だそうです。

    記者席:「ブレンダ」の悲劇に想う (朝日 2005/06/21夕刊・科学面)
    生後8カ月の男児が包茎手術の失敗でおちんちんを失った。両親から相談された性科学の権威J・マネー博士は、女の子として育てることを勧めた。年一度の面談や折々届く母親からの報告を元に、博士は「性役割は育て方で決まる」と発表する。
    思春期に入ったその子が深刻な心理的葛藤を抱えたことは、月刊誌「科学朝日」の編集部員だったとき知った。86年12月号に、ハワイ大で研究中の池上千寿子さんに最新情報を寄せてもらえたからだった。
    5月に出たノンフィクション「ブレンダと呼ばれた少年」(扶桑社)を読み、事の顛末(てんまつ)が詳しくわかった。15歳で男に戻った少年は、25歳で子持ちの女性と結婚した。そして昨年、38歳で自ら命を絶った。
    驚くべきは、マネー博士の自説への固執ぶりである。事実を見ようとせず、批判には耳を傾けない。
    もっと驚いたのは、最後の解説だ。この例を男女共同参画に見直しを迫るものと位置づけているのだ。
    マネー博士の説の間違いを指摘したハワイ大のM・ダイヤモンド教授に連絡をとった。「生まれつきか育て方か、一方ではなく、両方の相互作用が性を決めるのです」と教授は言う。そして「男とは、女とは、こうあるべきだといった自分の好みを他人に押し付ける権利は、何人といえども持っていない」と強調した。
    これこそ男女共同参画の理念ではないか。痛ましい悲劇から汲み取る教訓を間違えてはいけない。
    科学医療部次長 高橋真理子

  10. xanthippe Says:

    みなさん こんばんは。上野さんの「差異の政治学」やっと届きました。で、manaさんご指摘のように、結論から言うと「双子の症例」については一言も言及されていませんし、「90年代に入って、性転換症(TS)の臨床研究が進むにつれ、マネーとたっカーの発見の一部は追認され、一部は反証された(小倉「セクシャリティーの心理学」)と記載されていたので、織り込まれているようです。反証されたというのが双子の症例のことでしょう。冒頭で、ジェンダーという語を最初に定式化したのは心理学者のロバート・ストーラーであるとし、ジョンマネーとは認めていません。また、初期のフェミニズムが「女らしさの」の宿命から女性を解放するために性差を自然の領域から文化の領域に移行させたこと、「性差は生まれか育ちか」という単純化された命題が多くの誤解を引き起こしたこと、しかしそれはフロイトの解剖学的宿命を乗り越えるための戦いの第一段階であったことなど、macskaさんがおっしゃったようなことが述べられています。
    第1章2項の「セックスとジェンダーのずれ」でマネーとタッカーが出てきます。しかし、ここでの冒頭には「セックスとジェンダーの区別が可能になってからも、性差のどこまでが生物学的に決まり、どこからが社会・文化的な影響に左右されるかをめぐって、決着のつかない論争に道を開くことになった」との前提がきちんと述べられています。
    マネーらについては、彼らが半引陰陽や性転換希望者の相談を受けていてジェンダー(性自認)がセックスから独立していることを突き止めたこと。生物学的性差はグラデーションであるにもかかわらず、ジェンダーは二元論である(第3項ではデルフィが紹介され、ジェンダーとは男または女という2つの項なのではなく、人間集団を分割するその分割線、差異化そのものである)こと、などが述べられております。2人の業績として上野さんが述べているのは「セックスとジェンダーにずれがあることを指摘し、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した」ことと、「ジェンダー(この場合はジェンダーアイデンティティー)が自由に変えられるものではなく、その拘束力が大きいこと」をTSで証明したことだと言っています。
    セックスとジェンダーが別物であることについては、学際的な性差研究からフランスの社会学者シュルロも同じ結論に達したとも紹介されています。
    以上、とりあえずのご報告まで。
    念のために、第1章の項目をご紹介しておきます。1.性差論の罠 2.セックスとジェンダーのずれ 3.ジェンダー本質主義 4.ジェンダーの非対称性 5.差異の政治学 6.ポスト構造主義のジェンダー論 7終わりに

  11. Macska Says:

    xanthippe さん、調査ありがとうございました。
    コメント欄を通していろいろ教えていただけるというのは嬉しいです。
    わたしも、上野さんに失礼な事を言ってしまいました。
    今度から気をつけようっと。

  12. xanthippe Says:

    Macskaさん こんばんは(時差があるようですが、日本時間で失礼します)
    ご紹介の記事は、翌日の朝刊で読みました(田舎で夕刊がないものですから(~~;;) すばやいですね! アンチ・ジェンフリの人の中には「男女は平等ではなく、憲法24条も削除するべき」などと暴言をはく人もいるとか。そこまでいかなくてもジェンダーフリー憎しで、学校での男女平等教育まで否定し、女子と男子では別に教えるほうが良いという人もいました(平等教育とは関係ないだろうと思うのに)。あるいはジェンダーフリー教育を男女の生物学的性差をなくすものだとか、林道義のユング(?)を援用して、男の子は男らしく育てないと性的(生殖的な意味で)に男になれず、異常な犯罪を犯すようになるなどとトンデモを主張する人もいまして、議論になどなりません。そのくせ、そういう主張をする人たちの一人である高崎経済大の八木氏は、あるテレビ番組で「あなたの考える男らしさとは何だ」と問われて、「そんな質問があるとは聞いていないから」と結局最後まで答えられませんでした。 まあ、無理もないかなあ、と私は思ったのですが、それはダイアモンド医師が言うように生物学的性差がグラデーションであるのであれば、ジェンダー、社会的・文化的性差もいい加減グラデーションだと思うからです。10人いれば10通りの性があるのであれば、それを要素のひとつとして構成した社会的性差は、それこそグラデーションとなるのが自然ではないかと。もっとも上野さんは、ジェンダーは具体的にみると社会的な役割に必要とされる属性であって、生物学的性差とは別だとおっしゃってたように思いますが・・・。理解が違ってましたら、どなたか訂正お願いします。