仲正昌樹著『ラディカリズムの果てに』のラディカルなコメント改竄

2006年6月6日 - 4:58 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

gerling さんからトラバがあり、仲正昌樹さんの新著『ラディカリズムの果てに』においてこのブログが言及されていると知る。とりあえずわたしに対する批判じゃなくて、わたしのブログにおいてコメントした北田暁大さんを批判するという内容らしいのだけれど、これがおかしな批判となっている。わたしはこの本を入手していないので引用は gerling さんからの受け売りだけれど、こんな記述があるらしい。

仲正:(略)北田君はその意味で「生き生き」しています。彼の言い方からすると、おそらく、フェミニスト的な視点を持っていないと、少なくともジェンダーに関する真実は見えないってことになるんじゃないですかね。これはちょっと別件なんだけれど、ある別の人のブログの書き込みで、上野千鶴子のあるところでの公演内容を引用して彼女の言説を批判していいかどうかって話がありました。批判のネタにされるからなんだろうけど、上野千鶴子が公演したところの主催者が「公演内容の勝手な引用はしないで欲しい」とアナウンスしたそうです。それをあえて引用して、上野千鶴子に批判的なコメントを自分のブログで開示した人がいて、その人がフェミニストだった。そのときに北田君がそのブログに尋ねていって、「いや、上野さんは貴方のようなフェミニストが批判するのは大歓迎だと思いますよ。上野さんは、フェミニストが仲間内で批判しないというような風潮を良しとはしていません。問題は……」と書いていたことがありました。「問題は……」って何なんだよ?と。別に「仲正が」って特定したいんじゃないだろうけど、そのまま引用して批判するならフェミニストだろうと誰だろうと別にいいんじゃない?捻じ曲げてなかったら、八木さんとか小谷野さんみたいな人が上野千鶴子を引用して、「こんな馬鹿なことを言ってる」って批判しても。

わたしが書いた上野氏への批判というのはこちらのエントリ。その後、「このような形で上野氏を批判することは敵を利するのではないか」的な懸念をフォローするためにもう1つこちらの文章も書いたのだけれど、北田氏のコメントがあったのは後者。
ところが、実際の北田さんのコメントは仲正さんが紹介するものとは随分違っている。

# gyodaikt 『はじめまして。愛読させていただいております。「フェミニストだから(フェミニストを批判して)利敵行為をしてはならない」という見解に対しては、上野さんは強い違和を表明されていたように記憶しています。macskaさんのような上野批判であれば本人も大歓迎だと思います。問題は……。』

ここではつまり、「フェミニストなら他のフェミニストを公に批判すべきではない」という人がいることについて、上野氏はそのようには考えない人だから、わたしの書いたような批判は大いに歓迎するであろう、と北田さんは言っています。つまり、「フェミニストだから」批判しても良いというのではなく、「フェミニストであっても」批判しても良いとかれは言っているわけ。
また、「macska さんのような上野批判であれば本人も大歓迎」というのは、わたしがフェミニストだから歓迎という意味ではなく、わたしが書いたような内容の批判であれば歓迎という意味だと解釈するのが普通。フェミニストだからという意味であれば(そんなことを北田さんが言うとはまず考えられないけれど)、「macskaさんのような上野批判」ではなく「macskaさんのような人による上野批判」と書いていたはずだもの。
ところが仲正さんは文章を「貴方のようなフェミニストが批判するのは大歓迎だと思いますよ」と改竄したうえで、「フェミニストだろうと誰だろうと別にいいんじゃないか」と批判している。「誰だろうといいんじゃないか」というのは、もともと北田さんが言ったことなのに、仲正さんは北田さんの記述を勝手に別の意味に書き換えて、それを自分の主張として北田批判にしてしまっているわけ。
北田さんが「問題は…」と書いたとき、あとに何を言わんとしたのかは分からない。でも、もし仲正さんがこのように他人の文章を改竄して曲解したあげく本来その人が言っていたことを「批判」として書くということをする癖があるのだとしたら、「問題は…」のあとに「仲正さんみたいな批判のやり方は困るんだよね」と続いていたとしてもおかしくないなぁと思った。

48 Responses - “仲正昌樹著『ラディカリズムの果てに』のラディカルなコメント改竄”

  1. Death To The Apple Gerls Says:

    仲正昌樹さんについて 続き
    macska dot org » Blog Archive » 仲正昌樹著『ラディカリズムの果てに』のラディカルなコメント改竄 macskaさんからトラックバックを頂きました。トラックバックを表示しないような設定にしているので、なんか申し訳ないです。 内容についてなのですが、仲正さ

  2. Josef Says:

    >「macska さんのような上野批判であれば本人も大歓迎」というのは、わたしがフェミニスト
    >だから歓迎という意味ではなく、わたしが書いたような内容の批判であれば歓迎という
    >意味だと解釈するのが普通。
    そうかなあ。
    「中田英は『チームメイト同士で批判し合うのはチームワークを乱すからダメ』という見解に強い違和感を表明しています。福西のような中田批判であれば、中田本人も大歓迎だと思います。」
    という文を読めば、批判の「内容」もさることながら、「チームメイト」である福西の批判なら中田本人も歓迎する、と解釈するのが普通じゃありません?
    (注:中田英も福西もサッカー日本代表チームのメンバー。連係プレーをめぐって練習中に激しくやり合ったことが報じられた。)

  3. 通りすがり Says:

    >Josefさん
    言わんとしている事は分からなくはないですが、順序として、まずmacskaさんの『上野千鶴子をディスしたエントリのフォロー』という記事があり、その記事のレスとしての北田氏のコメントが入ってるので、Josefさんの読み方は妥当ではないかもです。
    macskaさんの元記事の内容を超大雑把に分けると2つに分かれます。間違ってたらすみません。
    1.上野千鶴子を非難する事で、バックラッシュ勢力を利する事になるのではないか?
     →ならない。(バックラッシュ勢力は何もしなくても、でっち上げなどで攻撃したりするが)フェミニストたち同志が意見を戦わせる事で論理を洗練させたり、むしろ信頼が生まれたりする。
    2.「引用禁止」についてのmacskaさんの考え方、及び、「引用される講演の内容」と、引用行為により発生しうるマイナスの影響について。
     →「引用禁止」に拘束力は無い。むしろ、批評の自由を守ることが社会の利益に繋がる。しかし、講演時などのガードの緩い発言を批評される事で、批判される側が萎縮してしまうのは困る。
    よって、北田氏のコメントは、
    1.の内容に関するレスとして『「フェミニストだから(フェミニストを批判して)利敵行為をしてはならない」という見解に対しては、上野さんは強い違和を表明されていたように記憶しています。』
    2.の内容に関するレスとして『macskaさんのような上野批判であれば本人も大歓迎だと思います。問題は……。』と、続けていると考えられます(『問題は……』は、2.の内容に関するレスでない可能性もあります)。
    翻って、仲正氏が紹介したコメント『上野さんは貴方のようなフェミニストが批判するのは大歓迎だと思いますよ。』では、2.に関するレスに対しても、1.に関するレスの内容が含有されてしまっているので、紹介の仕方としては、不適当であると思われます。

  4. Josef Says:

    通りすがりさん、情報をどうも。ただ、連続した文をそれぞれ別個の文脈で取るべきだというのはやっぱり無理があるでしょう。ひょっとすると通りすがりさんの読み方が「正しい」かもしれない可能性は排除しませんが、どういう読み方が「普通」かという点では、仲正氏の読み方が充分「普通」の範囲に収まっていることは否定できません。
    ただmacskaさんが指摘するように、仲正氏は一字一句の正確な引用ではなく自身の解釈の入った不正確な引用をしている。たとえその解釈が普通であるとしても、無用な混乱を招く元です。対談とはいえこの辺は事後的にきちんと調べてから書物にすべきでしょう。
    ま、うっかり*minx*に書いてしまったほどの軽い話題です。これ以上あれこれ言うのはやめときます。

  5. 芥屋 Says:

    >通りすがりの人
    分解しすぎではないでしょうか。
    macskaさんの元記事は、上野の当該講演における公私概念、そして演題の根拠とする文献解釈がおかしく、結果として危険性もはらんでいるというものが主題です。ただしこの批判をする際、macskaさんは二つの懸念をした。まずは批判意見を公に発表するに当たって、ソースに「引用不可」とあったこと。次に、批判を公表することが否応なく「利敵行為」にもなるだろうし、そこから過剰反応して公表の自粛を呼び込みはしないかということ。いづれも批判の主題とは別の、付随的なものです。
    そして後者の懸念について、指名された形の北田から批判は歓迎との内容の短いコメントがあったのであって、そこはそれだけのことです(北田のコメントを分解する必要はないでしょう)。また、Josefさんの意見は、「仲正氏による北田氏のコメントの受け止め方はおかしいのではないか」とするmacskaさんの見解中の一節についての疑問であって、北田コメントとは関係ありません。ちなみにこの箇所、Josefさんと同感です。
    >macskaさん
    引用不可とあることについてのmacskaさんの見解について、おおむね私は同意見ですが、口が滑ったものも含むような内輪向けの話を外部に出したくないのかもとの推測は、例によって深読みが過ぎると思う(自粛への牽制球かもしれませんが)。私はただ単に、著作権のことだろうと受け止めました。大学もしくはセンターの当局が、著作権について誤解しているのか、理解しているけど「無断で全文使用は不可」あるいは「ソース不明記による引用は不可」を言いたかったのだが短絡的な警告になったのか、そういうふうに受け止めました。まぁ、不安なら当局に問い合わせるのが一番でしょうね。

  6. 芥屋 Says:

    で、仲正は、北田の「問題は…」の後で何を言いたかったのかということについて、その文脈で立論しているわけですよ。「問題は…引用不可とされているものを引用したことですね」と続けたかったのだろうかと、そういう文脈で。そこで、「そのまま引用して批判するならフェミニストだろうと誰だろうと別にいいんじゃない?」と結ぶ形。
    つまり「引用不可とされたソースを引用して批判した点は問題ありと北田氏が言いたかったのであれば、フェミ−フェミ間でも同じことだろうに(まして、あなたの場合は歓迎、ということにはならんだろう)」という趣旨です。私はといえば、北田が引用の件で言葉を濁したのだろう、とは思わなかったけど。
    ただ仲正は、北田がそれを言いたかったのであればと仮定で批判しているんだけれども、実際には北田が続けて何を言いたかったのか不明ですから何とも言えませんね。もし「曲解」だと言うならそこでしょうけど、しかし、むしろひどく文意を曲解して引用しているのはmacskaさんなんですね。
    仲正は無断引用の件で言ってるのに、macskaさんはそれを脱文脈的に「内部批判でもいいじゃん」という文脈に置き換えちゃってるわけ。そんで、あんたに言われなくても北田さんが言ってるじゃないか、として、
    >他人の文章を改竄して曲解したあげく本来その人が言っていたことを「批判」として書く
    こんなこと言っちゃうわけですよ。少なくとも仲正による北田コメントの引用部分については、一言一句同じではないけど同内容ですよ。言わなかったことを推測で批判している点を問題にするならわかるけど、改竄なんかしていないな。

  7. 芥屋 Says:

    つまり仲正は、macskaさんが上野講演録を「引用不可とあったが無断で引用して批判した件」について、『そのまま引用して批判するならフェミニストだろうと誰だろうと別にいいんじゃない?捻じ曲げてなかったら、八木さんとか小谷野さんみたいな人が上野千鶴子を引用して、「こんな馬鹿なことを言ってる」って批判しても』と言ってるわけ。
    macskaさんはこれに同意するどころか、まったく別の話にして非難するわけで・・・。それは末尾の一文のせいでしょ?仲正のこの一行、北田がコメントしたmacskaさんの元記事のうち、下記の部分に対応するものですよね。
    ***************
    上野氏のような著名なフェミニストに対してこのように批判的な文章を誰もが読めるような場所で公開することは、彼女をあらゆる方法で中傷しようとするバックラッシュ勢力を利することになるのではないかという懸念はもちろんあった。ジョン・マネーの「双子の症例」に関して、上野氏がこのケースについて何ら言及していないにも関わらず、彼女が「双子の症例」を理論的支柱にしているだとか、マネーの失敗を隠蔽しているとか無茶苦茶な批判にさらされるくらいだものね。
     でも、フェミニストたちは常に他のフェミニストとのあいだでも意見を戦わせてきたし、そうすることでより洗練された論理を生み出して来たのだから、どうせ上野氏の講演もわたしのエントリも本当には理解できないような連中に悪用されることを恐れて発言をひかえる必要なんてないと思う。第一、何も批判されるような事をしていなくても勝手にでっちあげてバッシングしてくる連中なんだから、わたしが批判を控えたって何も変わらないじゃないの。
    ***************
    だから、北田の言わなかった続きは『問題は…バックラッシュ側が引用するのが…』だという受け止め方もありえるんでしょうね。だから仲正は『「問題は……」って何なんだよ?と。別に「仲正が」って特定したいんじゃないだろうけど』とも述べてる。それを言いたいの?という含みがあると思う。だから、あの結語に続くんだと思いますよ。
    んで、現にmacskaさんは『「問題は…」のあとに「仲正さんみたいな批判のやり方は困るんだよね」と続いていたとしてもおかしくないなぁと思った』・・・とね。意気が合ってますね(w

  8. 芥屋 Says:

    >わたしが上野氏ベッタリではなく批判するときは批判する態度を取っているからこそ、わたしが上野氏を擁護するときはそれが党派的な理由によるものではなく、実際に資料を吟味して批判が不当であると判断したからなのだということをより信頼してもらえるのではないかな。
    それはどうでしょう。その信頼感なら、人が見ているのは、内部批判の程度で判断するより、外部批判にどう対応しているか、のほうでしょう。「利敵行為だ」という非難をはらいのけてこんなに内部批判してますよ!というのは、演出としてでもできることじゃん。しかし外部からの批判にはどうか。macskaさんの場合、やはりそこに問題があるわけ。
    私が直接macskaさんから聞いたのは、「フェミニズムの社会学として最低限の基本ラインはこうで、これがわかってないバカフェミは遠慮なく批判してやってくれ」ということと、「でも自分が何でバカフェミ批判を徹底できないか」という理由ね、あれはわかりますよ。だから言ったでしょ、それはどちらもわかったけど、でも自分にどうしても徹底できない内部批判を外部委託しておいて、あなたのやってることは何だ、と。
    今件のmacskaさんによる上野批判が演出だなんて思いませんよ、あれは誠実かつ考えさせられる批判だと思う。それはいいんですよ、でもだからってそれをして「ほら、ちゃんと批判してるじゃない!」みたいに言われてもさ、そりゃ別の話じゃん。例の論文(「差異の政治学」)での上野のジェンダー論がおかしいことについて、たとえば私とmacskaさんとでは認識は同じでしょう。したがって上野が何を批判されているかも、ほんとはわかったはずです。
    八木らの「双子の症例」の一件で鬼の首でも取ったかのような反応は、確かにミスリードだとは思う。でもね、大筋では間違ってないんだ。当該論文のジェンダー論はおかしい。上野が持論の傍証として医科学的根拠に挙げたものがマネーとタッカーの研究で、しかしそれは八木らの言うようなブレンダの件としてではなく、彼女のGID理解に明らかな誤認があるため全く成り立たない、そこは変わらないわけでしょ?
    確かにあの辺のことは、素人レベルでもある程度きちんと理解できてないと、ただ「双子の症例」が間違ってたじゃないか!非人道的な話じゃないか!ってのは真に批判できていない。でも同じじゃん、その一点だけで鬼の首でも取ったかのように「ほら、批判者はこんなもん」って言うならさ。ともかく批判側が勘違いも含みながら批判したことの大筋は正しいわけですよ。

  9. 芥屋 Says:

    で、こうしたことは日本の文系フェミの中では行われてなかったわけじゃん。それを早くからmacskaさんが批判しなかったのが悪いのかな?そんなことないでしょ。知りえる立場にいなかったし。でも知った後で、ことの経緯と結果について問題点を矮小化するんだから、そりゃmacskaさんが悪い。「何も批判されるような事をしていなくても勝手にでっちあげてバッシングしてくる」じゃないでしょ。
    そもそも批判者の問題提起は、上野の当該論文に代表されるようなジェンダー論とその通用にあるわけで、上野の当該論文の細部に対してじゃないのね。だからそんな状況での「ジェンダーがセックスを規定する」にしても、macskaさんが先のエントリで翻案したような意味で用いられてはいないんですよ。あなたが「私ならこう考える。そう考えるべきだという根拠もある。上野さんや大沢さんはおかしい」と言えば、それはそれでいいのであって、しかしそうしないで架空の代弁をし、これまでの批判者の曲解だとしてしまうんだな。そこは私ではなくfooさんの指摘したことになるんですが。
    つーかさ、macskaさんにとって八木ら「つくる会」系の反フェミとか統一協会とかの存在って、好都合なんじゃない?「ほらね、悪意で曲解してばっかりの連中やカルトによるトンデモ言説」と言える存在はさ。
    そこで、tpknさんの意見を参考までに引用しときます。彼が批判意見を投稿し続けたフェミナチ板で「マナー違反」を口実にアク禁を食らった直後、処置を当然とする神名龍子さんが不当とする告天子さんに反論した部分(ゆえに文中の「彼の言う」とは告天子さんのこと。彼もこの後に投稿禁止)、そしてそれへのtpknさん自身の意見です。
    *****************
    【神名龍子】
    この掲示板が彼の言うように、本当に仲間意識で固まっていて、「異端」を追い出そうとしているかと言えば、私にはそうは思えない。たとえば(お名前を出して申し訳ありませんが)、としびんさんのように、かなりフェミ寄り発言の目立つ人に対しても、アクセス禁止にしろというような意見は出ないわけです。彼の言い分に対して反論はしますけど(^^;)、書き込みの削除の対象にはなりませんし、おそらく私だけでなく、大半の人達はそれで納得していると思います。
    そういう意味でも、告天子さんの主張は、tpknさんがなぜアクセス禁止になったのかということの本質を突き外していますし、
    【tpkn】
    これはまったくおかしいですね。「本質」かどうかで言えば、としぴんさんの書き込みがこの板の常連の発言の本質的な部分に切り込んでいないからでしょう(としぴんさんには失礼ですが)。
    同じようにわかりやすい例として、「クソウヨ反対」氏というのがいますが、彼のように全編罵倒のみの投稿だって、やはり投稿禁止にせよなどという意見は出ない。理由は簡単です。ああいうわかりやすいブサヨ主張をする人は、この板にとってはむしろ重宝だからでしょう。いくら汚い言葉で何を書かれようが、クソウヨ反対氏は簡単に論破でき、絵に描いたようなサヨクのおかしなところを白日の下にさらせるのですから、こんなに貴重な論者は他にいないでしょう。
    *****************
    フェミも反フェミも、ほんまによく似てると思うんですよ。双方とも敵か味方か思考で、「利敵行為」とかばっかり気にするからそうなるんじゃないのかな。

  10. 通りすがり Says:

    芥屋さんへ
    >分解しすぎではないでしょうか。
    そうかもしれません。
    >北田のコメントを分解する必要はないでしょう
    一概には、そうとも言えません。
    何故なら、北田氏のコメントと仲正氏の引用の「双方を分解」すると、意味にズレが生じるからです。
    北田氏がそうかどうかは分かりませんが、分解して読み取る事が可能な文章(というか、複数の意味を込めた文章か)を、ナチュラルに作る人は存在しますし、あの文章を、実際に分解して読み取る事もそれほど不自然では無いと思います(分解の方法も、素直に句点で分けただけだし)。
    というか、自分はそう読み取りました。で、その読み方をすると、前出の通りになる、と。
    しかし、仲正氏の引用を同じように句点で分解(……して読み取るべき文章では無いと思いますが一応)しても、『上野さんは貴方のようなフェミニストが批判するのは大歓迎だと思いますよ。』『上野さんは、フェミニストが仲間内で批判しないというような風潮を良しとはしていません。問題は……』となってしまい、分解されたどちらの要素も「批判はフェミニスト以外は不可」という趣旨の色彩を帯びてしまっています。
    このように「AともBとも読み解く事が可能な文章」と「AかA’しか読み解けない文章」では意味が異なります。本当の事は書き込んだ本人ではないので分かりませんが、北田氏の元の文章が「AともBとも読み解く事が可能な文章」であったにも拘らず、(プライバシーなどの問題があるとは言え)「AかA’しか読み解けない文章」に変えて紹介し、あげく「A」的な発言として非難するのは、やはり不適切かと思われます。
    フェミの書いた文章が、アンチフェミには「Aと読むのが自然」で、フェミには「Bと読むのが自然」な文章があった場合、どちらの読み方が妥当なんでしょうかね? 似たような思考をしているフェミの方がより正しく読み取れる? 仲間ではないので、アンチフェミの方が冷静に見れる?
    個人的には、どちらにも先入観等があると思われるので「どっちもどっち」だと思います。で、「どっちもどっち」であるからこそ、引用する際には「同じ文章」か、「どちらのサイド側から見ても同じ文章と取れるもの」である必要があるのではないかと。
    Josefさんへ
    >連続した文をそれぞれ別個の文脈で取るべきだというのはやっぱり無理があるでしょう。
    すみません。私の『と、続けていると考えられます』という書きかたが悪かったのですが、「取るべき」とまでの主張ではありません『と、続けている「とも」考えられます』『Josefさんの読み方は妥当ではない「かも」』程度と考えて頂けると有り難いです。
    >これ以上あれこれ言うのはやめときます。
    私も、本来ただの通りすがりなので、この辺にしときます。

  11. macska Says:

    うーん、別の読み方もできないかと思って考えてみたんだけれど、仲正さんを擁護するのはかなり難しいんではないかと。だって、仲正さんの批判は「そのまま引用して批判するならフェミニストだろうと誰だろうと別にいい」「八木さんとか小谷野さんみたいな人が上野千鶴子を引用して」批判してもいい、というものでしょ。そして、それが批判として成立するためには、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているという意味に読むほかありえないじゃん。そうでなければ、批判として成立しない。違いますか?
    で、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているならその批判は妥当だけれど、かれの言い方は「フェミニストでも」批判していい、というものであり、アンチフェミニストが批判するのは当然のこととして問題にすらされていない。
    「問題は…」のあとを文脈から補うと(これはわたしの想像に過ぎないので、北田さんの真意は違うかもしれません)、当時「諸君!」で仲正さんが八木さん・小谷野さんと鼎談したことについて、北田さんとのあいだで問題になっていました。それはもちろん、仲正さんの言うような「『諸君!』に出たこと自体が問題だ」ということではありません(出た事自体を北田さんは批判していません)。
    北田さんの批判は、八木さんが「諸君!」鼎談の中で上野千鶴子氏に対してデタラメな批判をしているのに、どうしてフェミニズムに造詣のある仲正さんがそれに何とも反論しなかったのか、というものです。デタラメな批判というのは、例えばこんな発言です。

    八木 上野千鶴子東大教授ら日本のジェンダーフリー推進論者も多くこれに依拠し、「生物学的性差(セックス)」の基盤のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差(ジェンダー)が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスではなくジェンダーであることを、明瞭に示した」(『差異の政治学』岩波書店)などと絶賛してきました。

    まず第一に、上野氏はジェンダーフリー推進論者ではない。第二に、「これに依拠し」というのは例の「双子の症例」のことなんですが、上野氏は「双子の症例」に言及すらしておらず何ら依拠していない。要するに、完全なデタラメの批判であり、これに仲正さんは反論もしくは訂正するべきだった、というのが北田さんの批判です。
    というわけで当時のこうした文脈をもとに「問題は…」のあとを補填すると、macska のように上野の発言をきちんと正確に引用・解釈して批判するのは問題ないが、八木のように批判対象を歪曲して貶める批判は問題である、と読めます。また同時に、仲正さんがやったように北田さんの批判を「『諸君!』に出てどこが悪い」みたいに歪曲して反論するのもまた問題であると北田さんが感じていたことも想像がつきます。
    以上はわたしの想像に過ぎないのですが、これで「問題は…」の部分は説明がつきます。わたしは北田さんが「アンチフェミの批判は、仮に内容が妥当であっても許されない」と考えるような人物だとはとても思えないので、このように解釈するのが一番自然だと思っています。

  12. トニオ Says:

    どうも。

    そして、それが批判として成立するためには、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているという意味に読むほかありえないじゃん。そうでなければ、批判として成立しない。違いますか?

    違うと思います。そう思うのは単純なことですが、そもそも北田さん自体がフェミニストではない。でも、多分彼は”敵”ではない。違いますか?

    で、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているならその批判は妥当だけれど、かれの言い方は「フェミニストでも」批判していい、というものであり、アンチフェミニストが批判するのは当然のこととして問題にすらされていない。

    いや、フェミニズムに対する姿勢というのはコミットするか、敵対するか、ということではないと思います。フェミニズムにコミットする(フェミニスト)、コミットしないまでも友好的な態度をとる(一般的なリベラル、北田さんもこのような姿勢だと考えていいでしょう)、フェミニズムに対して無関心である(ノンポリ)、フェミニズムに対して敵対的である(保守、一部のリベラル)……このように、フェミニズムへの態度というのは多層的であると思います。さらに、それがどのようなフェミニズムであるか、などという問題によっても幾層も態度はありうると考えます。そのように考えていったうえで、問題は北田さんがどのような線引きで「macskaさんのような批判」と言ったかです。

    北田さんの批判は、八木さんが「諸君!」鼎談の中で上野千鶴子氏に対してデタラメな批判をしているのに、どうしてフェミニズムに造詣のある仲正さんがそれに何とも反論しなかったのか、というものです。デタラメな批判というのは、例えばこんな発言です。

    雑誌の鼎談というのは純粋に語られたことでなく、語られた後に削られたり付け足されたりするものです。当然、「売れっ子」である北田さんがそれを知らないはずはありません。もし、八木がその場で語ったのだとしても、仲正さんが上野の本を読んでいるとは限らない。フェミニズムに造詣が深い、と言ってもコーネルから上野までではかなり幅があります。そもそも、北田さんの批判にしても、「諸君!」は「世界」の何倍も売れているだとか、八木は安部晋三のブレーンであるとか、かなり客観的でない意見がトークショーの話を見る限り、多々見受けられたようです。出たこと自体を問題にしていない、とはやはり到底思えません。
    しかしまあ、「問題は…」の部分はmacskaさんの言うとおりの解釈もできると思います。だけれども、だとしたら「フェミニスト内」の内輪話を前置きにするのは少し不適当かと思われますが。

  13. トニオ Says:

    どうも。

    そして、それが批判として成立するためには、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているという意味に読むほかありえないじゃん。そうでなければ、批判として成立しない。違いますか?

    違うと思います。そう思うのは単純なことですが、そもそも北田さん自体がフェミニストではない。でも、多分彼は”敵”ではない。違いますか?

    で、北田さんが「フェミニストだから批判していい」と言っているならその批判は妥当だけれど、かれの言い方は「フェミニストでも」批判していい、というものであり、アンチフェミニストが批判するのは当然のこととして問題にすらされていない。

    いや、フェミニズムに対する姿勢というのはコミットするか、敵対するか、ということではないと思います。フェミニズムにコミットする(フェミニスト)、コミットしないまでも友好的な態度をとる(一般的なリベラル、北田さんもこのような姿勢だと考えていいでしょう)、フェミニズムに対して無関心である(ノンポリ)、フェミニズムに対して敵対的である(保守、一部のリベラル)……このように、フェミニズムへの態度というのは多層的であると思います。さらに、それがどのようなフェミニズムであるか、などという問題によっても幾層も態度はありうると考えます。そのように考えていったうえで、問題は北田さんがどのような線引きで「macskaさんのような批判」と言ったかです。

    北田さんの批判は、八木さんが「諸君!」鼎談の中で上野千鶴子氏に対してデタラメな批判をしているのに、どうしてフェミニズムに造詣のある仲正さんがそれに何とも反論しなかったのか、というものです。デタラメな批判というのは、例えばこんな発言です。

    雑誌の鼎談というのは純粋に語られたことでなく、語られた後に削られたり付け足されたりするものです。当然、「売れっ子」である北田さんがそれを知らないはずはありません。もし、八木がその場で語ったのだとしても、仲正さんが上野の本を読んでいるとは限らない。フェミニズムに造詣が深い、と言ってもコーネルから上野までではかなり幅があります。そもそも、北田さんの批判にしても、「諸君!」は「世界」の何倍も売れているだとか、八木は安部晋三のブレーンであるとか、かなり客観的でない意見がトークショーの話を見る限り、多々見受けられたようです。出たこと自体を問題にしていない、とはやはり到底思えません。
    しかしまあ、「問題は…」の部分はmacskaさんの言うとおりの解釈もできると思います。だけれども、だとしたら「フェミニスト内」の内輪話を前置きにするのは少し不適当かと思われますが。

  14. Josef Says:

    私はこのエントリーを「北田は<こう書いているのに>、仲正はそれを改竄した上で北田を批判している」というものだと思ったけど、いつのまにか、「北田の<真意はこうなのに>、仲正はそれを捻じ曲げて北田を批判している」になってますね。こうして芥屋さん言うところの「敵か味方か思考」は進展していく…

  15. macska Says:

    わたし、仲正さんが敵だなんて一瞬も思ったことないですけれど。「デリダの遺言」読んでますし。
    それに、わたしが何か主張を弱めているかのような言い方はやめてください。最初から何も変えていません。わざわざこじつけておかしな読解をする人がいるから、それは変ですよと別の表現で指摘しているだけですよ。
    それにしても、Josef さんにせよ芥屋さんにせよ、どうしてこれほどまでにわたしの発言に一々どうでもいいような点までケチをつけてまわる人がいるのか不思議に思っています。反論は歓迎ですけど、この2人の言動は「macskaに反論すること」が自己目的化しているように見えます。

  16. Josef Says:

    >Josef さんにせよ芥屋さんにせよ、どうしてこれほどまでにわたしの発言に一々どうでもいいような点までケチをつけてまわる人がいるのか不思議に思っています。
    「改竄かどうか」はエントリーの主題なんだから「どうでもいいような点」ではないでしょう。私が書いたのは要するに「正確な引用ではないが改竄とまではいえない」ということ。主題に関する私のコメントはそれで終わりですが、macskaさんの「うーん」に始まるコメントは主題をずらしたように見えた。そこでそのことについて新たにコメントした。それだけのことですよ。
    >反論は歓迎ですけど、この2人の言動は「macskaに反論すること」が自己目的化しているように見えます。
    もしかしてmacskaさん、自己評価高すぎなのでは?誰もそんなにあなたに執着してませんって。

  17. 芥屋 Says:

    >通りすがりの人
    なるほど。北田コメントのオリジナルと、仲正による引用部分と、その二つをそれぞれ句読点で分解してみれば、という読み方ですか。うーん、おっしゃりたいことは理解できましたが、やはり分解しすぎです。そのセンテンスだけを脱文脈的に句読点で分解し、そこに読者が各部分について独立した意味を与えると、元の意味から離れてしまう危険のほうが大いでしょう。なお、
    >フェミの書いた文章が、アンチフェミには「Aと読むのが自然」で、フェミには「Bと読むのが自然」な文章があった場合、どちらの読み方が妥当なんでしょうかね?
    その場合、それは政治対立的な党派色の強い文章だった、ということでしょうね。当然、受け止め方は相対的なものでしょう。
    >個人的には、どちらにも先入観等があると思われるので「どっちもどっち」だと思います。で、「どっちもどっち」であるからこそ、引用する際には「同じ文章」か、「どちらのサイド側から見ても同じ文章と取れるもの」である必要があるのではないかと。
    ここは同感です。Josefさんも指摘していましたが、無用の混乱を与えないためには、仲正もそうするべきでしたね。
    >macskaさん
    >それにしても、Josef さんにせよ芥屋さんにせよ、どうしてこれほどまでにわたしの発言に一々どうでもいいような点までケチをつけてまわる人がいるのか不思議に思っています。反論は歓迎ですけど、この2人の言動は「macskaに反論すること」が自己目的化しているように見えます。
    また神名さんみたいなことを・・・。つか、↑こういう「どうでもいいような点まで」自分が書くからでしょう(苦笑)
    *しかし何ちうか、あれこれ推測していらっしゃいますが、推理小説じゃないんだから(苦笑)。「問題は…」と言いかけて北田はバタッと倒れ息絶えたが、いったい何を言い残したかったのか?!その謎に迫ることが、今後の展開の大きな鍵を握る!!・・・わけないってばw

  18. 芥屋 Says:

    >わたしは北田さんが「アンチフェミの批判は、仮に内容が妥当であっても許されない」と考えるような人物だとはとても思えないので、
    なるほど。そこに気持ちが入っちゃってるんだ。そんな非常識なことを考える人がフェミ界隈にいるのかどうか知りませんが、macskaさんは仲正が北田のことをそう考えているんだ、と。仲正がどこにそんなことを書いてるかなぁ。それこそ言い掛かりでしょう。
    >仲正さんを擁護するのはかなり難しいんではないかと。
    擁護も何も・・・。こんなんで「曲解だ!改竄だ!」なんて通った日にゃ「そりゃ違うでしょう」と言わざるを得ません。
    >だって、仲正さんの批判は「そのまま引用して批判するならフェミニストだろうと誰だろうと別にいい」「八木さんとか小谷野さんみたいな人が上野千鶴子を引用して」批判してもいい、というものでしょ。
    そうですよ。だから仲正は、単にmacskaさんの元記事の文脈からそのまま延長線上に仮定しただけでしょ。上野はフェミどうしの批判は利敵行為だという見解には反対だと。でも門下生は何と言うかとmacskaさんに問われたら北田は歓迎だと。だけど問題は・・・って何だよ?論敵が引用してデタラメな批判をするというあたりのことか?と。仲正は北田に問いただしたいことを問うただけじゃん。それを問うと何故「改竄」なんですか?

  19. 芥屋 Says:

    >北田さんの批判は、八木さんが「諸君!」鼎談の中で上野千鶴子氏に対してデタラメな批判をしているのに、どうしてフェミニズムに造詣のある仲正さんがそれに何とも反論しなかったのか、というものです。
    それについては、そんなこと言われても困るよ、ということかもしれませんね。で、仲正はmacskaさんの八木への反批判については、何とも反論してませんよね(引用部分を見る限り)。上野の当該論文について、どちらの側が是であるとは言ってないわけでしょう。で、まさにそれが、仲正の北田への反論じゃないのかな。
    上野が当該論文において持論の傍証とした医科学的見地の是非については、持論のある個々人が思うところを批判し合えばいいじゃないか、自分が上野批判をするとバックラッシュへの利敵行為になるのが問題だとか(by macska)、あなたのような批判なら歓迎だとか(by 北田)、何を言ってるの?と。(あくまでこの記事についてです。それ以外の箇所は、私は読んだことないので知りません。)
    >デタラメな批判というのは、例えばこんな発言です。
    えぇっと、八木らについては、私は既に自分の見解は述べていると思うのですが。先に書いたことで足りなければ、一応、
    >まず第一に、上野氏はジェンダーフリー推進論者ではない。第二に、「これに依拠し」というのは例の「双子の症例」のことなんですが、上野氏は「双子の症例」に言及すらしておらず何ら依拠していない。要するに、完全なデタラメの批判であり、これに仲正さんは反論もしくは訂正するべきだった、というのが北田さんの批判です。
    まず第一に、批判者は固定的男女観の持ち主とは限らない。第二に、上野が当該論文においてGIDを誤認して持論の医科学的な傍証としている点は、その男女論に暗い影を落としている。自閉性症候群を「ひきこもり」と混同したあげく「母子密着によるマザコン少年の末路」として持論の医科学的な傍証としていた件も、全く同じ性質のものである。
    なぜこのような初歩的な誤認が続けて生じるのか、現在主流の官製ジェンダー論への真摯な見直しはなされておらず、こうした上野個人の責に帰して終わるべきではない問題点を、黙殺するか旧態依然とした保革の政争の枠組みでしかとらえない他の文系ジェンダー論者のありかたも極めて問題である、というのが私の批判です。

  20. ラクシュン Says:

    『差異の政治学』について。
    多くの犠牲を払ってでも「「性自認」に生物学的身体のほうを合わせる」ということが、何故「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。」になるのかぁ?
    しかしこのように、性自認と身体の不一致による性転換手術が、ジェンダー・セックスだけで語られるということは、性別で二分された既成のジェンダー観念を強化しているようにも見えるんだけど。

  21. macska Says:

    「差異の政治学」にはわたしだっていろいろと批判はあります。
    しかし、「差異の政治学」にいろいろな問題点があるからといって、八木氏らのデタラメな批判まで認めることはないでしょ。

  22. xanthippe Says:

    こんばんは 性自認は妊娠中のホルモンの影響で決定されるんじゃないのかな?
    楽俊さんは性自認が文化的・社会的なものだという前提にたつんですか??? それって双子の症例を認めることになると思うけど、それでいいんですか? 性自認と身体(脳以外)的性はジェンダーとは分けて考えなくちゃいけないんじゃないのかな?
    性同一性障害で悩んでいる人は、別に男らしさ女らしさのジェンダーで悩んでいるんじゃないと思う。その人が男女のジェンダーが逆の社会で生きていても、悩みは同じだと思うから。だからジェンダーにとらわれる必要はないとか、第3のジェンダーがあるんだと考えることができれば、別にセックスをジェンダーに合わせる必要はないはず。
    悩んでいる人は、ジェンダーにとらわれているから悩むんでしょう? でも、現実社会はまだジェンダーは大きな拘束力を持っているし、男女二言論で語られることが多いものね。悩むのも無理はない。

  23. しゅう Says:

    明後日テストだよ・・・
    >xanthippeさん
    こんばんは〜♪
    >性自認は妊娠中のホルモンの影響で決定されるんじゃないのかな?
    え?まだ明確な結論は出てないと聞いたんですけど?
    >性同一性障害で悩んでいる人は、別に男らしさ女らしさのジェンダーで悩んでいるんじゃないと思う(中略)悩んでいる人は、ジェンダーにとらわれているから悩むんでしょう? でも、現実社会はまだジェンダーは大きな拘束力を持っているし、男女二言論で語られることが多いものね。悩むのも無理はない。
    こういう主張はジェンフリ支持者のヒトに良くありますね(^^
    けどね、こういうフェミニストのお節介は余計なお世話だというヒトも結構いるんですよね。
    FtMのヒトは男性なんです。MtFのヒトは女性なんです。男でも女でもない何かではないんですよ。
    MtFのヒトがスカートを身につけるのは、それがただヒラヒラした布切れだからなのではなく、女性性を纏ったものだからですよ。
    そういったものを取り去ってしまえば(=スカートは女性がはくものという認識を消し去れば)、GIDの人たちは救われるというわりがちな主張は、その手の人たちにとっては欺瞞ではないかと思います。

  24. 亜子 Says:

     最近のエントリーとコメントを読んでいて、自覚症状のないストーカーにつきまとわれている人を見るような思いがしました。議論が単なる不毛な水かけ論にならないためには発言者が常識的な節度や配慮を共有していることが必要で、josefさんや芥川さんにはそのような常識が欠けていると思います。
     その根拠は、議論が進むうちにはじめに論じられていた論点が一応の決着を見て、新たな論点が出て噛み合った議論が続いていく・・・というようにコメントの応酬が続いていくのではなく、はじめに
    食い違った意見が噛み合わないまま延々と続いていくという形でコメントが長引いていくという形になっていることにあります。
     論点が噛み合わず、両者が両者とも相手が論理の歯車を合わせてこないと主張している状態を「水掛け論」と言うと思いますが、その状態になったらもう無理にはっきりさせようとしても不可能に近いことは経験的にわかるはずですし、相手が本当に滅茶苦茶な論理であるならコメントのやりとりを読んだ人にもわかるのだから、「水掛け論」になった時点で粘着的に延々とコメントを繰り返したりせず、読者の判断にゆだねるのが私は議論における常識的な態度だと思います。
     このようなコメントの状態が続くなら、私は読者として「エントリーは個人的な賛否は当然あっても読むに値するが、コメントは毎回延々と粘着的な水掛け論が続いていて読む価値がない」と思い、できれば粘着的な人にコメントを遠慮してもらう措置をしてもらいたいと思ってしまいます。その方がこのブログのページ上に表示されるトータルのテキストの質は間違いなく上がると(現時点の状況を見て)思いますし、その措置を不当だと思う人ももちろんいるでしょうが、そういう人たちの批判や幻滅を差し引いても、このブログを評価し有意義な議論のたたき台に使っていく人やブログの影響力は減らないと私は思います。

  25. tpkn Says:

    > 論点が噛み合わず、両者が両者とも相手が論理の歯車を合わせてこないと主張している状態を「水掛け論」と言うと思いますが、
    そういうのは「水掛け論」とは言いませんね。

  26. mushimori Says:

    こんにちは。最近フェミニズム関連に関心を強め始めた若輩者です。
    だんだんといわゆる「荒れ」の状態になっているように思いますが、やっぱり北田さんに真意を述べてもらうのが一番手っ取り早いように思うんですが。こちらを愛読していらっしゃるとのことですし。
    でも、「問題は…」の後に何を言わんとしたのか、なんてことはどうでもいいことのような気がします、はっきり言って。もともとフェミニストがフェミニストを批判するのがいいのかどうか、という話だったわけですから、北田さんの思いがどうあれ、とりあえずmacskaさんの批判はあってもよかったのでしょうし、もしも北田さんがある種の批判は受け入れられないと思っているだとしたら、それは後日直接に確認すればいいのであって、推理小説まがいの議論を続けることに意味はないのではないでしょうか。それとは別に仲正さんの批判の調子が残念ながらちょっと落ち着いているとは言いがたいということもあって、それもまた個別に議論すべき問題ですよね。ネットにありがちな現象とは思いますが、瑣末な言葉尻にとらわれて方向性を見失っているのは憂慮すべきと思います。一応、誰にというわけではありませんが(こういう言い方を挑発と取られるというのがまたネットの困ったところだ、こういうところに反応してはいけない)、思ったことをちょろっと述べてみました。

  27. ラクシュン Says:

    仮に、GID(性同一性障害)に関する理論(or仮説)というものがあったとして、それを正常児(ブレンダ)や一般人(not性転換)に適用できるという仮説は、いったい何処からやって来たものか?
    そしてその仮説は、どのような“補助仮説”によって支えられているのだろう?
    これは、その方面の専門家ではない私にとっては、最大の疑問です。
    #できれば、解り易く上野さんに答えて欲しいんですけどぉ。
    #だってホントに不思議だよ、論理的にもぉ。

  28. macska Says:

    mushimori さん:

    やっぱり北田さんに真意を述べてもらうのが一番手っ取り早いように思うんですが。こちらを愛読していらっしゃるとのことですし。

     うーん、そういう問題じゃないと思うのですよ。わたしは、北田さんの割とはっきりした記述を仲正さんがおかしな意味に解釈して空虚な批判をしていると言っているのですから、もしわたしの言う通り北田さんの記述の意図が(ある程度事情を知った)第三者からみてほぼ明らかなのであればわたしが正しいし、そうでないなら仲正さんが誤読したのもやむをえないことになる。もし北田さんに真意を聞かなくちゃいけないとしたら、その時点ですでにわたしの批判が正しいかどうかの結末がでているということになります。
     で、実際に「第三者からみて明らかではないぞ」と言う人がここにいるわけですが、そのうちわたしが意見を少しなりとも尊重するのはトニオさんだけなので、まだ結論が出たとは思っていません。何名かは、わたしが何と言おうがなんとかして因縁をつけるようとつきまとっている人間ですからね。

    でも、「問題は…」の後に何を言わんとしたのか、なんてことはどうでもいいことのような気がします

     わたしもそう思うのですが、その一言を理由に北田さんのコメント全体におかしな解釈を加えようとする人がいるから、当時の状況からこういう解釈が自然ですよとわたしは言いました。
    ラクシュンさん:

    仮に、GID(性同一性障害)に関する理論(or仮説)というものがあったとして、それを正常児(ブレンダ)や一般人(not性転換)に適用できるという仮説は、いったい何処からやって来たものか?

     インターセックスの症状を持って生まれてきた子どもについては、当時手術をせずにそのまま育てるのは子どもの利害に反すると考えられていたので、たくさんの手術が行われてさまざまなデータがとられ、それを元に性自認に関するひとつの理論が作られました。その理論がインターセックスではない一般の子どもに適用されると思い込むのはもちろん間違いです。しかし、目の前にペニスを失ったブレンダという患者がおり、どのように扱うか決めなければいけない。
     かといって、インターセックスの例は参考にならないとまったく無視されるべきでもないでしょう? もちろん実際に正常な子どもにさまざまな手術を行って結果を調べることができればデータ収集という意味では理想的ですが、そんなことが人道的に許されるわけがない。だったら、まったく同じケースではないけれど類似ケースであるインターセックスの症例から学んだことを参考にして医学的決断を下すというのは、そんなに考えられないことではないでしょう?
     これは例えば、化学物質の毒性を調べる研究を考えてください。動物実験によって強い毒性があるとわかった物質があるとします。もちろん実験動物と人間は同じではないから、その物質が人間に対しても毒性を持つとは限らないと言うことはできる。かといって、完全なデータをとるためにと人体実験するわけにもいかない。しかしやっぱり、一度危険性が疑われた以上は、人体に安全が確認されるまでは動物実験のデータしかなくてもとりあえずなんらかの措置(規制)をしようということになりますよね。
     結論です。もし「適用できる」という完全な自信をマネーが持っていたとしたらそれは過信だけれども、「適用できる」と信じてその方向で治療することが当時の医学的知識では考えられる限り最良の選択だった可能性はあります。だいたい、根拠が完全にはっきりしている医療しか認めないという仕組みで世の中は動いていませんよ。

    #できれば、解り易く上野さんに答えて欲しいんですけどぉ。
    #だってホントに不思議だよ、論理的にもぉ。

    どう考えても上野さんの専門分野ではないのですが、どうして上野さんを指名するのですか?
    もしかして、上野とマネーを同一視しているとか?

  29. xanthippe Says:

    こんばんは 夕食前なのでチョコとだけ。
    >そういったものを取り去ってしまえば(=スカートは女性がはくものという認識を消し去れば)、GIDの人たちは救われるというわりがちな主張は、その手の人たちにとっては欺瞞ではないかと思います。
    私が言ったのはそうじゃないってば。本人は、例えば女性らしさを追及すればよいのですよん。社会が多様性を受け入れれば良いだけですわん。身体的に見た目が男だっても、女性として振る舞い、女性の格好をし、女性として生きる人の存在を当たり前に受け入れる社会であれば良いってこと。
    それでももちろん、体が女でなきゃいやだって人もいるから、そういう人は手術するしかないし、それも生きるための一つの選択でしょう。 用は、社会が柔軟であればいいのですう。

  30. xanthippe Says:

    すぐに重くなっちゃうのは困るけど、読者としては選択できるわけだからほうっておくのがいいのではないかなあ・・・。最近、芥&Jは拾い読みか、飛ばかしておりますわん。気にしない、気にしない。

  31. mick_foley Says:

    xanthippeさま、はじめまして。。。
    今週夕方6時のフジテレビにて同一性障害の特集を見ていて、京都(だったと思う)の男性教師が
    ホルモン治療を受けて体を女性化したり、その変化に彼の奥さん、子供が戸惑って「なんて呼べばいいの?お父さんなの?お母さんなの?」などといっている様子が大変興味深かったです。
    さて
    >それでももちろん、体が女でなきゃいやだって人もいるから、そういう人は手術するしかないし、
    とおっしゃいますが、その手の手術やホルモン治療を受ける際、現代の日本では保険が適用
    されません。ジェンフリ的な「いろいろなグラディエーション化された性の多様化を認める社会」が実現されたとしてもその手の「性転換化」は、「治療」ではなく禿げの男性の植毛とかセレブな女性の二重とか豊胸手術などのように自己都合のための整形手術と同等なものと見なされてしまい、保険適用なしも仕方がないという結論に達してしまうのではないでしょうか?
    その際、本来その手の「治療」を受けたがっている人にとって不利益な社会になってしまうのではないでしょうか?
    #今現在ジェンフリ的な見方が社会の一般認識なっておらず、なおかつ保険が適用されていない
    #のは別な意味で矛盾を感じておりますが、、、

  32. mick_foley Says:

    あとGIDでなおかつホルモン投与や性転換手術を望む人にかかるコストってどのくらいなんでしょう?
    それらの人々に治療を施してたとえば社会保険料が年間数%に増える程度ならばばあまり問題にならないと思うけど2割3割に増えるとなったらあまり歓迎されないと思います
    #というか個人的にきついかも。。。

  33. mushimori Says:

    >うーん、そういう問題じゃないと思うのですよ。わたしは、北田さんの割とはっきりした記述を仲正さんがおかしな意味に解釈して空虚な批判をしていると言っているのですから、もしわたしの言う通り北田さんの記述の意図が(ある程度事情を知った)第三者からみてほぼ明らかなのであればわたしが正しいし、そうでないなら仲正さんが誤読したのもやむをえないことになる。もし北田さんに真意を聞かなくちゃいけないとしたら、その時点ですでにわたしの批判が正しいかどうかの結末がでているということになります。
     で、実際に「第三者からみて明らかではないぞ」と言う人がここにいるわけですが、そのうちわたしが意見を少しなりとも尊重するのはトニオさんだけなので、まだ結論が出たとは思っていません。何名かは、わたしが何と言おうがなんとかして因縁をつけるようとつきまとっている人間ですからね。
    なるほど、了解しました。僕としては、北田さんが仲正さんを批判したときに、それが『諸君!』に出ていたということだけを問題にしていたとは考えにくいと思っています。一つの「空気」として「バックラッシュ」が幅を利かせているときに、『諸君!』で、何を、語るか、ということだと思うんですね。そう考えたときに、『諸君!』で「馬鹿なフェミニストが」と語ってしまうことは、全体の「空気」の中に堕ちている、無駄に「生き生き」してしまっているとやはりいえるのではないかと思うんです。北田さんの批判の中に客観的とはいえないものが含まれているとしたらそれは指摘されるべきとしても、仲正さんに対する北田さんの疑問というのは相応に妥当なものなのではないだろうか、と。macskaさんの「問題は…」の読み方は妥当だと思います。僕はトニオさんが北田さんにやけに厳しい理由がちょっとわからないんですが、仲正さんが「ネット論壇的」な「空気」の中で貶められることに疑問を感じているからなのでしょうか。
    ちなみに、最近北田さんが発表した文章で以下のようなものがあります。『小説トリッパー』の連載で「社会〈学〉の窓口まで」の「オトコの美学」という回です。
    「思うに、近代とは、実存を寄せつけない男らしさの殻によって男たちを縛り付けてきた(マスキュリニズム)だけではなく、同時に、自らの実存を語るよう(総括!)男たちに強迫し続けてきた社会なのではないか。とすれば、加藤(注:加藤秀一)のように反省を語ってしまうことは、近代家父長制が仕掛けた罠にすっぽり嵌まってしまうことを意味する。ラカン的な「女は存在しない」テーゼを前提とするかぎり、加藤の振舞いはもっとも誠実な応答のあり方といえようが、もしかりに「男は存在しない」という命題が真であるなら、それは「不徹底」な反省として回収されてしまうだろう。リベラルな「非反省の美学」は、「男は存在しない」ことに反省のまなざしを向けるがゆえに、「あえて」反省・実存を語らない——いわば総括的反省空間から「降りる」——のである。
     もちろん、こうした「非反省の美学」に対しては、「それ自体が男は黙して語らずというマスキュリニズムにすぎない」とか、「結局のところ対話の継続を拒絶するだけの自己正当化に過ぎない」といった批判が寄せられることだろう。だが、たとえば妙に挑発的なフェミニズム批判を繰り返す宮台真司や、加藤に何を言われてもスタンスを変えようとしない瀬地山といった男たちの挙動を、単純な反動——《露骨な家父長》への回帰——として片付けたところで、かれらの思想的位置どりが明確になるわけではない。自らの位置をアイロニカルに反省するがゆえに「無反省」を選択する「非反省の美学」。それが「男という病」であるとしても、《露骨な家父長》とは異なる症候であることは疑いえないだろう。「反省としての無反省」。共感と反発の彼岸でそのしたたかさを理解しなくてはならない。」
    というわけで、馬鹿な僕にはほとんど理解できないのですが、とりあえず、単なる家父長ばかじゃん、と思われそうだが実は違うかもしれない、という分析をするくらいの意識を北田さんは持っておられるということが読み取れるのではないでしょうか。

  34. ラクシュン Says:

    > 結論です。もし「適用できる」という完全な自信をマネーが持っていたとしたらそれは過信だけれども、「適用できる」と信じてその方向で治療することが当時の医学的知識では考えられる限り最良の選択だった可能性はあります。だいたい、根拠が完全にはっきりしている医療しか認めないという仕組みで世の中は動いていませんよ。
    Macskaさんがココまで説明していることは、あまりにも常識的過ぎることですよ。しかしこれにしても、マネーは勝ち誇ったような本を書く根拠がありませんよ。
    どこかで前にも書いたような気がしますけど、マネーは両性具有という言葉で纏めさせてもらいますが、そういう人たちのデータから、男女の性心理は中立だという理論を打ち立てているのです。そして生まれながらにペニスに異常を抱えた男児を性転換させる手術が正当化されていたそうです。
    そして問題のブレンダの件は、脳の中立性を唱えるマネーたちに対する異論、「1965年にダイアモンドは、マネーは性心理の中立性を唱える証拠を一切提示していないと批判した。両性具有の証拠は不適切で(性器がはっきりしないのなら、脳もそうかもしれない)、ヒトの心の性は、モルモットと同じく出生前に決まっている可能性が高い、と指摘したのだ。ダイアモンドは、性心理的に中立であったり、性の「再割り当て」を受け入れたりした正常児を産み出してみろ、とマネーを挑発したのだった。」
    という挑発にのったものであって、Macskaさんが説明しているようなこととはちょっとほど遠いというのかぁ。
    >どう考えても上野さんの専門分野ではないのですが、どうして上野さんを指名するのですか?
    専門分野ではない私がここまで知っているというのは後知恵として割り引いたとしても、マネーの『性の署名』から、何故に「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。」が導けるのかは当然過ぎる疑問だと思うのですがぁ、アレっ、どこか変ですかぁ?

  35. macska Says:

    ラクシュンさん:

    しかしこれにしても、マネーは勝ち誇ったような本を書く根拠がありませんよ。

    こう言っちゃなんですが、マネーは何事も勝ち誇ったように威張る人なのです。

    マネーの『性の署名』から、何故に「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。」が導けるのかは当然過ぎる疑問だと思うのですがぁ、

    それは読み方が間違い。「少なかったのである」というのはマネーを読んだ上野の結論ではなく、「少なかったのである」まで含めてマネーの主張ですね。それを上野は、ジェンダーに関する様々な主張の歴史という文脈で紹介している。ですから、疑問があるなら上野じゃなくてマネーに聞くべき。
    それから、「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」というのは、セックスとジェンダー(マネーの用法では性自認のこと)にズレが存在するトランスセクシュアルの人について語っているからこそ意味を持つわけで、トランスセクシュアルの人以外に通用するのかどうかと問う方がおかしい。これは例えば、新しく開発された風邪薬がよく効くという報告に対して、「風邪を引いた人に効くからといって、風邪を引いていない人にまでその結論が一般化できるのか」と問いつめるようなものであり、ナンセンスです。

  36. 芥屋 Says:

    お、羅生門みたいなのが出てきたな。
    >亜子さん
    >読者の判断にゆだねるのが私は議論における常識的な態度だと思います。
    言われなくてもそうしております。議論が長引いている箇所は、まだ双方がその主題についてお互いに主張があるところだけです。
    >「エントリーは個人的な賛否は当然あっても読むに値するが、コメントは毎回延々と粘着的な水掛け論が続いていて読む価値がない」
    それはあなたにとっての価値問題でしょう。そうした価値判断は見ている個々人がして構いません。しかし自分の価値判断をして討論の中止と異論のある参加者の排除を呼びかけるとは何事ですか(苦笑)。
    なお、
    >最近のエントリーとコメントを読んでいて、自覚症状のないストーカーにつきまとわれている人を見るような思いがしました。
    ストーキングって犯罪行為なんですけど、こうした批判や指摘が犯罪行為だとは、さすがフェミニストですね。
    >macskaさん
    >何名かは、わたしが何と言おうがなんとかして因縁をつけるようとつきまとっている人間ですからね。
    あなたにはあなたの理由があって「改竄だ」と主張したのですが、いや改竄じゃないよ、その理由はおかしいよというという意見に、因縁だのつきまといだのと悪口しか返せなくなったり、相手を貶めるようなことしか言えなくなるようでは、何かを主張して賛否を問う意味はありませんよ。それは賛同者を募るキャンペーンでしかありません。

  37. 芥屋 Says:

    >「差異の政治学」にはわたしだっていろいろと批判はあります。
    私は当該論文を、それなりに叩き台として評価できると思っています。ただし、上野の他の件にも見られるような医科学的見地の誤用が大きな問題をはらんでいる点は、もっと広い視野で考えられるべき性質のものです。そこには、大きな背景を持ったものが表出しているわけですから。それを当論文だけの評価問題、あるいは上野個人の資質の問題であるとか、八木の誤認の問題だとかに収斂させるのは矮小化であって、不適切です。
    >しかし、「差異の政治学」にいろいろな問題点があるからといって、八木氏らのデタラメな批判まで認めることはないでしょ。
    だから医科学的見地の箇所、仲正が八木の論に「反論しなかった」ことが、それを「認めた」ことになるんでしょうか・・・って、ループしてるんですけど。

  38. 芥屋 Says:

    >草師匠
    >社会が多様性を受け入れれば良いだけですわん。
    でもそれだと、結局は本人の意識の問題になっちゃうんですよ。「部落差別とか言うけど、自分の先祖を気にするほうがいけない。差別される人も家意識にとらわれているから悩むんだ。家意識をなくしましょう!」というのと同じで、あまり良くないですよ、それ。
    「本人の意識を尊重しましょうよ!」「社会が多様な価値観に柔軟であれば」は大いに結構。でもGIDの医療費どうすんの?という別の問題もでてきます。あくまで本人の意識や生き方の価値観の問題であれば、それを尊重するのはいいけど、医療保険適用だとかいう話にはならないから。
    要するに「悩んでいる人は、ジェンダーにとらわれているから悩む」「社会が多様性を受け入れれば良い」と考えているうちは、ただ単に生き方とかファッションとか個人的な価値観の問題にしかならんわけですよ。そんで、世の中のせいだ!世の中を変えよう!こういう「生き方」を認めよ!なぜ認めないんだ!っていうシュプレヒコールは、無用の反発を呼ぶだけですって。
    この件については、医療の力を必要としている人と必要としない人が含まれるんだけど、必要ない人はいい、でも必要な人には医療保険を適用すべきだという医学的な見地が成立するかどうかなのね。他人の生き方を認めるとか認めないとか、そんなんじゃなくって、私的な価値観の問題ではないんだよ?という説明こそが求められているのです。

  39. macska Says:

    芥屋さん:
    > いや改竄じゃないよ、その理由はおかしいよというと
    > いう意見に、因縁だのつきまといだのと悪口しか返せ
    > なくなったり、相手を貶めるようなことしか言えなく
    > なるようでは、何かを主張して賛否を問う意味はあり
    > ませんよ。
    賛否なんてどうでもいいんです。バカがバカな理由で賛成するもの反対するのも全く無意味。きちんとした意見であれば賛成でも反対でも同じくらいありがたいですが、あなたの場合とにかくわたしの言うことにケチをつけようとつけ狙っているだけに見えます。
    > だから医科学的見地の箇所、仲正が八木の論に「反論
    > しなかった」ことが、それを「認めた」ことになるん
    > でしょうか・・・
    芥屋さん、「諸君!」の記事を読みましたか? 仲正さんは明らかに八木さんらに同調して上野叩きに積極的に加担していますよ。しかも、「ジェンダーがセックスを規定する」を曲解して八木さんや小谷野さんに解説までして上野さんを叩いている。八木さんが「ジェンダーがセックスを規定する」という言葉の意味を知らないし理解もできないのは仕方がないですが、フェミニズムに造詣の深い仲正さんであれば、賛成か反対かはともかく絶対にその意味を知っているはずだと思うんですが。

  40. 芥屋 Says:

    >ラクシュンさん
    >「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。」
    当該論文の主旨を振り返ります。上野は「ジェンダー」の定義についてスコット流の定義を用いるべきだとします。ジェンダーとは複数ではなく単数であることがわかった、として「男女の違いに関する社会的な知」をジェンダーと呼ぶべきだと結論しています。つまり「個々人のジェンダー」とか「男のジェンダーと女のジェンダー」という考え方は適切ではない、ということですね。
    ここでいったん、マネーや上野を離れて考えてみます。TS臨床例においては、本人も他人も、その人の性器が男女いづれのものかを誤認してはいない。だから従来の「男女の違いに関する社会的な知」としては、その人の性別は身体のままに識別される。ところがこの場合、本人の頭の中での「自分は男か女か」ということが、その人の「身体の性別」(sex)とも「男女の違いに関する社会的な知」(gender)とも反対なのです。
    つまり、こうなります。「その人の外形的な身体が男か女かということで男女の区別をするのが従来のgender(男女の違いに関する社会的な知)であるが、人によっては少数ながら脳内の性別と外形的な性別とが逆転しているsex(身体上の性)の人もいる。」
    そのようにスコット流の定義を医科学的所見と整合させるのであれば、「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」で良いでしょう。たとえば後半部は「その人の外形的な身体が男か女かということで男女の区別をするのが、従来の男女の違いに関する社会的な知である。そして、この人たちは性転換手術を受けることで自分の身体上の性をそれに合わせようとした。つまりgenderにsexを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」となりますよね。

  41. 芥屋 Says:

    私はここで、まだよくわかっていない脳の性差について、TS臨床例をそうだと断定する軽率な判断には慎重でありたいと思っています。ただしあくまで仮定のうえですが、それが脳の器質的なものだとした場合を試みに考えてみました。それは「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」という考え方が成り立つかどうかという試論です。するとこの言葉は(マネーのものだそうですが)、マネーの意図するところを離れ、上野の解釈するところとも逆の意味で成立する可能性はあると思う。脳の性別もまたsexなのだと考えたうえでスコット流の定義を用いるならば、そこで成り立つものではないでしょうか。
    これは私なりの解釈ですが、当の上野は脳の性差という器質的な違いについては否定的な見解を述べ、ジェンダーがセックスを規定しているのだとします。その医科学的な傍証としてマネーとタッカーを挙げるわけです。しかし、TS臨床例が即座に脳の器質的な性差を証するわけではないものの、脳の性差を否定する証拠にもなるはずがない。控えめに言っても、上野が言うような文脈での傍証にはならない。なぜ上野がそれを誤認したのか、それが支持されてきたのか。それが広く考えられてゆくべきだと思っております。
    叩き台としては悪い論文ではないと思います。でも、あれがそのまま上野のネームバリューもあって通用しちゃってるのが、いけないのではないでしょうか。上野の学説としての誤りは誤りとして、誤った学説を出すのがいかんということはないでしょう。上野が強権を用いて批判意見を封じたのではないのですから、それがそのまま通用してきたのは上野個人の責でもないでしょう。

  42. 芥屋 Says:

    >芥屋さん、「諸君!」の記事を読みましたか?
    ううん、読んでないです。熱くなってる・・・という意見があるようですね。すると、macskaさんも喧嘩モードになっちゃってるということでしょうか。だとしたら、喧嘩に口出ししてすいません。でも、あれはやっぱり改竄じゃないですよw
    「諸君!」とか「正論」とかって、苦手なんですよ。あんまり読まないですね。ネットで仲正のインタビューを少し読みました(本件とは関係なし)。なかなか面白かったです。
    >しかも、「ジェンダーがセックスを規定する」を曲解して八木さんや小谷野さんに解説までして上野さんを叩いている。
    曲解も何も・・・。以下はある新聞記事と、それについてのJosefさんのコメント(別板より引用)。私も今、同感なんだよな・・・
    ****************
    >「ジェンダーフリー」という言葉の使用をめぐって各地の自治体などで混乱が生じている問題で、福島社民党党首や女性団体の有志らが5日、「言論や思想の統制につながることのないようジェンダー概念の正しい理解を周知徹底されたい」とする要望書を猪口男女共同参画相に提出した。
    「ジェンダー概念の正しい理解」などというものは存在しないのだからどうしようもない。ましてや「ジェンダーフリー」という和製英語には共通了解など全く存在しない。2ちゃん用語を公的な通達等に使用するなというのと同じレベルの話で、「言論や思想の統制」とは何の関係もありませんね。
    ****************

  43. macska Says:

    芥屋さん:

    上野は「ジェンダー」の定義についてスコット流の定義を用いるべきだとします。ジェンダーとは複数ではなく単数であることがわかった、として「男女の違いに関する社会的な知」をジェンダーと呼ぶべきだと結論しています。

    …うーん。
    あのさぁ、芥屋さん文章の読み方わかってないんでは。
    上野の「差異の政治学」は、ジェンダーが様々な論者によってどのように論じられてきたかを時間を進みながら解説する文章です。そのなかで、例えばマネーのジェンダー論とバトラーのジェンダー論は決定的に衝突しますよね。だから、マネーのジェンダー論として説明してあることはマネーの意見(と上野が思っているもの)、バトラーのジェンダー論として説明してあることはバトラーの意見(と上野が思っているもの)として読むのが正しくて、それら全部をいちいち上野の意見だと解釈するのは明らかな誤読です。って、なんでこんなこと説明してやらねばいけないのか。
    こんな当たり前のことがわからないというところからして、芥屋さんはとにかく上野なりわたしなりにとにかく粘着してケチをつけたいだけだということがよく分かります。そうでなければ、こんなむちゃくちゃな、論理的にありえない読み方ができるわけがない。

    そのようにスコット流の定義を医科学的所見と整合させるのであれば

    単にあなたがスコットの定義を理解していないだけ。スコットの定義を前提にしたうえで、なおかつジェンダーではない「セックス」に関する議論が可能だと思っているとしたら、その時点で大きな勘違いです。
    スコットの定義が理解できるようになりたければ、一言だけ聞いてわかった気にならずにそれなりの勉強をしてください。素人が少し考えて思いつくようなことは、専門家はとっくの昔にさんざん考え尽くしています。もちろん、ごく稀に「専門家には気づかない、素人だからこそ起きるようなヒラメキ」があるのは確かですが、そんなのはそれこそごく稀にしか起きませんよ。

    当の上野は脳の性差という器質的な違いについては否定的な見解を述べ、ジェンダーがセックスを規定しているのだとします。

    「ジェンダーがセックスを規定している」というのは、器質的な性差の有無とは関係ありませんよ。上野だって「差異の政治学」の中でそれを否定するような見解は述べていません。

    控えめに言っても、上野が言うような文脈での傍証にはならない。

    控えめに言っても、あなたは上野の文章の半分も理解していません。
    理解しにくい文章なのは確かです。1995年版(論文「差異の政治学」初出)はまだいいんだけど、2002年版(単行本収録版)はとにかく不可解な書き足しがあちこちにあって論理が破綻しているし、ひどく読みにくくなっています(もしできるなら、1995年版を探してみてください)。それでも、誤解に基づく批判が正しくなるわけではありません。

    叩き台としては悪い論文ではないと思います。

    いや、初心者や一般の人にあんな混乱した文章読ませちゃいけないですよ、やっぱり。ことに2002年版に至ってはわたしが読んでも「ここは何を言っているのか全く見当がつかない」という部分があったくらいで、知り合いを通じて上野さんに直接教えてもらったくらいですから(その返事を聞いても納得できなかった、というかやっぱりあの記述はおかしいんだと確信した)。

    すると、macskaさんも喧嘩モードになっちゃってるということでしょうか。

    いや、先に述べた通り仲正さんは敵だとも喧嘩相手だともおもっていません。同じ粘着質でも、あの人の粘着は芸になっている。というか、本人はそういう自覚がなさそうなんだけれど、芸として楽しめる。わりと好意的に見守っていますよ。だいたい、わたしは上野さんや北田さんと組んでいるわけじゃないし。

    「ジェンダー概念の正しい理解」などというものは存在しないのだからどうしようもない。

    えーとですね、唯一絶対の定義がないというのはその通りですが、学問的に妥当とされている解釈という意味であれば「正しい理解」というのは存在します。唯一絶対でなければ存在しないのと同じというのは暴論でしょ。

    ましてや「ジェンダーフリー」という和製英語には共通了解など全く存在しない。

    こちらに関しては、学問的にも共通了解はないですね。もし使うのであれば、その場その場でどういう意味で使っているのか確認しながら使えば問題ないですが。

  44. ラクシュン Says:

    >こう言っちゃなんですが、マネーは何事も勝ち誇ったように威張る人なのです。 
    それがどうかしましたか?
    >それは読み方が間違い。「少なかったのである」というのはマネーを読んだ上野の結論ではなく、「少なかったのである」まで含めてマネーの主張ですね。それを上野は、ジェンダーに関する様々な主張の歴史という文脈で紹介している。ですから、疑問があるなら上野じゃなくてマネーに聞くべき。
    このように言われてしまえば、直接本を読んでない私には何とも言えません。
    しかしそれにしても、私の論旨は、その「少なかったのである」という結論は、どのようなデータから割り出されたものなのかということなのですよ。
    >それから、「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」というのは、セックスとジェンダー(マネーの用法では性自認のこと)にズレが存在するトランスセクシュアルの人について語っているからこそ意味を持つわけで、トランスセクシュアルの人以外に通用するのかどうかと問う方がおかしい。これは例えば、新しく開発された風邪薬がよく効くという報告に対して、「風邪を引いた人に効くからといって、風邪を引いていない人にまでその結論が一般化できるのか」と問いつめるようなものであり、ナンセンスです。
    そうであるなら、「トランスセクシュアルの人について語っているからこそ意味を持つ」ことを、どのような論拠において引用しているのかということを聞きたかったのですよ。

  45. ラクシュン Says:

    >それから、「セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである」というのは、セックスとジェンダー(マネーの用法では性自認のこと)にズレが存在するトランスセクシュアルの人について語っているからこそ意味を持つわけで、トランスセクシュアルの人以外に通用するのかどうかと問う方がおかしい。
    この点は理解しているつもりです。
    その上での、前々レスということです。

  46. ラクシュン Says:

    >インターセックスの症状を持って生まれてきた子どもについては、当時手術をせずにそのまま育てるのは子どもの利害に反すると考えられていたので、(…)
    うっかりしていて話が相前後しますが、『差異の政治学』に書かれている状況というのは、自己決定権による大人の選択じゃないのですか?

  47. バジル二世 Says:

    あのさぁ、芥屋さん文章の読み方わかってないんでは。

    いや、文章の読み方が分かってないのはmacskaさんのほうだと思いますよ。macskaさんが引用していた講演↓
    http://subsite.icu.ac.jp/cgs/pdf/ueno2.pdf
    でも、芥屋さんの言ったのとほぼ同じような説明が出てくる(P1,2)。つまり、ジェンダーとは社会・文化的性差とは言えず、スコットの定義がもっとも的を射ているという意味でです。

  48. バジル二世 Says:

    あっ、忘れてましたが、以前のマンション住人です。