「トロッコ問題」という不完全な思考実験、そして宮台真司さんの勘違いとマーク・ハウザーの不正行為

2010年11月14日 - 12:01 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

史上空前のトロッコ問題ブーム(当社比)に便乗しての第三弾いきます。というのはもちろん冗談だけれど、「『消極的義務』の倫理――『トロッコ問題』の哲学者フィリパ・フットとその影響」およびその続編「『トロッコ問題』記事への追記――思考実験の功罪、ダブルエフェクト原理、フィリパ・フットの真意」はシノドスのメルマガおよびブログ(シノドスジャーナル)用の原稿として書いていたので、シノドスの記事でとりあげるまでもないネタというか、本筋からあまりに外れてしまう話は書かないでいたので、それを自分のブログだけで書いてしまおうという話。てか、ほんとに内容は大したことないけど。

今回とりあげるのは、ちょうどシノドスメルマガにわたしの最初の記事が掲載されたのとほぼ同時に、社会学者の宮台真司さんが自身のブログに掲載したエントリ二つにおいて「トロッコ問題」に言及していた件。宮台さんは出版前の原稿や対談の自分の発言部分を自分のブログによく掲載していて、日本で出版されている雑誌を読む機会がないわたしにとってはとてもありがたいのだけれど、まずは宮台さんが中森明夫さんと行ったトークイベントにおいて、中森さんが「トロッコ問題」に言及したのを受けての宮台さんの発言。最終稿は『週刊読書人』に掲載されているようです。

中森さんが引用した「トロッコ問題」は、昔から倫理学者が持ち出す、生物学者マーク・ハウザーの思考実験。ハウザー自身、道徳判断が理性(帰結主義的合理性)によらないことを思考実験から導き出します。サンデルも同じです。加えて、待避線に入って1人轢く事例と、デブを突き落としてトロッコを停める事例とを較べ、後者の方に抵抗感を感じる者が(どこの国でも)多いことに注目して、先に述べた「越えられない壁」問題がいたるところに偏在することを示す。でも「越えられない壁」を否定的に捉えず、そもそも社会を営むとはそういうことだと思考を逆転します。

9月末日、中森明夫氏と彼の新作小説出版を記念するトークをしました(東京堂書店)- MIYADAI.com Blog

続いて、宮台さんと大澤真幸さんとのトークにおいても、ふたたび「トロッコ問題」に言及している。こちらは『O』というムックに掲載されるとのこと。

「皆が幸せになれば個人は幸せになるか」という問い。語義通りなら「個人は皆に含まれる」ので幸せになるはず。でもそれは違う。どんなに良い社会になっても個人は幸せにならない。少なくとも幸せにならない個人が相当存在する。それが事実。

 そのことのスペシャルケースがトロッコ問題じゃないかと感じます。五人を救うために待避線へとポイントを切り替えて一人を殺すことを肯定できない人が一定割合必ず存在する。僕も含まれます。そうやって五人を救っても僕は幸せになれません。

ツイッター上の都合から大澤・宮台対談の極く一部を掲載します。 – MIYADAI.com Blog

宮台さんが言わんとしていることには、わたしも共感する。でも気になったのは、宮台さんがフィリパ・フットによるこの「トロッコ問題」を、「生物学者マーク・ハウザーの思考実験」と描写している点。ただでさえ女性哲学者の功績は無視されがちなのに、「トロッコ問題」のように学問領域を超えて多くの研究者や論者たちのイマジネーションを喚起するという圧倒的な影響を残したにもかかわらず、それを提起したのがフットであったということが忘れ去られがちであることは残念。

もちろんそれは女性差別のせいだとは限らないし、ましてや宮台さんが女性差別者であり女性研究者の功績を認めたくないがために、あるいは女性がそれほど大きな功績を残したとは受け入れがたいために、マーク・ハウザーという男性の功績だと思い込んだとは、誰にも断定できない。そういう差別の存在は、大きな傾向としてたとえば「女性の研究者の功績が軽く見られたり、男性の研究者の手柄にされたりしがちである」ということが言えたとしても、個別の例について「これは女性差別である」とはなかなか判別できない。でもそういうパターンに当てはまる一つのケースとして、宮台さんの勘違い――ツイッターで指摘したら、すぐに本人が間違いだったと認めた――には嫌な思いがした。

だいたい、同じ勘違いをするにしても、「トロッコ問題」をハウザーが考え出したと書いてしまうのは、学者としてかなり恥ずかしい勘違いじゃないかと思う。もしこれがたとえば、フットではなくジュディス・ジャーヴィス・トムソンの功績だと勘違いしたのだとしたら、それは別に恥ずかしくもなんともない。トムソンも女性だから、女性差別的だという批判も当たらないしね。どうしてトムソンだと勘違いするのは恥ずかしくないかというと、フットが考案した「トロッコ問題」は思考実験として不十分で、トムソンによる改訂を受けたおかげでようやく広く受け入れられるようになったと考えられるからだ。

フットの考えた「トロッコ問題」オリジナルバージョンは、トロッコの先に作業員が五人、待避線に作業員が一人いて、あなたが運転手なら進路を変えて待避線に進むべきかどうか?というものだった。そして彼女がこれと対比したのは、最初の記事で紹介した「無実の人が暴徒によって吊るし上げられようとしている」ケースだ。あなたは無実の罪で追われている人をかくまっているが、暴徒がかれの身柄を引き渡せと要求しており、引き渡せばかれ一人がリンチによって犠牲になるが暴動はおさまる。引渡しを拒否すれば、暴動が悪化して五人の犠牲者が出る。

フットがこの思考実験によって明らかにしようとしているのは「消極的義務」と「積極的義務」の違いのはずだが、この対比はそれを示すのに適切だろうか? 状況が違いすぎて、いったい何を実験しようとしているのか分からないのではないだろうか。科学的な実験では、たとえば薬の効果を調べるのであれば被験者を二つのグループに分けて一方にはその薬を、もう一方には偽薬を与え、効果を比べるというような、対照実験を行う。思考実験においても、できるだけ似通った状況を作り出したうえで、調査したい部分だけを変化させるほうが望ましいだろう。その点で、フットの「思考実験」は対比される状況が違いすぎるという欠点があった。

トムソンはこれに対し、「五人の作業員を轢き殺そうとしているトロッコの上の方に立っている大きな男を線路の上に押し出して、かれを犠牲にすることでトロッコを止める(五人を助ける)ことは認められるか?」という「トロッコ問題」の亜種を作り出すことによって、思考実験としての「トロッコ問題」の精度を大きく向上させた。オリジナルとより近い設定において細部だけ変えることによって、より厳密にその小さな違いが人々の判断にどういう違いを引き起こすのかを観察できるようになったのだ。そういう意味では、「トロッコ問題」を考えたのはフットだけれど、それを思考実験として完成させたのはトムソンだと言っていいかもしれない。だから、「トロッコ問題」をフットではなくトムソンの功績だと思った人がいたとしても、それはそれほど恥ずかしいことではない。

でもハウザーだというのはあまりに問題外。そもそもハウザーが「トロッコ問題」を研究に援用したのはここ五年くらいの話で、それに対してフットのオリジナルは一九六〇年代に出版されて以来、さまざまな分野において多数の研究者によって参照されている。「トロッコ問題」を考え出した人が誰なのかを知らなくてもそれ自体は恥ずかしくないけれども、何十年にも及ぶ研究の蓄積について何も知らなくて、たまたまここ数年で見かけた研究をオリジナルだと思い込んでしまったとしたら、こんなに恥ずかしいことはないだろう。宮台さんがどういうつもりでハウザーの思考実験だと言ったのかはよく分からないけれどね。

で、そのハウザーの研究に話は移るけれども、かれはトムソンが行った「思考実験の緻密化」をさらに先に進めて、細かく状況の異なるさまざまな「トロッコ問題」や同種のジレンマのシナリオを多数考え出し、それを人々に回答させることによって、人々が漠然と感じている道徳観はどういう状況や条件に影響されるのかを明らかにしようとした。たとえばトムソンの考え出した「大きな男を線路に押し出す」例にしても、自分の手で背中を押すのか、それともボタンを押したらその人が立っている床が抜けて線路の上に落ちるのかでは、人々の回答は変化する。その結果かれが報告するのは、以下のとおり。

1)行為原理:何らかの行為をすることによって起きた危害は、何もしないことによって起きる同等の危害よりも、道徳的に問題がある。

2)意図原理:目的を達成するための手段として意図された危害は、予見されたとしても意図的ではない副次的な危害よりも道徳的に問題がある。

3)接触原理:身体的な接触によって危害をもたらすことは、身体的接触を伴わずに同等の危害をもたらすよりも、道徳的に問題がある。

これらの原理は、多くの場合人々が意識して道徳的判断の基準としているものではない。けれども、さまざまなシナリオを提示して「この行動は容認できるか」「この行動はどうか」と聞いていったときに、どういう状況であれば道徳的に容認できるのかという判断を積み重ねていくと、これらのパターンがはっきりするとハウザーとかれの共同研究者たちは報告している。

これらの研究はとても興味深いものなのだけれど、宮台さんがいまこの時期にマーク・ハウザーの研究を好意的(ていうか、フットの功績までかれのものにしてしまうのは好意的すぎるが)に紹介するのは、それとは別の意味でとても勇気がいる行為。というのも、ここ数カ月のあいだにこのハウザーという学者は、所属するハーヴァード大学の調査に対して、研究における不正を認めて謹慎処分を受けたばかりだからだ。日本語ではジャーナリスト・社会学徒という粥川準二さんの「みずもり亭日誌2.0」に詳しいが、ハウザーは霊長類における道徳感の発達についての研究において、データの捏造と思われる不正をしたことを指摘され、すでに出版された論文を数本撤回させられている。

ハウザーはかなり名前を知られた大物学者であり、ハーヴァード大学心理学部の有名教授の一人だから、かれによる学問上の不正発覚は大学業界ではかなり大きなスキャンダルだ。学者の話が一般メディアの記事になることなんてそんなにないのに、たまたまこの時期メディアを騒がせたフット(十月初めに亡くなり追悼記事が多数出た)とハウザー(不正発覚がメディアで取り上げられた)を取り違えるなんて、宮台さんもタイムリーな勘違いをしたものだ。まあ勘違いも恥ずかしいけれども、道徳研究のエキスパートが不正を指摘されるのもかなり恥ずかしい。

さて、ここで気づいたと思うけれども、ハウザーの主な研究対象はもともと霊長類というかサルであって、人間ではない。トロッコ問題を援用した研究では人間の道徳感情を研究しているけれども、かれの本業はあくまでサルの研究であり、もっというとサルから人類に繋がる道徳の進化心理学的研究だ。そういうハウザーは、たしかに宮台さんが言うとおり「道徳判断が理性(帰結主義的合理性)によらない」ことを示しているけれども、かれは決して宮台さんが思っている(ように思える)ような、情動的あるいは実存的な方向に議論を進めようとはしていない。帰結主義(結果主義)的合理性によらないとしても、『予想通りに不合理』(ダン・アリエリー)なのであり、それは当然、進化心理学的に(すなわち合理的に)説明・予測が可能なものだとハウザーは捉えているだろう。

そのあたり、宮台さんの説明はフットの功績をハウザーのものだと勘違いしてしまったばかりか(何度も言うように、この点はすでに宮台さんが間違いを認めて撤回しています)、そのハウザーの研究についても結局自分の言いたいことを言うためのダシとしてしか見ていないような気がする。ハウザーはハウザーでおもしろいんだけどね。ところで誰か『週刊読書人』を見た人がいたら、出版されたバージョンでハウザーのあたりが修正されているかどうか教えてください。

というわけで、そろそろ本当にネタ切れ。次は、思考実験シリーズとしてまた別の思考実験をいろいろ紹介していくというのもおもしろいかもしれないな。てか真面目に書かなくちゃいけないことたくさんあるんだった!

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