一般化する「成長抑制」医療−−子ども1000人に一人が対象?

2009年1月28日 - 3:33 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

年末以来、続けて病気になったり関わっている団体のグラント書きを突然任されたり(もともと担当だった人の家族が入院してしまったので仕方なく手伝った)、いろいろ忙しくて書きたいネタはあるのにブログを更新できなかったのだけれど、これだけは重要なので書いておく。というのは、先週金曜日(1月23日)にシアトルのワシントン大学において開かれた、成長抑制療法についてのシンポジウムについての報告。
成長抑制療法については、ワシントン大学(シアトル子ども病院)で行なわれたケース(アシュリー症例)がきっかけとなって2007年に大きな議論を巻き起こした経緯があり、わたしは当時同大学で開かれたシンポジウムにも参加してその報告を以前にも前編後編にわけて書いた。今月のシンポジウムでは、その前回のイベント以来、シアトル子ども病院が招集したワーキンググループで進めた議論について医者らから報告がなされた。
ワーキンググループはワシントン大学の医学者や哲学者、法学者らを中心に、全国から著名な生命倫理や障害学の専門家を集められた。ただし、障害学を専門とする学者はいても、成長抑制療法に激しく反発してきた障害者運動の代表は含まれておらず、障害児を持つ親の代表者が含まれていたことと対称的だった。ワーキンググループ運営者の一人であるワシントン大学の Benjamin Wilfond 医師によると、グループの参加者たちははじめ成長抑制について様々な意見を持っていたが、議論を通してお互いの意見を尊重し、妥協点を見出すことができたという。その妥協点の一つが、多くの参加者は成長抑制に対して不快感を感じているが、一定の基準を満たした重度障害児の親がそれを希望するなら妨げるべきではない、という合意だった。
重度障害児というが、どの程度の障害であれば成長抑制療法の対象となるのか? Wilfond によると、基準は次の通りだ。(1)運動能力をほとんど持たないこと、すなわち食事や排泄をはじめ生活の全てにおいて介護を必要としていること。(2)コミュニケーション能力をほとんど持たないこと。(3)それらの状態が、恒久的だとされていること。ここで気になったのは、知的障害の程度が条件に含まれず、その代わりに「コミュニケーション能力」という、広汎性発達障害を思わせる要件が含まれていることだ。アシュリーの知的発達は3〜6ヶ月の赤ちゃん程度とされており、それが「成長抑制によって精神的に傷つくことはない」理由とされていたはずなのだが、これはより知的障害の程度が低い子どもも対象に含めることになるのではないか。
前回のシンポジウムでは「滑り坂理論(厳密な条件のもとであっても、一旦成長抑制を認めると、いずれ対象範囲が拡大する、という懸念)は当てはまらない」と言っていたはずなのに、いきなり坂を転げ落ちているような気がする。Wilfond の試算では、成長抑制の対象となるのは子ども1000人あたり一人の計算となり、これは米国で毎年4000人にも相当する。インターセックスの子どもに対する性器形成手術の倍だ。もちろん、全ての親が成長抑制を希望するわけではないから、実際にこの療法を受ける子どもはそれより少ないだろうけれど、いずれにしてもわたしが思っていた以上に大規模に行なわれることになる。ってわたしが楽観的すぎただけですか? 医者らによれば、効果的に
ホルモンを使った成長抑制療法は、必ずしも新しい手段ではない。1950年代には、身長の高い親のあいだに生まれた女の子たちの身長が高くなりすぎないように、ある程度成長した時点でホルモン投与を行なってそれ以上の成長を抑止するということが行なわれていた。それは、身長が高過ぎる女性は男性の自尊心を脅かすので結婚相手がいない、という当時の社会状況を原因とするものであり、1960年代になって活発となった第二波フェミニズムの影響を受けて次第に行なわれなくなった。また、成長抑制療法のスポークスパーソンとして活発に講演や執筆を続けるシアトル子ども大学の Douglas Diekema 医師は、アシュリー症例を報告していらい方々の医者から「自分のところでも同じことをした」という報告を受けているという。しかし、「子どもの成長」を最大の使命とする小児医学において、成長抑制がスタンダードな医療として提供されたことはこれまで一度もなかったわけで、成長抑制が一般的な医学的な選択肢の一つとなることの社会的影響は大きいのではないか。
たとえば、成長抑制の利点の一つは、親が重い障害のある子どもの世話をするのがより容易になるということだ。そうだとすると、重度障害児を抱える家庭に対する社会的な支援にかかるコストも当然軽減される。成長抑制療法の支持者らは、成長抑制が社会保障費の節約に繋がるという点をあまり主張しようとはしないが、一旦成長抑制が一般的な医療の一部として提供されるようになれば、より社会保障費を削減するために、子どもの成長抑制に親を「合意」させるような社会的・経済的な圧力がはたらくことは十分に考えられる。ここで圧力というのは、誰かがそう指示をするという意味ではなく、成長抑制が一般的となった社会においては、その療法を受けずに年齢相応に成長した人の介護にかかるコストは削減されていくだろうということだ。ところがワシントン大学の哲学者 Sara Goering はこの点について、「成長抑制によってコストが軽減されるとは限らないし、仮に軽減されるならそれは成長抑制の利点ではないか」とはぐらかす。
成長抑制療法の悪用を防ぐ手段として、Wilfond らは三つの仕組みを提示する。一つ目は対象範囲を明確にすることであり、二つ目は「強力な」インフォームドコンセント、そして三つ目は審査プロセスだ。対象範囲については既に書いた通り、既に広がり始めているように思うし、そもそもワーキンググループのメンバーたちが明確に理解しているとも思えない。というのも、医者たちは成長抑制の利点を主張するときには、家族とともに外出できるから本人の利益になるのだと、コミュニケーション能力を持たず重度の発達障害のある本人がそれを喜ぶという前提で話をしているのだが、成長抑制による弊害について話す段階になると、当人たちはアシュリー同様弊害を認識するだけの知的能力がないので問題ないと言う。いったいどの程度の知的障害のある子どもを対象としているのか、一貫性がないのだ。
「強力な」インフォームドコンセントについて、ワシントン大学の生命倫理学者 Denise Dudzinski は、成長抑制療法の利点とリスクを説明するだけにとどまらず、同じような障害のある子どもを持ち、成長抑制を選択した親やしなかった親らの話を聞く機会を設けるべきだと言う。また、成長抑制療法に反対している障害者運動の人たちの主張についても親に理解させたうえで選択させるべきだと言う。 Dudzinski は、これらの基準はインターセックスの手術をめぐる議論から影響を受けているとしているが、そのインターセックスの問題においてインフォームドコンセントのあり方を議論してきた立場からすると、紙の上で「インフォームドコンセントはこうあるべきだ」という合意ができたとしても、その先進的な部分はほとんど実施されないのが現実だ。
審査については、大きくわけて医療機関内部の倫理委員会にかける案と、過去に倫理委員会が障害者に対する強制的な不妊手術を横行させてしまった前例(アシュリーの件もそうだった)に鑑みて、法廷の判断を仰ぐべきだとする案がある。ワーキンググループのメンバーは医療関係者・大学関係者だらけであり、当たり前のことながら、法廷の指示を受けたくない、倫理委員会で十分だ、との結論を出した。しかし法廷における審査と倫理委員会の裁定には一つ大きな違いがあって、それは法廷では「敵対的審査」を行なうことができるという点だ。敵対的審査というとものものしいけれども、それが意味することは、法廷によって子どもの権利を守るために任命された弁護士が、治療に対するできる限り強力な反対論を繰り広げるということだ。つまり判事は、医者や親による賛成論と、法廷に任命された弁護士による反対論を聞き比べたうえで、どちらにより説得力を感じたかによって判断することができる。それに対し倫理委員会では、委員全員が判事の立場になるために、具体的な反対論を考慮する機会のないまま、賛成論だけを聞いて判断する恐れがある。
そこでわたしは、質疑応答の時間に「法廷における敵対的審査と似たような仕組みを、倫理委員会の中に設けてみては良いのではないか」と質問してみた。つまりたとえば、障害者の権利を専門とする弁護士あたりを雇って、倫理委員会の中で反対論を繰り広げてもらった方が、最終的により優れた結論を出せるのではないかということ。でも Wilfond らはこの考えが気に入らなかったらしく、倫理委員会が十分に多様であれば、さまざまな視点からの考えが提示されるので問題はない、と言う。とりわけ、Wilfond は以前は障害学の見解にあまり意義を見出していなかったけれども、ワーキンググループでの議論をとおして障害学の視点の重要さを学んだ、と言っていた。
問題は、そのワーキンググループや倫理委員会が Wilfond の言うほど多様ではないことだ。たしかにそれらのグループには障害学を専門とする学者が何名か含まれているが、障害学と障害者運動はまったく同じではない。障害学の学者たちは、障害についてのオルタナティヴな視点を持ち込むことはできるだろうが、それでもかれらは学問のプロフェッショナルとして、障害者の利害と親の利害のバランスをどう取るかという考え方をしてしまう。障害者の利害をただひたすら主張する、障害者運動の代表者は含まれていない。一方、障害児を持つ親たちの代表者はそれらのグループに参加しているけれど、その代表者たちは障害者一般の利害などほとんど考えもせず、「自分たち重度障害児を持つ家族」の利害だけをひたすら主張する。つまり、シーソーの片方には親の代表者がずっしり座っているのに、障害学の学者たちはシーソーのもう一方の側ではなく、中央の支点に座ろうとしているのね。それは学者のあり方として正しいけれども、そのアンバランスによって結果的に障害者の利害がないがしろにされてしまう。
Wilfond もその他の医者たちも、障害学の視点はとても重要だとリップサービスを惜しまない。しかしそれは同時に、「障害学」という学問のフィルタを通すことで、その学問を生み出したはずの運動を遠ざけ、自分たちの権利を守るために運動している障害者たちを議論から排除するための道具になっているように思う。現に、前回のシンポジウムでは何人か障害者運動の関係者が発言を認められただけでなく、会場にも多数の運動当事者らが集まっていたのに、今回のシンポジウムでは一人の活動家も見当たらなかった。前回のシンポジウムに参加した人全員にメールで案内を送っていればそれだけでも多数の当事者が集まったはずなのに、それすらも無かった。どうやら、医者たちが歓迎するのは、物わかりのいい障害学の学者たちだけであり、障害者たちが日常感じる実生活上の苦しみや怒りから切り離された、理論化された「障害学の視点」だけらしい。
シンポジウムの終盤では、障害児を持つ母親たちが続けて何人も発言した。ある人は、娘の身長が4フィート(約1.2メートル)を越えた頃から夫が娘を持ち上げて肩車することが困難になり、いらい家族で揃って散歩に行くのも難しい、と訴えた。移民でもある別の女性は、自分の生まれ故郷に住んでいる親戚に子どもを会わせることができないのが辛い、と言った。何人かの女性は、「障害学の視点」を述べる学者たちに向かって次のような(もっともな)不満を述べた。「障害児を抱える家庭を社会全体がもっとサポートすれば問題は解決するだなんて、これまで何年待ったと思っているんだ!」
もし仮に何かの奇跡が起きて、社会が障害児のいる家庭をきちんとサポートするようになったとしても、それでは不十分かもしれない。介護支援の人やさまざまな介護用具は確かに便利だけれども、理想的な状況においてすらそれは家族水入らずの団欒と同じではないし、自分の手で子どもの体を持ち上げて支えることとも違う。障害学では、障害とは個々の身体に宿る医学的な状態ではなく、社会的に作られた制度や優先順位によって生み出される、社会的公正に関する事態であるとしているが、このシンポジウムに来ている親たちはそうした理論にまったく説得力を感じていない。ある母親はこう問いかける。「対象範囲が決まったということは、ようやくこの医療が現実となると思っていいのですか? 単なる哲学的な議論ではなく。」
わたし自身も、全体のバランスの中でみんなの利害をなんとか調整しようという考え方をしてしまうタチなので、単純に成長抑制療法は常に悪であり障害者の尊厳を傷つける、という言い方はできない。親の言い分に障害児を永遠に子どもとして抱え込もうとする考え方を見出し不快感を感じつつ、現実問題として親が負わされている負担を思うとかれらの意志を一概に否定もできない。親たちが、障害学が唱える「社会変革」にかれらが何ら希望を見出せないのも仕方がないと思う。それでも、成長抑制がスタンダードな医療として一般化することの弊害がどれだけあるのか分からない。社会の都合に合わせて障害のある身体、クィアな身体を変える風潮は賛成できないし、障害者が「社会にかけている負担」を減らすよう迫られるのもおかしい。ワーキンググループがこれ以上「滑り坂」を転げ落ちないという保証もない。
誰もが納得するような解決策はわたしには思いつかないけど、成長抑制療法のあり方をめぐる議論から障害者運動が排除されている現状だけは、成長抑制が一般的な医療の一部として当たり前の光景となり、何千人もの子どもたちが十分な審査や制限もなく成長する機会を奪われる前に是正しなくちゃいけないと思う。
【追記】親の反応に対して、ブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」の方が重要な指摘をしている。上記とともにぜひご覧下さい。

2 Responses - “一般化する「成長抑制」医療−−子ども1000人に一人が対象?”

  1. 結城 Says:

     アシュリー。 あなたのアシュリーについての本、(レポート?)は、まとまったかたち、紙媒体だと、どこで読めますでしょうか? 明石書店にはない模様なのですが。不躾非礼多謝、2年ぶりに訪問、拝読しました。PC自体を私生活から排していましたので。

  2. 結城 Says:

    つづけさせて下さい。件の日本語での理解は「医療」の語でおちついているのでしょうか? 私は「施術」が昔日第一感でしたし、纏肢、身体変工、ミュータント、どぎつく「幼童(あるいは幼態)強制」施術が採られると踏んでいたのですが。

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